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『世界は眠っている 』
崎咲・里美2836

 鞄の中で盛大に携帯の着信音が鳴り出した。
「あれ、えっと、どこだっけ」
愛用の鞄は資料がたっぷり入るので気に入っているのだが、ポケットがたくさんついているのでいつも携帯をどこへ入れたか忘れてしまう。やっと取り出したかと思ったら、別の携帯だったというのもしょっちゅうだ。
 頭に敏腕のつく、フリーの事件記者である崎咲里美は、携帯電話を二つ持っている。九割方の友人、知人のためには片方の電話だけで足りるのだけれど裏の仕事のためにもう一つ、黒い愛想のない携帯を使っていた。
「はい、はいっと」
携帯にはメールが届いているだけなのだから、そんなに急がなくてもよい気がする。しかし一分、一秒を争ってしまうのは時間が命の職業柄だ。一通のメールを見逃すことでスクープを掴み損ねることだってある。
「あら、久しぶりの依頼だわ。内容は・・・と、あれ?」
裏の仕事は専らメールばかりが利用される。最初のメールで依頼内容が伝えられ、里美はあらゆるリクエストに応じて資料を集め、ときには危険を冒し、記事に起こす。それをパソコンから送信し、再び携帯に銀行振込の料金が通達されるという仕組みである。裏の仕事を依頼する人間は大抵後ろ暗いところがあるので、里美との接触をあまり好まないのだ。
 ところが今日のメールには
「詳細は直接会って伝える」
と書いてあった。指定された日時は今日の午後三時、ということは今から十分後。そして場所は。
「ええっ!?」
斜め前のカフェへ目をやって、里美は唖然とした。依頼主のメールにあった待ち合わせ場所はカフェの中にあるオレンジのソファ席。なんとそこでコーヒーを飲んでいたのは私服にサングラス姿ではあったが、間違いなく碇女史だった。
 月刊アトラス編集部の編集長、碇麗香であった。

 いかに有能な記者であっても、記事を載せる媒体とのつながりがなくては日々の糧は得られない。里美の場合は裏の仕事のように依頼を受けて書くことが多いのだが、時々は自分で見つけたこれはというネタを編集部へ持ち込んだりもする。それが怪奇現象であった場合は、必ずアトラス編集部へ最初に報せる。
「悪くないわね」
碇女史は、記事の感想を決して良いとは言わない。悪くない、というのが彼女にとって最高の誉め言葉なのである。それがわかるまでに、里美は三ヶ月ほどかかった。それまでは、持ち込みを止そうかと思ったことも何度かあった。だが三ヶ月目のときに悪くないわね、と言われたあとで
「あなた、ここで書く気はない?」
と、訊ねられた。それが勧誘だと気づいたとき、里美は嬉しいのと恥かしいのとで胸の奥がほわっと熱くなった。嬉しさ余ってそのまま頷いてしまいそうになったが、自分がなぜフリーでいるかの意味を頭の隅で思い出し慌てて
「い、いえ、せっかくですけど・・・」
首をぶんぶんと横に振って辞退した。あらそう残念ね、と碇女史はそのときすぐに引き下がってくれたのだが、以降も記事を持っていくたび、同じことは繰り返されている。
「やっぱり、ここで書く気はない?」
「せっかくですけど」
もはや、挨拶のようなものである。
 そんな挨拶を交わす碇女史が、どこで知ったのか自分の裏の携帯にメールを送ってきたのだ。もちろん、里美自身は教えたこともない。報道を仕事とする人間の情報収集力は、特に碇女史のそれは侮れない。
「あ、あの・・・」
カフェの中を見回しても、他にオレンジのソファはなかった。ということは間違えたふりもできず、覚悟を決めて里美は碇女史の正面に腰を下ろす。注文を取りに来た店員にはカフェオレを注文した。
「今回の依頼、なにを調べればいいんですか?」
「そうね」
碇女史は必要以上に緊張している里美をわざと焦らすように、ゆっくりとコーヒーを飲んで足を組み替えた。待たされ、待たされてカフェオレが来たところでようやく碇女史は口を開いた。
「天気予報ならぬ、事件予報っていうのはどうかしら」
「はい?」
「これから先、一週間の間に起こるであろう事件について、詳細を予見してちょうだい。あなたなら、できるわよね?」
「は・・・はい!」
挑まれるような口調に、思わず里美も意気込んで答えてしまう。だが本心は受けてしまったことを既に後悔しかけていた。

「事件予報って、なんなの?」
一人になってから里美は、碇女史の言葉を何度も反芻していた。どれだけ考えても、碇女史がなぜこんな依頼をしたのかが理解できなかった。現実世界の事件なんて、アトラス編集部にはもっとも関わりのない分野ではないだろうか。
「でも、依頼を受けたからにはやらなくちゃ」
プロであるからには、フランス料理屋でラーメンを注文されても応じなければならない。同様に里美も、どんな記事であろうと書き上げなくてはならないのだ。
「今日から、一週間後までの未来・・・・・・」
頭の奥、後ろのほうへ意識を集中させる。そこになにがあるのかはよくわからないのだが、なんだかわからないものへ力を注いでいるとふっと未来の映像が頭の中に落ちてくるのだ。 
恐らくそこは眠っているときに夢を見せる部分かなにかだろう、幼い頃の里美は時々予知夢というのを見ていた。はっきりそれが能力として目覚めたのは、十歳の頃体験した事件がきっかけなのだけれど。
「・・・・・・」
本のページをめくるように、里美は頭の中のイメージを次から次へとスライドさせていく。一週間という時間は決して短くなく、しかも世界中の一週間となると膨大になるので、確認作業だけでも精神を疲労させる。できる限り、瞬時に映像を送っていかなければならなかった。
 国内の予見が終了した。さらにアジア圏内も終了。アメリカ、ヨーロッパ、南アメリカ大陸にオーストラリアをやり飛ばし、アフリカへ目を送る。だが、どこを探ってみても、事件らしきものはなにひとつ見当たらなかった。
「嘘、でしょ?」
里美は能力を回復させるために一旦夜まで休息して、予見をやりなおしてみた。だが、二度目の未来も平和そのものであった。この先一週間、世界を揺るがす大事件はなに一つ起こらないと決められていた。
 里美は部屋の真ん中でうずくまった。多大なる徒労に対してではなく、このままでは言行が書けないという、自分の仕事へ対する不安のせいである。今まで、どんな無理難題を押しつけられてもこなしてきたのに、今回の依頼はそれに比べれば比較的容易いはずだったのに。
「自然災害もない、テロもない、飛行機事故もない、山火事もない」
こうして考えると、この世には事件と呼ぶものがどれだけ多いことか。海辺の真砂の如く、転がっている。それなのにこの先一週間、真砂は波にさらわれてしまった。
「なにか一つくらいあるはずよ、事件・・・」
諦めきれず、三度目を閉じようとした里美。しかし、今自分の望んでいたことがどれだけ恐ろしいことかと気づいて思わず手の平で頬を叩いた。
「私・・・今、事件が起こればいいって考えていた」
無意識とはいえ誰かが死ぬかもしれない、傷つくかもしれないことを願っていた。決してそれは許されることではない。今まで事件が起こるたび、刑事から聞かされてきたではないか。
「俺たちの仕事がなくなることが、この世にとって一番いいことなんだけどな」
忘れかけていた。里美はもう一度、気合を入れなおすために頬を叩くと立ち上がり、パソコンへ向かった。キーボードの上の指が、滑らかに動き出す。

 翌日、里美と碇女史は再び同じカフェの同じ席で顔を合わせていた。依頼のときと違うのは里美の頬がまだ少しだけ赤いのと、背筋がまっすぐに伸びていることである。
「どうぞ」
「早かったわね」
「予報なのに、新聞を見て書いたなんて言われたくありませんから」
それはそうねと口元で少し笑いながら、碇女史は里美が差し出した原稿に素早く目を走らせた。一度目は内容、二度目は誤字脱字がないかのチェックが行われ、三度読み返したあとで碇女史は目を上げる。
「原稿の趣旨について、説明してもらえるかしら?」
「はい」
あらかじめ来るであろう質問に、答える準備はできていた。
「今回の原稿の見出しは『世界は眠っている』です。この先一週間、日本はもちろん世界中で大きな事件は一つも起きません。ただしこれは、現代において事件が起こる以上に稀な出来事だと私は考えました。だからこそ記事にするべきではないかと、思うんです」
「そう」
碇女史はかけていたサングラスを外した。
「事件のないときに、あなたがどんな記事を書くか楽しみにしていたわ」
「・・・・・・あ!」
まさか、碇女史は一週間先の世界を知っていた上で自分に依頼したのではないか。里美は今更気づいた。彼女の情報網ならありえる話だった。
「想像したとおり、悪くなかった」
「あ・・・ありがとうございます」
しかし試されていた、とわかってもなぜか里美は嫌な気がしなかった。なぜなら碇女史は自分が最も尊敬する人物の一人であり、彼女に自分が試すべき価値のある人間と思われたことが、光栄であったからだ。
「やっぱり、書いてみる気はない?」
いつもの言葉が飛んでくるのを、里美は喜びと共に受け止める。
「せっかくですけど」
PCシチュエーションノベル(シングル) -
明神公平 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年10月11日

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