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『月夜に時おでん 』
本郷・源1108

 だしの香りをたっぷりと含んだ湯気の中で、嬉璃はふう、と満足げに息を吐いた。実際、気分は良い。満腹じゃ、と呟いた彼女の前には、一合の銚子が三本と、空になった椀があった。
「いかがでしたかの?久しぶりのおでんの味は」
 聞いたのは、本郷源(ほんごう・みなと)。小学生にしていくつもの店を切り盛りすると言うこの少女は、このおでん屋台、『蛸忠』の店主でもあった。嬉璃はうむ、と頷くと、
「美味かったのぢゃ!やはりおでんの季節なのぢゃ!」
 と笑った。
「そうであろ?良い季節になったものじゃ」
 嬉しそうな源の顔を、嬉璃もまた喜ばしく思いつつ、懐を探った。そろそろ勘定を、と思ったのだ。それに気づいた源が、おお、と眉を上げる。
「嬉璃殿、お帰りか」
「そうなのぢゃ。ちと飲みすぎたのぢゃ」
 またまた、嬉璃殿にはまだ序の口であろう、と言う源に、いやいや、と笑いながら嬉璃がガマグチを取り出した所までは、いつもと何も変らぬ光景だった。普段なら、そこでちゃりんちゃりんと嬉璃が勘定を払い、店を後にするのだが…。
「全部で、ええと、千九百円じゃ」
源に言われ、ガマグチの中を覗いた嬉璃は、う、と言葉を詰まらせた。中身は千八百円。要するに、百円足りない。
「嬉璃殿?」
 嬉璃の様子を不信に思ったのだろう、源が首を傾げる。びくり、と顔を上げた嬉璃は、
「いや、何でも」
 と微笑んで、まずは千円を出した。ええい、ままよ!と彼女は覚悟を決めると、その千円札の上に
「まずは一つ」
 と数えながら百円玉を乗せ始めた。嬉璃が苦し紛れに思いついたのは、時蕎麦ならぬ、時おでん。じっとりと着物の背に嫌な汗をかきながら、あの有名な小噺を源が思い出さずに居てくれる事を願った。時刻は夜の十時近く。江戸の時制で言えば夜四ツ、と言った所だ。だが、このやり方ではすぐにばれてしまう。嬉璃は台の向うに置いてあった、四角い箱に素早く狙いを定めた。二つ、と置くふりをして、千円札ごと箱の中に落とす。
「あっ…」
 二人は同時に声をあげ、慌てて戻そうとしる源を、嬉璃は良い良い、と止めた。
「どうせその中に入れるのぢゃ。構わぬであろ」
「まあ、それもそうじゃが…」
 首を傾げる源に、一瞬つうと冷や汗を垂らしたが、ここまできては退く事は出来ない。嬉璃は小さく息を吸うと、
「時に、源」
 と、顔を上げた。
「何じゃの?嬉璃殿」
「今、何時なのぢゃ」
「…」
 源はすぐには答えず、何とも言えない空気が漂った。一瞬ばれたか、と顔を強張らせた嬉璃だったが、源は身をよじって店先に置いた時計を見ると、にっこり笑って、
「九時半じゃ」
 と答えた。
「そ、そうか…」
 ばれては居ない。ほっと胸を撫で下ろした嬉璃だったが、源の答えは彼女の望んだものとは少々違う。ここでは『夜四ツ』と答えて貰わねば話が成り立たぬのだ。とは言え、源は形や言葉遣いこそ古風だが、れっきとした現代人。江戸の時制を求める方が無理かも知れない。はてどうしたものか、と考え込みかけた所で、ふいに源が、
「じゃが、江戸の昔ならば…」
 と呟いた。嬉璃の目がきらりん、と輝く。
「む、昔ならば…?」
「じき、夜四ツ、と言う所じゃろうなあ」
 よし!よくぞ言ってくれたと言いそうになるのをぐっと堪えつつ、数え出そうとした嬉璃だったのだが…。
「そろそろ、わしも店じまいをせねばなあ」
 などとまた源が呟いて、遮られた。
「そ、そうなのぢゃ。夜も遅いのぢゃ」
 と、答えつつ、くう、と歯軋りをする。だが、そんな嬉璃に構う事無く、源は勘定の続きをしようとする。
「ええと、先ほど幾つまで数えたかのう」
 覚えておらぬのか!と心の中で拳をあげつつ、嬉璃に、源がさり気なく聞いた。
「あ、嬉璃殿。すみませぬが、卵は幾つ残っておるじゃろうか。ここからではよう見せませぬ故、数えてはもらえぬじゃろうか」
「へ?」
「へ、では無うて、卵じゃよ、嬉璃殿」
 はあ、と首を傾げつつ、鍋の中を覗いて三つ、と答えた所で、はたと気づいた。これは、もしや…。
「ではちくわは?」
「み、源殿…」
「わしでは無うて、ちくわの数じゃよ、嬉璃殿」
 間違いない。源は気づいているのだ。嬉璃の企みに。普通ならここであっさり諦めるものだろうが、生憎と嬉璃は大の負けず嫌いだ。ふうむ、と首を傾げつつ四つと答え、すかさず、
「おや、ビールの残りも見ておいた方が良いのぢゃ。おんしの後ろにあるのぢゃ」
 と聞き返した。
「そうじゃな、ほう、ビールは四本残っておる」
 素直に答えたものの、源も黙っては居ない。
「ではつみれは幾つじゃろ」
 と聞き返す。嬉璃が二つ、と答え、今度は逆に、
「ほう、では銚子は何本余って居る」
 と聞き、四本と答えた源が
「ああ、ではちくわは何本かのう」
 とのんびりと切り返す。
「一本ぢゃ!おおっ、源、あそこに人が来る、何人居るかの」
「四人じゃな、嬉璃殿。ではこの屋台の車輪は幾つかご存知か?」
「二本ぢゃ!…くっ…おお、あれにおる犬の足は…」
「ほう、ああ、あんな所に蝙蝠が!蝙蝠の足は…」
 繰り返される数問答には際限が無く、二人が力尽きるまで続けられた。そして、三十分後。人通りも少なくなった通りには、二百円の借金証文を手に首を傾げつつ帰っていく嬉璃の姿があった。
「何故ぢゃ。足りぬのは、百円だった筈なのぢゃ…」
 その後姿を見送って、やれやれと溜息を吐いたのは、当然ながら蛸忠の店主、源だ。
「全く。そのような手、他の誰に通じようとも、わしには通じぬぞ、嬉璃殿」
 源が嬉璃の企みに気づいたのは、無論、『今何時ぢゃ』と聞かれた瞬間だが、彼女の所持金が足りないらしい、と言う事は、嬉璃が財布を開けた瞬間に見抜いていた。中身が見えた訳ではないが、表情で分かる。彼女とて、遊びで屋台を引いている訳ではない。金が足りぬ時の客の顔は一発で分かるのだ。ついでに言えば、銭の数は落ちる音だけで分かる。むげに看破してみせるのも興ざめと思い、付き合ってみたのだが。嬉璃は気づいただろうか。彼女がすっかり熱くなった頃を見計らって、源はわざと答えを間違えたのだ。四つと答えるところを、一つ、と。そこでふいに話を勘定に戻したのだ。二百円足りぬと言った時の嬉璃の顔は、しばらくの間、忘れられそうにない。
「素直に足りぬと言うてくれれば良いものを」
 屋台をすっかり仕舞い終え、歩き出した源の背を月が照らす。
「しかしながら…」
あやかし荘への道を辿りつつ、源はふあああ、と一つ欠伸をし、今頃部屋で証文を手に悔しがっているであろう友を思って、またくすっと笑う。
「中々面白き夜であったよ、嬉璃殿」
 百円は、源に嘘を吐こうとした罰金だ。友人だからと言って、この借金を帳消しにするつもりはサラサラ無いが、次は玉子の一つもおまけしてやっても良いかも知れない。

<終り>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
むささび クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年10月25日

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