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『掌 』
3009


 夜も明けきらぬうちにふと目覚める、それはよくあることだった。
 そんなとき、まず現の覚えを知らしめるのは、掌にかたく伝わるどこまでも冷えきった刀の感触。瞼を上げるより先、躰は無意識下に腕を動かし手を伸ばし、いつもそこにある存在を握りしめる。そうして、ひと息。しめやかな夜に尚かそけし衣擦れのうちに、五感は己を取り巻く世界を迅く駆け違和の在処を探る。
 結。――何も、ありはしない。
 異常の皆無を確かめてから、馨はようよう目を開け身を起こす。片手におさまった刀、さり、と僅かに鐺を畳に滑らせ、下緒がぱらりと同じく地を打った。
 何も、起こらぬ。
 もう幾度も思うたことを今も重ね、指のひとつひとつ、順に刀から外してゆく。離しとげると、名残惜しく指先虚を掻くよう揺れて、それを自覚する前に馨は些か乱暴に床に戻った。

 ***

 なだらかな坂をくだる。聖都においていちばんに高い建造物であるエルザード城から続く道、そこからは都の町並み一眸に、先に広がる陸に対する海渺茫、末に向けた視線をついと上げれば、天空の青さが途端に迫る。空の海、薄雲剥いてぬうと進みゆく帆船は、街と坂と馨の上を航行していった。そのすぐ後を、おおきな影が地をも走る。束の間訪れた薄い翳りに、馨は足を止め、意もなく影が過ぎ去るのを待った。
 空を船が渡ろうとも驚くに値しない。既に見慣れた景色である。
 この世界に初めて触れたときにさえ、そういえば自分は駭然としただろうか、と考えた。が、即座に否と裡に返る。驚きより前に、成程ここはそういう場処なのか、と、納得したのだろう。そうして思考は冷静に、この世界についての情報を収集し始める。志士の姿はどうにも合わぬと判ずればあっさりと衣を替え、躊躇いなく髪を落とした。今ではソーンに永い時在るひとのようだと、こちらの友は云う。
 いつでもそうだ、と音なく呟く。
 それが己のシンに真ッ向から反するものでない限り、受け入れる。そのシン――信・芯・心――も揺るぎなきものかと問われれば、自分は迷わず首肯できるのか。
 己はなにものにも変ずることができるが、どう変化しても、畢竟はなにもかわっていないのかもしれない。あるいは、なにものでもないものが、己なのか。
 ひかり。黒眸に緑の色合いが混じる。影を抜けかっと降る陽光に、僅かながら眼を細め、馨はふたたび歩を進めた。
 そこへ刹那、旋風が傍を過ぎる。
 あまりにも小さなそれは、馨の腰の高さほどしかない。軽快な跫音はあっという間に後姿へ、往来の人々の波をうまく縫って消えてゆく。子供だ。何とはなし目で追えば、後ろから今度は声とともに男がやって来て。
「泥棒!」
 幾度もそう繰り返してきたのだろう。ちょうど馨のすぐ横で立ち止まると、荒い呼吸の間、忙しく上下する肩を落として、男は両の膝に手を置いた。そこで止まったというより、力尽きたようだ。じっと坂下を見つめる男の横顔は、荒らげた声に反してどこか沈痛でもあった。
「……追いかけましょうか?」
 不意に掛けられた言葉に、男ははっと馨を振り仰いだ。
 状況は、容易に知れた。駆けていった子供の服装、それに、その手に抱えられていた麺麭ひとつ。先ほど男が叫んだ通り、盗みを働いたのだろう。
 男は歯切れ悪く「いや……これが初めてってわけでも、ないから」そう泳がせて、断りの意を添えてひらり手を振った。
「それなら尚更、追いかけて、話をすべきではないでしょうか」
「いいんだ。家内もひとつぐらいは許してやんなって、言ってるしな」
「しかし、それならなぜ、ここまで追ってきたのですか」
「盗みは悪いことだってのを忘れさせないためさ」膝から手を離し、男は向き直る。馨より少しだけ背が低かった。「まあ、悪いことだって分かってても、どうにもならないんだろうけどな」
 それがあの痛ましげな表情の故か。
 当人がそう云うのなら、己が出しゃばることもないだろう。馨は返事を頷くだけに止めた。と、不意に男は首を横に振って繰り返す。「本当に、いいんだからな」
 その動作を不審に思い、男の視線の先辿り――ああ、と得心がいった。
 刀。
 そのひと振りに置かれた、己が手。
 馨の腰に佩かれた得物に何事か勘違いでもしたか、男はさらに慌てて首を振った。馨は苦笑して、それ以上そこに止まっても詮なしと察し、それでは、と簡単な別れの言葉を交わしてその場を去った。

 坂をくだりきり、路地を進む頃になってから、かすかに苦笑を滲ませる。刀に添えられた手の動きだけで、そのような短慮な者に見えたのだろうか。小さな子供を容易に斬り捨てるような、そんな。
 できるわけがない。
 そうつよく思うこころのうちは、存外冷めている。道徳心から来る類のものではないように思われた。
「臆病な、だけだ」
 渇いた声。
 立ち止まる。
 思わず周囲を見回しかけて、声が違わず自分の口から発せられたものであると気づき、二度苦笑した。今度の笑みは、我ながらひどく嘲りの色が濃いだろう。この場に知り合いの姿がないことに安堵する。
 臆病。それは、ひとの命を背負うことに対してか。それなら既に“おまえ”は数多のそれを、抱えていることになりはしないか。
 瞳を伏せて、刀の頭を見やる。衣を替えても、これだけは変わらずに持ち続けていた。師でもある父から譲り受けた日本刀。それを示すように鐔には家紋が彫られている。
 この刀で、生命を狩った。ひとをあやめた。
 かつて居た世界では、ひどく身近に感じられたやり取り。君主のため、志のため、刀を握り、斬った。
 ふと、柄に添えた手を持ち上げて、その掌に視線を落とす。
 この世界に満ちる穏やかな日々のなかでは、きっと無用になりつつある刃。それでもこうして常に傍に置き、毎日の手入れを欠かさずにいるのは。
 贖罪か。誇りなのか。
 答えは、いつまで待っても齎されることはない。
 力なく開かれた掌は、まるで他人のもののようだ。こうして刀から離していても、柄の感覚がそこにある。指先が透かし彫りの鐔に触れ、そろりと刃が鞘から覗く。見えずとも、生々しく浮かぶ記憶。
 追憶の途にあるのは、何も柄巻のざらついた感触ばかりではない。ソーンへ訪れる以前の日々、様々。ひとを斬る手は、同時にひととの交わりを結ぶものだ。あの日、死に近いところにあった少年を引き戻すため、連れ帰るため、彼の手を握った。あの日、お疲れ様、と眠りに落ちる仲間の頭を優しく撫ぜた。
 この、掌が。
 けれど今だけは、その想いも奥ふかくへ沁みてゆく気はしなかった。
 ただ、やはり他人の手が、そこに在るだけの、今。
 しばらくそうしていたが、ゆっくりと握りしめて、掌を視界から追いやった。腕を下ろす。自然開かれそうになる拳を、爪が食いこむほどにつよく握り直した。封じるように。――閉じこめるように。
 ひとつの瞬きの後に、面に浮かぶのは常と変わらぬひたすら静やかな微笑み。

 ひどく姿勢の良い男の後姿は、それからすぐ雑踏に紛れ、見えなくなった。


 <了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
香方瑛里 クリエイターズルームへ
聖獣界ソーン
2005年10月25日

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