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『彼と彼女と水鉄砲。 』
兵頭・雅彦4960)&浅海・紅珠(4958)






 ”倉庫”の前に、男が一人立っている。
歳は20代中盤に差し掛かった頃だろうか、日本人にしては少々高い身長を持ち、
そして今時珍しい漆黒の髪を軽く後ろに撫でつけ、厳しい眼つきをしていた。
彼の視線は、目の前の倉庫に注がれている。
その瞳はきゅっと吊り上がり、まるでこれから親の仇でも討ちにいこうか、といわんばかりの冷徹な面持ち。
 …だがその内心は、現在冷蔵庫の中に残っている食材から出来上がる料理のイメージのみ。
考えていることはといえば、卵が賞味期限ぎりぎりなのに、まだかなりの数が残っていて、
さあどう処分するか、などということばかり。
 そして彼の目の前の、親の仇が巣食っているように彼に見つめられている”倉庫”は、実は―…。

「…只今」

 ぼそっと、ほんの微かに呟いた言葉は、帰宅を知らせる言葉。


 つまり―…この、飾りっ気、という言葉さえどこかに置き忘れてきてしまったような”倉庫”こそ、
彼、兵頭雅彦の住居なのだった。











 兵頭雅彦は、自他共に認める排他主義の人種である。
だが実のところ、親しくなればそれなりに打ち解けもするし、それ相応の感情も持ってはいる。
しかしその性格柄、無駄口や洒落の効いた冗談、というものをその口に上らせることはゼロに等しいものだから、
彼と少しでも顔を合わせた者の殆どはそう思うし、また彼自身もそういうものだと思ってしまっているのが現実。
なので兵頭雅彦という人物を一言で言い表せ、と問われると、
殆どの者は”冷たい”だとか”クール”だとか言ってしまうのである。

 そしてそんな場合大概は、”人の人格なんていうものは、
到底一言では言い表すことなど出来ない”ということを忘れているのだ。



 その、”到底一言では言い表すことなど出来ないが、大抵の場合『冷たい人』の一言で終わってしまう”雅彦は、
彼自身と似た印象を持つ自分の城に足を踏み入れていた。
それ即ち、”殺風景で、飾り気がなく、所々無機質なコンクリートをそのまま晒してさえもいる”我が家。
だがそれは、元々倉庫として使われていたこの物件を、
雅彦が仕事場兼自宅として改造しただけなのだから、そんな印象を与えてしまうのも至極当然、というものだ。
 だが此処に住み着いている本人は、そのことに対して一切疑問は抱いてないようで、
仕事場を乗り越えて居住スペースにずかずかと乗り込んでいった。
ちなみに両者にろくな仕切りはなく、住んでいる本人にとってのみ判る隔たりしかなかったが。
 そんな彼の片手には、殺風景な部屋に似合わない代物が抱かれていた。
灰色の世界に色を与えるためだけに存在しているような朱色のグラデーション。
形は球体、そしてその口は緩やかな波型、というレトロなフォルムを持つそれは、端的に云うと”金魚鉢”だった。
材質はガラスのようだが、その内部は窒素と酸素で形成されている通常の空気ではない。
―…いや、通常の空気”も”存在してはいるが、全く同じとも言い切れない、という厄介な代物で。
 その金魚鉢の正体は、それを抱く雅彦本人だけが知っていた。
普通なようで普通ではない店の、単なる天然馬鹿に見えてそれだけとも言い切れない店主に作ってもらったそれ。
鉢の中は違う次元に通じており、そのゲートは波型の象られた金魚鉢の口。
そしてその口から物を突っ込むと、何でも小さくなってしまう―…らしい。
 というのは、その持ち主である雅彦自身、そのメカニズムは良く分かっていないのだ。
機械工である雅彦は、大抵の”機械”でなら、一見してその仕組みはザッと理解することは出来る。
だが彼が小脇に抱えているそれは、”機械”ですらない。
言ってみれば―…”魔法”。
だがその効果を目の当たりにした雅彦にとって、下らないと一笑するわけにもいかなかったし、
そもそも哂うつもりも端からないので、仕組みが良く判らないけれどとりあえず、彼はそれを小脇に抱えているのである。

 そして雅彦は、金魚鉢を小脇に抱えたまま目的のモノを目で探した。
リビングという名の殺風景な居間に足を運んでみる。
てっきり此処の卓袱台に膝をつき、煎餅を片手にテレビを見ているものだと思ったが。
雅彦の予想に反し、”それ”はいなかった。
 ―…これは、何かがおかしい。
 たかがいつもいるところにいないだけで、と言われそうだが、雅彦は確かにそう感じた。
一緒に”それ”と暮らし始めて然程時が経ったわけでもないが、
もう既に雅彦は”それ”の生活パターンを大体熟知しているのだ。
そのデータから言って、この時間帯に駄菓子屋の婆のような格好で煎餅をボリボリ言わせていないのは、
”明らかにおかしい”のである。
雅彦はおかしい、と思うのと同時に、背筋を何やらもさもさとした毛虫が這うような、そんな嫌な予感がした。
…そして大概の場合、こんなときの嫌な予感は的中してしまうものなので。
 雅彦は大慌て―…と言っても相変わらず金魚鉢は小脇に抱えたままだし、
そもそも何の顔色も変えていなかったが―…大股で、殺風景な自宅を探し回った。
雅彦の部屋にはいない。台所にも、仕事場にも。
 ―…とすれば、あとは一つ。
(…頭痛の予感がする)
 確かに雅彦は、ひしひしと感じていた。
嫌な予感。そしてそれが的中したとき自分に襲うであろう頭痛を。












 残る場所、それは大して広くもない風呂場だった。
ジーンズの裾をめくり、浴室に踏み込んだ雅彦は、首を伸ばして浴槽の中を覗き込んでみた。
狭い風呂場に似合う狭い浴槽には、澄んだ水が湛えられていた。
雅彦が出かける前に使ったわけではない。
だがそう言ってわざわざ追記するまでもなく、すぐに犯人は見つかった。
「…………。」
 無言で浴槽の水―…否、浴槽の水に文字通り沈んでいる”それ”を見下ろす雅彦。
事情を知らない者ならば、水死体かと思って一瞬ぎょっとするだろうが、雅彦は違った。
いわずもがな、彼の探していたものが”それ”だったからなので。
「……………。」
 やはり無言で、雅彦は自分が立っている浴室の床を見下ろしてみた。
何本か数えるのも億劫になるほどの、太いペットボトルが転がっている。
雅彦はそれに見覚えがあった。
他ならぬ自分が、数日前に買いこんで来たばかりのミネラルウォーター…が、入っていたはずのボトル。
まだ半分ほど中身が残っている1本を残して、他全て空っからのカラ。
「…………………。」
 再度浴槽の中に視線を移した雅彦は、やはり無言だった。
無言のまま、氷点下の瞳で水の中を凝視している。
 氷点下の瞳が自分に突き刺さっていることなど露知らず、浴槽の中の”それ”は、
水の中ですやすやと眠り込んでいた。
その能天気な寝顔。まだ成熟しきっていない、男とも女ともつかない身体。
そして―…金粉をまぶしたようにところどころが輝く、緋色の鱗。
その鱗を持つ、金魚の尾びれのような足―…ではなく、魚の尾。
眠りこけているそれは、誰が見ても”人魚”だった。
だがその寝顔は能天気すぎて、誰がどう見ても、童話の中の”人魚”とはかけ離れている。
…神秘的、のしの字すら見当たらない。
 その人魚―…名は浅海紅珠と云う―…は、水の中で身じろぎしながら身体の位置を変えた。
もし陸上にいたならば、「むがむが」とかそんな寝言が聞こえてきそうな。
但し、決して「うぅん」などという色っぽい声ではない、そんな雰囲気。
 そんな人魚を見下ろしながら、雅彦の額には薄く血管が浮き出ていた。
静かな、静かな怒り。それはまるで、青い炎。
 雅彦は決して、この人魚が能天気だから怒っているわけではない。
ただ、何度も何度も買いに行かなくても済むように、
彼が自腹を切って、わざわざ重たい目に遭って買いこんで来た幾本ものミネラルウォーターが。
―…一瞬でパーになってしまったのが、許せなかったのだ。
 なので雅彦は、まだ半分ほど残っているペットボトルを掲げ、
小脇に抱えたままだった金魚鉢にどぼどぼと注いだ。
鉢の半分ほどまで注いだところで、丁度空になったペットボトルをがらんと浴室の床に放る。
そしておもむろに、シャツが濡れることも厭わずに、浴槽の中に手を突っ込んだ。
 つるりと滑る”人魚”紅珠の緋色の尾を、うなぎ掴みの要領でがし、と掴む。
その突然の感触に思わず目を開ける紅珠を見てみぬ振りをし、
力を込めて彼女を一気に水から引き上げる雅彦。
まさしく”人魚一本釣り”である。
…だがこの場合の”一本”は、”腕一本”の意だが。
 腕一本で人魚を釣り上げた雅彦は、やはり無言で、今度は彼女を片手に抱えた金魚鉢に、頭から突っ込んだ。
彼女の頭程度の大きさの鉢にも関わらず、するすると入っていく紅珠の姿。
そして雅彦が紅珠の尾をパッと離すと、金魚鉢の中で小さくなった紅珠は、
頭から金魚鉢の中の水にダイブする羽目になった。
 直ぐに鉢の中からは、バッシャンという水の跳ねる音がして、
程なくバチャバチャと何かが跳ねる音がする。
それと同時に、鉢から聞こえてくる甲高い声。
「まっ、ままま雅彦おおっ!」
 彼は鉢の中からの自分を呼ぶ声に、全く耳を貸さなかった。
その声に混じり、ガボガボと水を飲む声も聞こえてくるが、それも無視。
「え、えええええがぼ、何こがぼがぼ!」
 未だに自分の置かれた状況が理解できていないのか、がぼがぼと水を飲みながら喚き続ける小さな紅珠。
鉢の中からはバッチャンバッチャンと絶えず水の跳ねる音がするが、
雅彦にとってそれは何の障害でもなかった。
 なので、バチャバチャと煩い金魚鉢を抱えながら、スタスタと浴室を出た。
そして真っ直ぐ台所に向かい、暫しあちこちを目で追ったあと、ふと思いついたように
壁に掛かった木製のまな板を手に取った。
それは少々大きなもので、横幅は丁度金魚鉢の口がすっぽりと覆われるほどだった。
その大きく頑丈なまな板を、これまたおもむろに金魚鉢の口に乗せる雅彦。
その途端、中から聞こえる”がぼがぼ”急に小さくなった。
だが金魚鉢の淵が波型になっているせいか、全く聞こえないわけでもなく。
以前聞こえる水が跳ねる音をBGMにしながら、雅彦はふぅ、と額を拭った。

 何となく気分は、海の魔物を退治した勇者のそれだった。


よくやった、俺。あいつにはこれぐらいしなきゃならんのだ。
 雅彦はそう自分に言い聞かせながら、
金魚鉢に蓋をしたままそれを台所の流しの上に置き、足早に自室にへ戻ることにした。











 
 そして暫く後。
夕飯の準備をしに台所へ戻ってきた雅彦は、流しの上に置きっぱなしのそれを見つけた。
無論、彼以外の誰も手を触れていないので、その口にはまな板の蓋が乗っかったままである。
 雅彦はふと気になって、その金魚鉢に耳を近づけてみた。
先ほどは怒りに任せて彼女を頭から落としてみたものの、
内心では溺れるはずがない、と分かっているからこその行為。
仮にも人魚である彼女が、頭から水の中に落っこちたぐらいで溺れる筈はない。
―…そう分かってはいるものの、この中で一体どうなっているのか、気にならないといえば嘘になる。
鉢の表面はガラスだが、半分ほどにかけて淡い朱色のグラデーションがかかっているので、
はっきりと中の様子はわからない。
そして鉢の中からは、何の物音もしてこなかった。
 先ほど、雅彦が此処を出る前に響いていた水音も、
彼女がガボガボと水の中で叫ぶ音とも声ともつかないものも。
 ―…まさか、腹ばいになって浮かんでるんじゃないだろうな。
雅彦はふと、水面でぷかぁ、と浮かぶ人魚の姿を思い浮かべ、思わず額に指を当てた。
…馬鹿馬鹿しい。有り得ない、そんなこと。水の中で溺れる人魚がどこにいる?
 そうは思ってみたものの、心の片隅では自分と初めて出会ったときの彼女の様子を思い出していたので、
雅彦は一人、無言で眉間に皺を寄せた。
…そういえば、いたな。嵐の海で溺れた人魚が、一人。
 そしてその人魚は、今雅彦の目の前の金魚鉢の中にいるはずなのだ。
「……………。」
   はぁ。
 雅彦は一言だけ軽く溜息を付き、渋々という手つきでまな板に手をかけた。
別に、彼女のことが心配なわけではない。
ただ、このまま放っておくと夢見が悪くなりそうだからだ。
 雅彦はそう自分に言い聞かせ、ゆっくりと蓋をしているまな板を上げた。
そして水死体が浮かんでいないか、小さな水面に目を落とそうとした―…そのとき。


       ばっしゃん。


 雅彦の額に、何か冷たいものが当たったかと思うと、
気がついたときには雅彦の頭はバケツの水を被ったように、水滴が滴り落ちていた。
雅彦は無言で、目の辺りを片手で拭う。
一瞬でびしょぬれだ。―…顔のみ。
 状況を推察する前に、金魚鉢の中から甲高い笑い声が聞こえてきた。
「よっしゃ、成功せいこー!ざまーみろっ」
「……………。」
 金魚鉢の中では、水面に上半身を突き出した彼女が、大きくガッツポーズをしていた。
「へっへーんだ、俺を溺れさそうなんて100億年早いんだよっ!
あーっはっはっは、びしょぬれ雅彦〜!!」
 濡れた髪を無言でかき上げる雅彦を、金魚鉢の中の紅珠は指を差してケタケタと笑う。
雅彦が何も言わないのをいいことに、紅珠はくっくっ、と笑いすぎて滲んだ涙を拭いながら云った。
「それにしても…何でびしょぬれなんだよー?俺、ほらこーいう風に…」
 言いながら、手を組んで即席の水鉄砲を作り、ぴゅっと軽く水滴を上げて見せた。
「水でっぽーしただけなのにさっ。何だかワケわかんねーけどおっかしーの!」
 成功した嬉しさか、腹を抱えて笑っている紅珠を、雅彦はやはり無言で見下ろしていた。
彼にはわかる。この金魚鉢には、中に入れたものを例外なく縮める魔法がかかっている。
そして中のものを金魚鉢の口を通して出したとき、瞬時に元の大きさに戻ることも。
…つまり、鉢の中から上がった水滴は、
鉢の外にいる雅彦の顔に到達するまでに、何倍もの大きさに膨れ上がるわけで―…。
 そのことを頭からバケツほどの水を被ってしまった雅彦は、
彼の眼前でけたけたと笑う彼女に教えてやるつもりはなかった。
少なくとも、今この場では。
「…………。」
 ふん。と鼻で息を吐いたあと、おもむろに雅彦は先ほど自分外したまな板に手をかけた。
そしてまるで紅珠の笑い声を塞ぐように、金魚鉢の口に、再度まな板を乗せた。
 ぴったりと合わさっていることを確認すると、ふぅと溜息を付いてから前髪に滴る水滴を拭う。

 何となく気分は、壊れて鳴り続けるオーディオに毛布か何かをかけたときのそれだった。







 そしてその”壊れて鳴り続けるオーディオ”は、またもや蓋をされたことがわかると、
金魚鉢の中からぎゃんぎゃん吼え続けたけれど。

 今度こそ雅彦は、朝になるまでその蓋を外すことはなかったという。










          おわり。

PCシチュエーションノベル(ツイン) -
瀬戸太一 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年10月19日

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