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『レッスン 』
斎藤・智恵子4567

 木曜日の午後六時。小さなビルの二階にあるバレエ教室には、学校を終えた少女たちがにぎやかなお喋りを交えつつ流れる音楽に合わせ体を動かしていた。今日はレッスンの日ではないのだけれど、発表会を二週間後に控えているということで自主練習に集まってきた子ばかりである。その中には今学校を終えた斎藤智恵子の姿もあった。
 普段は背中の開いた服を着たり、足を見せたりすることなど恥かしくてできない。しかしバレエのときだけは別である。練習着の白いレオタードに着替え、髪の毛を高く結い上げそしてメガネを外すと背筋がぴんと伸びる。普段学校で見せる印象とは、まったく変わってしまう。
「おはようございます」
挨拶をしながら智恵子は扉を開ける。人を見るときにも、目を伏せたり内気に恥らったりはしない。堂々とした態度はまるで、自分が踊ろうとしているバレエに対し怯むことなく向かい合いたいと主張しているようであった。
 練習場へ入ってきた智恵子はまず部屋の隅へ行き、柔軟体操を始める。いつも決まった順序で、人の二倍時間をかけて念入りに筋を伸ばす。これはバレエを始めたばかり、まだ最初の体操さえ覚えられなくてゆっくり行っていた頃の名残なのだが、現在はさらに時間をかけている。
もっと手早く体操を終わらせる少女もいるけれど、最初の体操で手を抜いた子は必ずどこかで怪我をしていた。智恵子はバレエを始めて随分経つが、怪我といえば練習のしすぎで足に炎症を起こしたのが一度あるきりだ。
思えばバレエを始めた当時、あのトゥシューズでまっすぐに立ち伸びることだけでも魔法のように感じられた。今は自分だって同じことができるし、それどころか本当の魔法だって使えてしまうのだけれど、それでもやはりバレエは魔法のようだった。
バレエの舞台に立つと、踊っている最中衣装の布と布が擦れあう柔らかな音が耳へ届く。縫いつけられたスパンコールや、髪飾りがさざなみのような音を立てる。天井から曲は降ってくるのに、瞬間的にその音だけが聞こえるのだ。よく、野球選手が言うような
「ボールが止まって見えた」
それに近い。
 この音は本当にかすかで、踊っている者にしか聞こえないはずだった。けれど智恵子はたった一度だけ、客席の側から音を聞いたことがあった。生まれて初めて親に連れられてバレエの発表会を見たときである。その発表会がきっかけでバレエを始め、教室の先生に自分が聞いた音のことを話したら
「その音が聞こえたのなら、あなたはバレエに選ばれたのね」
と、頭を撫でられた。だから智恵子は自分のほうからバレエを裏切らないよう、選ばれたことを後悔されないよう、なにより自分が後悔しないように踊りつづけている。

 柔軟体操が途中に差し掛かったとき、練習場の中で曲が流れ始めた。五人の少女が、その曲に合わせ同じ振り付けで踊りだした。今度の発表会に集団で踊る三分の曲である、この教室では発表会の日が近づくとこうして何度も曲を流すのだ。自主練習に来た少女たちはこの曲に合わせて踊ってもいいし、無視してただ自分の苦手な部分だけを克服するのでも構わない。
 智恵子は三回目までを踊らずに柔軟体操とバーを使った基礎運動で体を温めた。曲は大体十五分おきに流れてくるので、約一時間を体の準備に費やしていたことになる。そして三度目と四度目の間に軽くステップを踏み始め、四度目が流れ出したところでようやく踊り始めた。
今回、発表会における智恵子はこの集団の踊りと四人で踊る小品に出演する。集団で出演するのは作品「海賊」の一幕だ。奴隷商人に捕らえられ競売にかけられる娘、後に海賊たちによって救出される娘の一人を智恵子は踊るのである。
曲目が発表され、自分の役を教えられたとき智恵子は胸にある種の懐かしさが浮かび、返事をしながらつい笑ってしまった。バレエには様々な作品があり、智恵子はこれまでにもいろんな役を演じたことがある。しかし、大抵は幻想的なものが多いので妖精や動物など、実際の自分では想像することでしかなりきることの出来ない役ばかりだった。
ところが今回だけは、体験しているのである。競売にかけられた奴隷の娘たち、バレエではその娘の運命は既に描かれ何度となく上演されている。けれど本当の奴隷になった娘がどうなるのか、智恵子はまだ結末を知らない。
「海賊って、悪い人ばかりだと思ってた」
この作品を初めて演じることになった智恵子の友人は、あらすじを聞いてそんな感想を漏らしていた。思わず智恵子はこう言っていた。
「海賊だって、悪い人ばかりではありません」
本当の海賊がこれを聞いたら、どんな顔をするだろう。

 曲にあわせ、智恵子の体は滑らかに動く。指先にまで神経が通っており、ターンのときにも足がふらついたりはしない。踊りの中に、智恵子本来の長所であるしなやかさが存分に生かされていた。曲の中に体を横たえ、その流れのままに身を動かしているという雰囲気であった。
 しかし、途中で智恵子はぴたりと動きを止めた。踊りの中で苦手な、細かいステップを踏んだときに体の動きと曲とがわずかにずれたのだ。道を歩いていて、小石を踏む程度の違和感である。歩きつづけることもできるのだが、智恵子は立ち止まる。
「・・・・・・」
四度目と五度目の曲の間、智恵子は曲のリズムを何度も繰り返しつつステップを確かめる。一、二、三四・・・・・・。
ソロの場合、多少曲に踊りが合わなくとも流れを間違えなければそれはアレンジとして許される。しかし集団のときには、わずかな狂いが醜い乱れとなって観客の目を厳しくさせる。自分に厳しい智恵子は、容赦するということを知らなかった。
「・・・・・・よし」
五度目の曲が鳴り、再度智恵子の体は動き出す。今度は気をつけていたステップをなんとかこなした、だが別の部分で間違えた。また智恵子は止まり、一つの部分を徹底的に修正する。とりあえず雰囲気だけでも踊りとおしてしまえばいいものを、一歩ずつ進むことしかできない智恵子だったから、なかなか最後まで行き着けない。
 そして六度目。
「今度こそ」
智恵子は踊り始めた。完全に集中しており、まわりの少女たちの喋る声は聞こえない。曲だけが頭の中に流れており、やがてその曲もいつの間にか消えて足が床を蹴る音、腕を振り上げたときに聞こえるわずかな空気を切る音、自分が体を動かすときに聞こえる音だけに支配されていた。
 もちろん、曲は流れつづけていた。他の少女たちも何人か踊っていた。だが、智恵子が自分の音しか聞こえていなかったその証拠に、着替え室から急いで練習室に入ってきた少女が一人、慌てていたのか曲を流しているスピーカーにぶつかって倒してしまったのだ。
 ガコン、と妙な音がして音が止まった。踊っていた少女たちは、智恵子を除いて全員が何事かと動きを止め、その後踊りつづけている智恵子に視線を注いだ。智恵子一人は、曲が止まっていることに気づかず体を動かしていた。
「ちえ・・・・・・」
友達の一人が声をかけようとしたが、自主練習を黙って見つめていた教師はそれを制し、スピーカーの配線を繋ぎなおすように指示を出した。倒した少女は、スピーカーから外れかけている赤い配線を穴へ差し込む。
ステレオ本体には支障なかったので、曲は再び流れ出した。三分という短い曲はほとんど終わりかけており、最後の数十秒を残すだけであった。踊っていた少女たちは慌ててその音に体を合わせようとするのだが、当然うまくはいかない。しかしその中で一人だけ、曲に動きをぴったり合わせている少女がいた。言うまでもなく、頭の中で完全に体の動きを作り上げていた智恵子である。
曲が止まるのと、智恵子が踊り終わるのは同時だった。最後のポーズで止まったまま、智恵子は一つ深呼吸をするといつの間にか閉じていた目をゆっくり開く。すると全員が自分を見つめていたので、何事かと首を傾げる。
「あの・・・なにか?」
誰からともなく拍手が沸いたこと、これもさっぱりわからなかった。自分はただ、踊っていただけなのに。
 バレエの中に魔法を見ていた魔法使い、智恵子はいつの間にか自分自身が魔法を使えるようになっていたことには気づいていなかった。本当の魔法というものは、自分には見えないものなのかもしれない。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
明神公平 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年10月17日

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