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『黒い鞄 』
瀬崎・耀司4487


 この平成の時世においても、瀬崎耀司は和装を普段着に選ぶ。雨の日には番傘をさし、月がうつくしい夜には縁側で杯を傾ける。しかし不思議と、時代を錯誤していると哂われることのない男だった。
 そうして和を愛する彼は、けして和を貫こうとするほど頑なではない。時と場合を考慮する、思慮深い男であったのだ。
 今夜の彼は、和装ではない。闇を切り取って縫い合わせたかのような、漆黒のスーツ姿だった。あまつさえ、車を走らせていた。黒い高級車の中でハンドルを駆る、黒い男――黒の中で、彼の緋色の左眼は、禍々しく光り輝いていた。非常灯のように、人びとに恐怖感を抱かせる輝きだった。
 耀司はエジプトでの発掘調査から、先月日本に戻ってきた。今回の発掘は大きな成果を得られ、耀司も満足のいく調査書と、それをもとにした論文が、わずか1週間で書き上がっていた。今日の午後いっぱいを奪われた考古学会で、耀司はその成果を発表し、学者たちの間に大きな波紋を投げかけたのだ。古い学者たちの驚愕の色は、耀司にとって心地よかった。学会で他の学者を圧倒するというのは、大概の学者が夢みることである。
 プロジェクターの光が照らした、驚愕。
 それを思い起こしながら耀司はハンドルを握る。
 黒い車は、鈴ヶ森に入っていた。


 ナイルが洗い流してしまった歴史の中には、人びとはおろか、地球さえも忘れてしまいたかったものがあるらしい。神聖文字の中にも、砂の中にも見い出せない王朝は、確かにあるのだ。
 耀司は、ナイルから遠く離れた砂の中から、ひとつの彫像を掘り出したのである。ヒトの文明は水、すなわち河や海とともにあった。ナイルは姿を変え続けているのだろうが、耀司が彫像を掘り起こしたその地に、水があった形跡はなかった。持ち帰った砂や遺物から、その事実を裏付けるデータが弾き出されている。
 その文明は、砂漠の中に、忽然とあらわれたものであるらしかった。
 彫像を掘り出すのに使った現地の民は、砂の中から顔を出した彫像を見るなり震え上がって、それきり発掘作業をやめてしまった。耀司は、彫像のすべてを砂から解放するのを断念した。黒曜石を彫って造られたその像は、あまりに巨大だったのだ。
 砂の中から現れた頭部の大きさは、かの有名なスフィンクス像の大きさに匹敵した。
 耀司の興味を惹いたのは、その大きさだけではない。
 黒曜石。
 ピラミッドにはけして使われていない石。
「黒い神像に呪われたら、おしまいだ。家族も子孫も、みんな呪われて殺されちまう」
 現地人はそう言って、身震いをしていた。
「ほう、どのように?」
「黒い空が、堕ちて来るんだとさ……」
「空に潰されちまうんだ」
「潰されて、空にされちまうんだ」
 面白い伝承だ、と耀司は思った。だがその場に、笑みもその言葉も残さなかった。郷に入りては郷に従えと、神妙な面持ちで頷き、発掘作業を取り止めたのである。
 しかし、写真にはしっかり残してきた。黒い彫像の顔には、なにもなかった。
 なにも。目も鼻も、口でさえも。それが頭部である、ということは、頭巾と髭飾りをつけていることで、辛うじて判別できた。彫像は無貌であったのだ。長いこと砂にまもられていた彫像の貌は、つるりぬるりと、星や月の光を受けて輝いているようだった。
 ――無貌。黒。呪い。……ふむ。引っかかるな。
 その彫像を見たときから、耀司の中で、ゆるりとなにかが首をもたげている。危機を感じているのか。それとも、呪いを受け入れようとしているのか――。


 車を走らせる前から、学会で発表する前から、胸のうちで震える混沌の気配を感じている。それを恐れる耀司ではなかった。むしろ心地いいと感じている。
 それはきっと、危ういのであろう。常人ならばここで恐怖しているべきなのだ。
 ――恐怖は、忘れたな。では、僕は、狂っているということなのかもしれない。
 笑みがこみ上げてくるような感覚にも、耀司は戸惑わない。
 ――戸惑えない、のだろう。
 鈴ヶ森を通りすぎようとしたそのときだった。
 この真夜中に、暗がりから警官が姿を現して、耀司の車を止めたのである。

 はて、制限速度は守っていたし、シートベルともしているし、携帯電話を片手にしていたわけでもないが。
 訝りながらも、素直に耀司は車を止めた。警察に逆らってもいいことはない。
 警官は運転席側のドアに立ち、無遠慮に懐中電灯の光を耀司に向けて、窓をおろせとという仕草を見せた。あまりに強い光が目の前にあるために、耀司は顔をしかめた。この光では、ろくに警官の顔もわからない。
「どうかしましたか」
 耀司は、自分からそう尋ねていた。
「その鞄の中を見せろ」
 警官は、かすれた声で、威圧的な態度を示した。警官の顔がわずかに動き、顎で助手席の鞄を指したのがわかる。耀司は、光に対してではなく、警官に対して、睨みを利かせた。
「それは任意ですよね。見せなければならない理由をお聞かせ願えますか」
 令状でも持って来られない限り、警察官の命令に無理に従う必要はないのだ。まったく今日日の警察は命令口調が好きなものだ、と耀司は心中でため息をついた。
 しかし返ってきたのは、死刑宣告にも似た脅しだった。

「私が見せろと言っているのだ。見せよ。さもなくば貴様を砂と空に喰わせるぞ」

 無貌だ。
 その警官は無貌。
 そもそも、警官なのかどうかもわからない。耀司はそれでも、冷静だった。背中をぞくぞくと走るものは、悪寒ではなく、一種の好奇心と快感であったか。
 耀司が鞄を差し出すと、警官は片手で中を探った。そして、引き伸ばした写真を取り出したのだ。
 ふふう、
 警官は、笑った。

「これをどこで見た」
「エジプトですよ。ナイルからも遠く離れた、砂漠の真ん中です。……よく撮れているでしょう」
「実によく撮れている。瀬崎耀司。実に見込みのある人間だ」
 かちん、と警官は懐中電灯のスイッチを切った。
 耀司の視界は、夜の闇に包まれる――はずであった。
 しかしそこに、警官の無貌が浮かび上がっていたのである。邪悪で危険な光を放ち、警官の肌は、闇の中で輝いていた。光る腕が、写真どころか、耀司の鞄を奪い取った。
「私に目をかけられること、誇りに思うがよい。瀬崎耀司。おまえが人間の歴史に魅入られるのは、ひとえに、疑問を抱いているためであろう。人間が何故に、斯様な文明を築いたか。たかが哺乳類である人間が、何故この星の気まぐれな怒りを乗り越え得たか。何故、神と云う概念に憑かれているか。ははは、知りたいのであろう。人類の真理を!」
 そのとき、空が堕ちてきた。
 ぐしゃりと車が押し潰される。潰れた屋根が、たちまちどろどろと溶かされていく。空がその胃袋を広げたのだ。星のまたたきと恒星が放つ放射線が、目も、肌も、意識も灼いていく。
 けれども瀬崎耀司は、それを恐ろしいとは思わなかった。
 子供のように目を輝かせて、宇宙が自分を取り込もうとする瞬間をまっていた。
「人類を知りたくば、私を学べ! 宇宙を学べ! 中心で踊る意志なき創造主に触れるのだ。イア! アザトース!」
 無貌の男はげらげらと神を嘲笑い、空に喰われて、消えてしまった。瀬崎耀司の姿も、鈴ヶ森も、地球も……溶けて、消えていく。


 気づけば耀司は、窓を下ろしたまま、鈴ヶ森の何の変哲もない道ばたで、車を止めているところだった。秋の夜風が、車内に吹きこんでくる。いやに冷たい、乾いた風だった。エジプトの熱風が懐かしく思われて、耀司は窓を閉めた。
「……」
 助手席を見てみれば、そこにぽつんと残されているのは、彼の財布。和装によく合う札入れだ。財布を手にとって見れば、その下には、真鍮色の懐中時計があった。
 論文や資料、黒い彫像の写真を収めた鞄はない。
「やれやれ……」
 返しては、もらえないのだろう。けれども、いいものを見せてもらったし、いいことを聞かせてもらった。
 耀司は上機嫌で、アクセルを踏みこむ。警官に止められてもおかしくはないスピードで、彼は鈴ヶ森を出て行くのだった。




〈了〉
PCシチュエーションノベル(シングル) -
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東京怪談
2005年10月07日

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