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『兆し 』
オーマ・シュヴァルツ1953

 それは凶兆なのか。
 それとも――吉兆なのか。

「…………うぅ」
 油のほのかな灯りがゆらりと天井に不気味な影を映し出す。それは、頼りない輝きに加え、低い呻き声に合わせ何か別の生き物が呼吸するように大きさを変えていた。
「……っ、またか」
 書き物の手が止まっている事に気付き、ふるっ、と首を振った男が外れかけていた眼鏡をくいと元の位置に戻し、インクが意味をなさない線となってのたくっているのを見て苦い笑みを浮かべ、机の上に置いてある小さなナイフで慎重に削っていく。
 こころはこの世界に慣れた。生活様式も随分と変わったが、別段不自由は無く……いや寧ろこの世界の方が、生活の水準は低くても物の質は遥かに良い。
 それなのに、どうしたことか――このところ、オーマ・シュヴァルツは気分が優れない事が多かった。こうして夜に、自分の知識を少しでも役立てようと少しずつ医学書を書き綴っている時でさえ、気付くと自分が何をしているのか分からなくなる事がある。
「まだ早ぇっつうの……」
 その言葉に万感の思いを込めて、オーマは目にあまり良くない揺らめく光の中、再び作業を開始した。
 このところのオーマは、周囲が時折首を傾げるような行動を取る事が多くなっていた。今こうして深夜にも関わらず熱心に書き記しているこれもしかり、ひとりで行動する事は今までも少なくなかったが、このところは殊更ひとりでいる事を好んでいた。
 それが何故なのか、オーマ自身は気付いていたのだろう。
 自分の身体に現れた軋みに、追い詰められかけているのを。
 具現を起こす時に現れる内から湧き上がる痛みは、誰もいない所では既に隠す事も出来ず、目の前の灯りにしてもペンにしても……羊皮紙にしても、全てはこの世界のものを使っている。
 今までは何の気なしに使っていた具現さえ、その構成から意識して作らなければならない。そんな事は、オーマが具現を使い出してから初めての現象だった。
 このところ、色んな事が起こり過ぎた。そのせいで、疲れているのかもしれない。
 それが欺瞞と分かっていても、表向きは自分にさえそう言い聞かせ続ける。だがそれも、再び痛みの波が襲って来るまでの間だけだった。
「……くっ」
 怪我をした時の痛みとは違う、内部から喰われているような痛みに小さな声を漏らしつつ、何かに執り付かれたように文字を綴っていくオーマ。その額にはいつの間にか、びっしりと脂汗が浮かんでいた。
 きりきりと言う音に我に返れば、それは自分の歯軋りの音であり、普段よりも過敏になっている肌はちょっと空気が動いただけでもびくりと跳ね上がってしまう。
 ――清算すべき時はすぐ傍まで来ていると言うのに、抗う事など出来ないというのに抵抗を試みるのは愚か者の証なのだろうか。

 けれど。

「う――あ……ッ」
 ぎりり、と噛み締めた途端口に広がる鉄の香りにさえ気付かない。自分が何をしているのかも既に定かではない。
 ただ、その手は。
 片方はタトゥの彫られた心臓の真上にある衣を固く握り締めているというのに、もう片方は未だ羽ペンを握りつつ、言葉にならない叫びをのたうつ文字で必死に書き綴っていた。
 どくんっ。
「――!」
 心臓が、跳ね上がる。身体に刺さったままの欠片が、決して融合しようとしない欠片が、内から男を食い荒らして行く。
 がりりッ―――。
 羽ペンが滑り、インクがとうに切れたそれは紙の上に傷を付けて、ぽきりと小さな音を立ててオーマの手の中で折れ曲がった。
 それが。
 ようよう意識を保っていたオーマが聞こえた最後の音だった。

*****

 歪んでいる世界には、文字通り『全て』が詰まっていた。足元には何も無い空間に立ち尽くすオーマの目に映るものは、過去から現在に至る道。それが次から次へと消えていく。自分の行いを再び見せ付けられる中、時折混じるのは見た事もない風景――いや、全く無いわけではない。
 それは、何度か訪れた戦艦の中。ただし、オーマの記憶とは違って、その場所はあきらかに『生きて』いた。行き交う人々、その生活が永遠に続くものと信じて疑わない顔は、記憶に無いのに覚えている。その矛盾するところは何を意味するのか、今のオーマには分かりようも無かった。
 次々に繰り出される映像……記憶は全てどこかが食い荒らされていたから。
 肝心な人の顔はぼやけ、文字は読み取れないまま、歪み、切り裂かれていく。
 その刃物は――オーマの中に存在しつづけていた。
 この何十年か、ずっと外に出る機会を窺いつづけてきた。
 普段ならばオーマの力に抑えられ、内部から激しく干渉する事は不可能だっただろう。けれど、『WOZ』は少しずつ少しずつ、オーマの力を削り続けて来た。『WOZ』にとって幸いな事に、この世界へとオーマが来た事で、過去の世界からの干渉は消え、オーマはその身ひとつに全ての業を負わなければならなくなっていたのだ。
 本来、彼が持っていた力の大半を自ら戒めとして封じながら、オーマは自らの信念によって今まで持ちこたえて来た。それは――両手両足を縛られながら抵抗する事に等しかったと言うのに。
 記憶が歪み、切り裂かれていく。
 その中に立ち尽くすオーマの目は既に焦点を合わせることが出来なかった。
 最後の一枚に刃が入っても、尚。

*****

 ――最初に目にしたのは、時代がかった古めかしい道具。
 動物の皮をなめしたごわついた分厚い紙に、植物だか魚だかの脂を使った灯り。折れた鳥の羽ペン。
 木だけで作られた無駄にどっしりとした机、石とレンガで組み上げられた壁。
「……何だこれは。何かの冗談か」
 そう呟いてみて、何かの拍子で口を切った事に気付いたのだろう、口の中に溜まっていた唾もろともぺっと床に吐き捨てる。
 次いで、気付くのは身体の中に溜まりに溜まった澱――その澱と共にある邪魔なモノ。一体何がどうした?と混乱しかかった頭の中で、室内にある鏡をちらと見る。
 そこから見返しているのは、銀色の髪と赤い目の青年。
 『自分』の記憶に寸分違わぬ存在のオーマが、きょとんとした顔つきでそこに座っていた。
 改めて、室内を見渡す。
 空調が効いていないせいか、空気はひんやりと肌を刺す。
「悪趣味じゃねえのか、こりゃ。懐古趣味もいいとこだぜ」
 どうしてここにいるのかは霞がかかったように思い出せないが、何か長い夢を見ていたような気がする。その間に、何かされてしまったのだろうか。
 身に纏っている服は趣味は悪くないものの見覚えは無く、その布地から覗く肌にはくっきりとタトゥが彫られていたからだ。
「…………」
 ぎゅっ、と頬をつねってみる。痛みを感じる夢でもなければ、これは現実だ。恐らく。
 思わず机に手を付いて立ち上がり、手の下にある紙に綴られている文字を見下ろした。大部分に記された文字は全く見知らぬものだったが、最後の一行にのたうつ文字は自分の良く知るもので。
 そこにはこう記されていた。
『アレを失えば……俺には何が残る?』
「何も残らねえよ」
 思わず呟いたのは、何故だろうか。

*****

 外に出て、異様なまでに澄んだ空気にまず驚かされた。空調はともかく、家の中の空気清浄機が随分良く作動しているなと思っていたのだが、してみるとここはどこかの片田舎か?それにしても――なんだ、ここは。
 オーマの目の前に広がるのは、月と満点の星以外に灯りなどほとんど見えない、旧世紀の産物としか思えない世界。だが、その世界には明らかに生きた人の息吹が感じ取れる。
 ――つまりは、住んでいる奴らがいると言う事か。
「……」
 人の気配を感じ取って、音も無く塀を中継して屋根の上に飛び移りながら、オーマが下を見詰める。
「やべぇやべぇ、遅くなっちまった。母ちゃん怒ってっかなぁ」
 一杯気分でいたのか、荒い繊維で織られた質の悪い布を身に纏う一人の男がぱたぱたと石畳の上を走って行く。その様子を冷たい目で見ていたオーマがふっと息を吐く。
「ただの人間かよ。驚かせやがって」
 オーマはそのまま、下に降りる事無く影に紛れながら主に石とレンガで作られた街の中を走り続けた。この茶番を終わらせるモノを探しながら。
「何てこったよ。マジモンか、ここは」
 だがそこにあったものは、オーマの知る世界に比べ不自由極まりない生活ながら、素朴な生活をする人々が集う世界だった。恐ろしい事に、この小さな街が周辺の土地の中でも唯一の大きな街で、しかも城まで備わっている事からひとつの国だろうと察しが付く。
 オーマはそこにいた。
 巨大な、空飛ぶ大陸の数十分の一の人口しかいないであろう、小さな小さな世界に。

 どくん。

 その時。
 タトゥの真下にある心臓が、不自然な鼓動を上げる。
「……ん」
 そうして、『オーマ』が気付いた。自分の身体を巣食うモノたちに。

 それは、身体の中に封じられたウォズたちと、もうひとつ――何故ここに在るのかが分からない異質なモノ。ウォズの事は分からないでもない。亜空間などにウォズを追い詰めた際、便宜的に身体の中に溜め込み後で吐き出すと言う事を何度かやっていたからだ。
 それらが腹の中に巣食っているために、力の大半が身体を抑えるためだけに使われている。それも、自分になんの断りも無く。
「んだよ。俺様の身体は銀行じゃねえんだぞ。おまえらが出す利子が膨れ上がって身体ん中に汚ぇモンが山のように溜まっちまってるじゃねえかよ」
 たかがウォズの癖に、と吐き捨てるように呟いたオーマが、躊躇無くタトゥに爪を立てる。通じているのはその場所からだ、と分かっているからだ。

 ほんの少し爪が深ければ。ほんの少し角度が変われば、刈り取られるのは自分。
 だが――オーマは、笑っていた。ほんの少し昂ぶりに近い表情で、瞳孔を開きながら。手に暖かいものが流れ落ちるにも構わず、自分の気分を悪くしている最たるモノ、身体の中にずっと巣食っていたウォズたちを引きずり出す。
「――く――ああ…ッ!」
 思わず呻き声を上げる。身体中を這いずり回る虫が一斉にその牙を剥いたような痛みがオーマへと襲い掛かったためだ。その痛みは、『中』に封じられていたウォズの数に依存する。
 それは引きずり出したウォズ故のものではない。何故ならウォズは現実のオーマの身体の中にいたわけではない。いるのはこころ、オーマの『想い』を司るものの中に詰め込まれているのだから。
 だが、それでも代償は付きまとう。
「……くっ」
 ぺっ、と口の中に溜まったモノを吐き出せば、それはぴしゃりと赤い液体となって石畳の上に散った。
 ――現実のモノではないとは言え、身体はそれを本物と認識し、内部は刃を突き立てられたように傷付いている。これこそが、きちんとした手順を踏む事無く行使した代償そのもの。
 オーマは知らない……いや、今のオーマは『まだ』知らない事だが、たった一匹のウォズを身体の内に封じたヴァンサーが、吐き出す手順を間違えたために死に至ったケースは決して少なくなかった。
 それでも、やらざるを得なかった理由がある。
 長い間体内に入れておく事は、即ちウォズの波動を浴びて自らがウォズ化してしまう事に繋がっていたからだ。その力の大半をウォズ化せずにいる事に使っても、問題なく力を行使出来るような一部の者を除き。
 オーマは、間違いなくその一人だった。
「どこのどいつだ、こんな量を身体に押し込めやがって……ちっ、頭までふら付いてやがる」
 タトゥとその周辺に残る爪痕からまだ僅かに血を滲ませながらオーマが呟くと、足元に蟠る『それ』を置いて、ぐ、っと両手で目の前の空間をこじ開ける。
 その向こうに見えるのは、どこに繋がっているとも知れぬ深い闇。こともなげに異空間へ繋ぎ合わせたそこへ元はウォズだったものを放り込み、それ以上何もせずに空間を閉じた。その空間で何が起ころうが知った事ではない、とばかりに。
「――っ」
 かはっ、と不意にこみ上げてきたモノを咳き込んで吐き出すと、それはもう固まり始めた傷口に残っていた血の塊。ふん、と呟いてぐいと口を拭うと、べたべたする口元を洗うために水音のする方へ向かう。
 水は冷たく、そして、酷く美味かった。
「……ここも悪くねえ、かもしれねえ。あいつらにも見せてやりてえな。どんな顔をするかね」
 使い続けていた力の大半を取り戻した事で、急速に体内の傷を癒して行きながら、オーマが脳裏に浮かぶ友人たちの顔を思い浮かべる。
「だが、それよりも前に、だ」
 自分の身体を冷え切った目で見下ろすオーマ。
 身体の中にはまだ、どう扱っていいか分からない異物が入っている。それ自体が命であるかのような輝きを見せているが、生憎とオーマの持つ命と結びつく要素はどこにも無く、オーマにとってこれは『いらないもの』でしかなかった。
 それに……気付かぬ間に刻まれたこのタトゥも、衣装も、何かの枷のように思えてならない。
「もしコレを刻んだり突っ込んだのが人間なら、消してやるんだが」
 ウォズは制限があってどうしようもないが、勝手にタトゥを刻んだのが人間なら容赦なくこの手を使う事が出来る。
 友人たちは止めるかもしれないが、何。
 ――あいつらに気付かれなければいいだけだ。
 にっ、酷薄な薄い笑みを浮かべたオーマが、月明かりに照らされた川面に浮かぶ自分の顔にどこか違和感を感じて、もう一度覗き込んだ。
「……え……?」
 月に照らされて映える銀の髪――の筈が、それはしっとりと墨を含んだように根元から闇色を吸収してじわりと上へ伸びていく。
 それと同時に、

 ――どくん!

 今まで感じた事も無い鼓動が、オーマの心臓を強く強く揺さぶった。
「な――ッ、ちくしょ……っ、アレは目くらましだったってのか、俺とした事が……!」
 身体の中にある異物が、激しくオーマの身体に干渉を試みている。
 オーマも…今の彼は勿論、記憶を失う前のオーマも気付いていなかった事だったが、『WOZ』の力はオーマだけでなく、オーマの身体の中にあったウォズたちにも向けられていた。皮肉な事に、オーマへの干渉力が増せば増すほど、封じられていたウォズから漏れる波動は完全にシャットアウトされ、逆にオーマの身体を守って来ていたのだ。
 だが、ウォズが消え去った今、そちらに向けられていた力は全てオーマへの干渉に向けられている。しかも、異物であるが故に融合される事がなく傷を付ける事が可能だった『WOZ』は今や、その存在理由を知らない今のオーマにとっては、抗う術を持たない強大な敵でしか無かった。
「くそっ、くそっ、くそ……ッ!!」
 ほろほろと失われていく『自分』を手放すまいと、叫びつづけながら必死で抗うオーマは、いつの間にか川の中へと足を踏み入れており、
「しま――ッッ!?」
 その叫びを最後に。
 ざぶん、とそれほど大きくない飛沫を上げて、オーマはその巨体を川の中に沈めて行った。

*****

 ――秋の高い空に、ちちち…と鳥が鳴きながら飛び交うのが見える。
 ちゃぷちゃぷと足元に聞こえる水音に、足が水の中に晒されている事に気付いて足をのろのろと持ち上げ、寝返りを打った。これで、ぐっしょりと濡れてはいるものの、とりあえず水の中に浸かったままではなくなる。
 今日は秋晴れらしい。それなら、放っておいても昼までには乾くだろう。
「……じゃ、ねえ」
 全身擦り傷だらけのオーマが、ぼんやりとした声で呟く。
「そうじゃ……ねえ」
 放っておいてはいけない事があった筈だ。昨夜、そう思った筈だ。
 だが、身体は重く、頭も上手く動いてはくれない。
「ふぇ……」
 くっ、とオーマが身体を捩じらせ、
「ぶぇぇぇっくしぃぃっっ!!」
 盛大なくしゃみと共に跳ね起きる。
「うぅい――って……何やってんだ俺は。つーかここはどこだ!?」
 頭の下にあったのは柔らかな草。そしてあたりは一面草原。
 王城のあるエルザードは、今座っている位置からどうにか見える距離にあった。
「まさかとは思うが」
 酒飲んで酔って川に落ちた?
 そう考えて、同時にぶるっと身体を震わせる。
「良くそのまま川底に沈まなかったな俺」
 川で洗い流されたのかさらさらになっている髪を掻き上げて、ふっ、と不審の目を自分の身体へ向けた。
 心臓に向けて突き立てられたような、五つの小さなへこみ。それは爪痕のように見えなくも無い。
 そして――。

 オーマの身体にあった筈の、今まで封じたウォズたちは消えていた。

*****

 深い代償をその身に持ちながら、しかしWOZによって『再び』生かされたオーマ。
 その事実は知らなくとも、気付かされる事がある。
 オーマの中のウォズが消えた事により、今まで使えずにいた力が急激に戻りつつあると言う事。
 そして、再び記憶を……今回は今までに無く長く、失っていた事。

 ――それは吉兆か。それとも、凶兆か。
 もとより、オーマに分かる事では無かった。


-END-
PCシチュエーションノベル(シングル) -
間垣久実 クリエイターズルームへ
聖獣界ソーン
2005年10月24日

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