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『■奥深く―けれど残るもの■ 』
門屋・将太郎1522



 ふ、と妙に遣る瀬無い目付きで窓の外を見る。
 外気が無駄に熱に溢れる時期は過ぎた。今はもう窓を開けた途端に体中の汗腺が開くような季節ではない。逆に吹き抜ける風が時にひやりと肌を撫でる、その冷たさに微睡む季節。
「それもあとしばらく、ってところか」
 たそがれる風情でひたすら遠い目をするのは門屋将太郎。
 つい先日に移転した門屋心理相談所のカウンセラーであるところの彼は、同じビル内の他テナントからの音は気にも留めない。
 今、彼の心を占めるのは――来談者を前にする時は別として、かつて纏っていた着流しの事。
 いやいや別に「もう一度着ようか」だとか、そういう訳ではない。今までの過去を清算して、そうして新たな事務所で白紙状態から仕事を改めたいと思い、その決意としてトレードマークであった着流しを脱いだのである。そんなに簡単に撤回するものではないのだ。
 ではどういう形で占拠されているのかと言えば、気が付けば「着流し白衣」と命名される程であったそのトレードマークとしての印象深さが非常に問題だなぁという形。着流しは、今もって将太郎にとって特別な物。それを強い決意の証として大切に仕舞い込んでいるのだけれど、それは第三者に知れる事ではなく周囲からすれば「門屋先生が急に普通の格好に!」だとか「着流し脱いでどうしたんだ!」だとかそういう感覚になる訳で。
『着流しじゃないと先生じゃないねぇ』
 ふとした拍子に途切れる来談者。その小休止の現在。
 その直前の来談者の言葉がやはり将太郎に着流しを思い出させたのである。

 ――前の格好はどうしたの?
 ――着流しの方が先生らしいね。
 ――なんだか別の先生に相談してる気分。

 来談者がそれぞれに言うその内容に将太郎は、決意と共に脱ぎ記憶の底に隠した筈の着流しを甦らせる。
 どれだけ言われようとも服装を戻すつもりは無いけれど、それにしても、もう苦笑いして誤魔化すしかない日々に季節のせいもあるのだと言い訳しつつたそがれてみる将太郎だ。
 弟子や居候にも当初は慣れない様子で眺められたりもしたが、それも収まった現在は来談者の「着流し白衣」の印象強さだけが将太郎に着流しを思い出させる。
 それにしたってなぁ、と溜息ひとつ落として時計を見ればそろそろ次の来談者が訪れる頃。
 固まった首を回して弛緩させつつ椅子を回せば、その床を踏む感触に目を瞬かせた。
 将太郎が、着流しと同じように長く使っていた、いやこちらは開業当初から今も使う健康サンダルを思ったのだ。
 体重がかかるたびに足裏に伝わる独特の感触。そういえばあれも着流しを脱いだ折に脱ぐかどうかと思案したのだったか。
 けれど結局は健康サンダルは今も将太郎の愛用品だ。普通の格好でも健康サンダルであれば可笑しくはないだろうし、と誰にともなく零してそのまま現在に至るという訳で。
 仕舞い込んだ着流しと、今も使う健康サンダル。
 ラフな服装に合わせて履いても奇妙にならないから、という理由だけではなくそれに象徴される――と言うのも大袈裟かもしれないが健康サンダルと一緒に、捨てたり仕舞い込まずにいる過去があるのだろう。対照的な着流しと健康サンダル、それぞれの現状に将太郎はふとそう思う。
 改めて見下ろす自分の足。いつも履くのは健康サンダル。
 ずっと将太郎と付き合ってきた製品達。
 そして、そこに残るもの。
 捨てられない、捨てるつもりのない今までの自分を形作ったもの。
(これだけが……最後に残された俺の個性を活かしたものなんだ)
 眺めるうちに、健康サンダルがまさにそれを示す物だと思えて。
 時折窓から入る雑踏の音を耳に注ぎながら己の足に視線を落とし続けた。
「……お邪魔します、先生?」
 そうして神妙な面持ちで己の足を見下ろす将太郎の耳に扉を叩く音と、来談者の声。
 疑わしげなその響きに、これはまた言われるな、と先に苦笑してから穏やかに将太郎は人を安心させる声音で出迎える。
「こんにちは」
 変わるもの、変わらないもの。
 捨てるもの、捨てないもの。
 この職を志した気持ちのように、将太郎を形作ったものは着流しと共には仕舞い込まれずに、健康サンダルと一緒に今も有る。
 一雨ごとに冷える季節の風がすいと部屋を渡り、開かれた扉を抜けた。


** *** *


 その来談者が午前中最後の相手であったので、広げたファイルを閉じて机の上を片付けると将太郎は立ち上がった。
 言われたからといって着流しに戻すわけでもない。今の自分を貫けば、というのも大袈裟かもしれないが続ければ「門屋将太郎=着流し」という認識も薄れるだろう。それに期待してしばらくは我慢の子だ。
 ぐいぐいと腕を伸ばし筋を解し肩を揉む。
 座りっ放しで固まってしまった体幹を捻って軋むような感覚が消えるのを待ってから仕事場の扉を開けた。
 今の季節、窓を開け放して心地良い風を堪能するものだけれども、やはり扉一枚締まっていると風の流れ方も違う。
 別の微風が頬を撫でるのに微かに目を細めると、弟子分に軽く声をかけて相談所を後にする。
 健康サンダルをつっかけて外に出れば、コンクリートの照り返しも失せて久しい。あの屋内に戻りたくなる熱気が無くなって道行く人もなにやら表情に余裕があるではないか。将太郎はその顔を左右に巡らせてから歩き出す。
 少し歩けばすぐにコンビニエンスストア。
 昼食にはどの弁当を食べようか。
 それを真面目に考えながら進む将太郎の足取りは軽い。
 履き慣れた健康サンダルの感触を愉しみながら、ひょいひょいと人をすり抜けて彼は自動ドアを潜った。

 さあ、午後からも頑張ろう。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
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東京怪談
2005年10月11日

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