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『くれなゐ 』
高台寺・孔志2936


 いち早く色づいた紅葉の一葉が風に誘われ、はらりと地に舞う。
 畳の上に寝そべり、秋の夕暮れを映したかのようなその葉をぼんやりと眺めていた高台寺孔志は、落葉(らくよう)とともに溜息をついた。
 いつしか夏は過ぎ去り、秋が来ていた。
 青く澄んだ空は低く淡く、雲は輪郭を崩し、風は涼やかな空気を運ぶ。
 四季の草木が埋める庭では金木犀が香り、紅葉が色付き始め、栗が成り、彼岸花が花開いていた。華やかな色彩を纏った庭は春とは異なる美しさを湛えている。
 けれども秋の庭はどこか淋しさを含んでいた。
 額を襲う痛みと熱に顔を顰めながら、孔志は視線を庭の隅で咲く彼岸花へと向ける。
 赤い植物ばかりに目がいってしまうのは、この間の一件のせいだということは孔志自身分かっていた。
 突然姿を消した従姉妹。
 戻らぬ彼女を心配し眠れぬ夜が続き……友人たちの力を借りて戻ってきた彼女は目を潤ませ、ただ自分に謝罪の言葉を繰り返した。
 ちょっとした手違いみたいなもので誰かが悪かったわけではないと、彼女を連れ帰った人は云ったが。
 何があったのかと問いかける自分に少女はただ頭を左右に振った。
 何もなかったはずはない。だというのに静かに涙を流しながら口を噤む従姉妹に孔志はそれ以上問いを重ねることが出来なかった。
 彼女とは従兄弟同士であると同時に幼なじみでもある。本当に幼い頃からのつきあいで悪戯や喧嘩をして泣かせたことも数多くあった。泣き顔も何度も目にした。
 幼かった自分は、泣かせておきながらいざ泣かれると泣いてくれるな、とよく思ったものだった。もともと孔志は彼女の泣き顔が苦手なのだ。にもかかわらずちょっかいを出してしまうのは……性分としかいいようがない。
 ただでさえ苦手だというのにあんな底深い悲しみを抱えた涙を見せられてしまい、うろたえた自分は気の利いた言葉一つも口に上らせることができなかった。不甲斐ないことに子供の頃によくしたように、優しく頭を撫でてやることくらいしか出来なかったのだ。
 そのときにふと、奇妙な感覚に捕らわれたことを孔志は覚えている。
 頭の奥深くで何かが囁いているような、誰か懐かしい人の影が脳裏を駆け去っていったような、捕らえがたいけれども心に引っかかりを残す気配を感じた。
 けれどもそれが誰であったのか思い出すことができない。
 孔志は意識を彼岸花の艶やかな紅へと再び向ける。
 赤。赤。夢の赤。血の赤。桜の赤。悲しみの赤。
 男に語ってみせた己の内の赤と、従姉妹の涙に濡れた顔を思い出し、孔志は瞼の裏に浮かぶ少女に話しかける。
 お前にとって赤はなんだったんだ? そんな涙を流させるような何がお前の中にある?
 彼女が応えるはずもなく、孔志は再び小さく溜息をついた。
「……てぇ」
 たったそれだけのことで額の傷が疼く。
 満月の夜、夢を渡っていく男の背が従姉妹に変わって瞼の裏に淡く浮かび、形を結ぶまえに消え去った。


 その時、廊下の向こうでひどくけたたましく、頭痛を冗長させるような電話の呼び鈴が鳴った。




 駅の外に出ると空は夕闇に染まっていた。
 暮れなずむ街に温かく煌びやかな灯りが点り、昼間とは異なる顔を見せていた。
「ったく冗談じゃない」
 徐々にひどくなる額の痛みと電話の主の顔を思い浮かべ、孔志は顔を思い切り顰めた。


『今日は定休日だったよな』
 今更確認するまでもないことを口に上らせる相手……本店の店長であり、己の師匠にあたる男の声に孔志は嫌な予感を覚えずにはいられなかった。
 満月だから具合が悪い、と先手を打ってみても、それは分かっているが京都に来い、とにかく来い、今すぐ来い、といつもの調子で言い募る。
 なにやら高台寺ゆかりの集まりが明日開かれるらしく、その会場作りを任されたらしいようなことを早口にまくし立てる。そして孔志に口を挟む隙をあたえずに、じゃあ、夜七時に高台寺で! という言葉を有無を云わさぬ陽気な口調で告げると、こちらの応えを待たずに電話を切られてしまった。……会場作りが間に合わぬらしい。
 勘弁してくれとは思うものの、恩も義理もあり、弱味も握られている相手である。無下にはできない。盛大に溜息をつきつつ、新幹線に飛び乗りこうして秋の古都までやってきたのわけなのだが、華やぐ夕暮れの街に対して気分は沈むばかりだった。
 孔志は頭を軽く左右に振り、タクシーを捕まえるため、一歩を踏み出した。


 高台寺寿聖禅寺は豊臣秀吉の没後、その夫人である北の政所が東山に開創した寺院だった。境内の霊屋は彼女の墓所であり、北の政所と秀吉が共に祀られている。
 度重なる火災で建立当時の偉容は失われてしまったものの、かの時代を伝える開山堂、霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台は国の重要文化財に指定されている。
 だがそれよりも庭がいい、と境内を散策しながら孔志は思う。
 この寺院は春には桜が、秋には萩と紅葉が美しいことで有名だった。ちょうど今の時期は紅葉がその赤を深くし、萩は淡い桃色の花を咲かせている。
 それらと様々な草木が織りなす景色は昼の陽射しの中でも見る者を楽しませてくれるが、ライトアップされた夜間もまた別の貌を垣間見ることができ、趣深い。
 孔志は石畳の上をゆっくりと歩く。
 闇の中に白く浮かび上がる草木と旧き時代を思わせる数々の建物が孔志の中の何かを刺激する。額の傷を襲う痛みとは別に、胸の奥から何かがせり上げてくるような感覚にめまいを覚えた。
 待ち合わせの時間までまだあるからと夜間拝観を試みた自分を、眼前に広がる景色に魅せられながらも孔志は後悔していた。
 光に映し出された境内は幻想的で、美しく、それでいてどこか切ない。
 思い出せもしない昔、こんな景色を眺めていた気がする。もう会うことの出来ない誰かと。
 記憶にはないが、もしかしたら無くなった父母とこの地に来たことがあるのだろうかとも思う。
 ふらふらと観月池を通り抜け、臥竜廊へと進む。
 格段に痛みが増した額の傷を押さえながら一段二段と緩やかな石造りの階段を上るが耐えきれず、孔志はそのままその場に座り込んだ。
 深呼吸を繰り返しながらふと視線を上げれば、葉を赤く染めた広葉樹の姿と紅葉、そしてその梢の先に煌々と輝く満月の姿が見えた。
 闇と木々のざわめきと月の冴えた光、周囲を埋める紅に強く記憶が揺さぶられる。
 何かを忘れている気がした。とても重要な何かを。
 けれどもその記憶の片鱗さえも掴むことは出来ず、また間断なく襲う頭痛に孔志は頭を抱えた。
 その時。
 孔志の脇を誰かが駆け抜けていったような気がした。振り返りもせず。足早に。
 顔をあげ回廊の先へと視線を向けるが、静寂に満ちたその場には誰もいない。
 

 そこには誰もいなかった。
 ただ秋の紅が月の光の中で輝いていた。



END
 
 
PCシチュエーションノベル(シングル) -
津島ちひろ クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年10月17日

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