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『愛の挨拶 』
神居・美籟5435)&柳月・流(4780)



真っ白な猫の毛を夕陽の橙が鮮やかに染め上げる。しなやかな手足は減速の方法を知らぬかの如く自由自在に駆けて行き、混凝土塀に開いた歪な穴に身を潜らせた。其れを確認した瞬間、後を追っていた柳月・流の顔に明らかな焦燥の色が浮かぶ。
「げっ、マジかよ」
思わず洩れる舌打ち。形式として穴の中を覗き込んで片腕を通してみるものの猫を掴む感触は一切無く、穴は流が通れる程幅も無い。無理な体勢に攣りそうになった片腕を慌てて引き抜くと、その場に尻を附いて思案した。
塀は実寸一杖強。力を使えば跳び越えられぬ高さでは無い。然し、猫一匹捕まえる為に其処まで向きに成るのも気が進まぬ。流は此の辺の地理に暗い記憶を如何にか探り、脇道に逸れた所に塀の向こうへの入り口が在る事を思い出した。流は喋喋しい身振りで腰を上げると、来た道を一旦引き返して本道から外れた細道を歩き出した。
流の記憶が正しければ此の道の先には明治初期、華族の屋敷が建っていた跡地が存在する筈である。何でも大昔に凄惨な殺人事件が起こったとかで、不景気の最中、信じ難い程土地値が下がりに下がって地を這い続けているのにも関わらず買い付ける人間は疎か寄り付く人間すら居ないらしい。
其れにしても、元華族様の敷地は流石に広い。視線が届く範囲まで灰色の塀が延々と続いている。
流は通りを歩きながら猫探しの依頼を受けた事を後悔し始めていた。
「ってか、長過ぎねェ?」
十分近く歩き続けている筈なのに灰色は途切れないし、入り口らしき物も見当らない。
真逆。もしかして。
二つの思いが流の胸中で鬩ぎ合い、葛藤が徐々に不安を煽る。そして、片方が片方を完全に喰い尽してしまうと流は頭を抱えて途方に暮れた。
「……んっと信じらんねー」
道を一本間違えたのだ。
入り口が在るのはもう一本向こうの逆の通り。瞬く間に力が抜けて行き、やる気と謂う細やかな支えを無くした流は重力に抗う事無く地べたにしゃがみ込んだ。如何しよう、と謂うかもう如何もしたくない。
帰りたい、と呪詛の言葉の様に繰り返しているとふと何処からとも無く聞こえて来た楽器の音に溜め息を呑み込んだ。聞いた事も無い不思議な音色。
木々のさざめき、小川のせせらぎ、穏やかな海の潮音、小鳥の羽音―――――人が聴いて大凡心地良いと感じる音の中から更に選りすぐって美しい部分を紡いだ様な恍惚の旋律。
流は此の音を奏でる事の出来る楽器が一体何なのか知りたくて、疲労も忘れて旋律に導かれる侭再び前へと向かいだした。
暫く歩くと其処には荒れ果てた空き地が広がっていた。空き地の三分の一を埋め尽くし咲き乱れた曼珠沙華、流の視線は其の中に佇む一人の少女に注がれた。
歌っている。此れは音色では無く、少女の歌声だったのか。
流の存在に気付いたのか歌声は途切れ、少女は緩やかな仕草で流を見遣った。視線が合う。
黒だと思った瞳は深い、溺れそうな蒼だった。其の瞳を見つめた瞬間、流の心に形容しようも無い不思議な感情が湧き上がる。其の感情は温かな液体に溶け出して、目蓋の縁から零れ落ちて行った。
過去に置き去りにして来た筈の何かが無性に恋しくなった。



太陽が主役を譲る準備を始め、黄昏が緩やかに幕を下ろし始める。次第に濃くなって行く夜の馨りを吸い込んで、神居・美籟は長い睫毛を震わせた。
人の馨は感覚を鈍らせる。香水の馨りも酒の馨りも、ほんの細やかな石鹸の馨りですら真実を偽り隠す手段と成る。無論、心の馨を聞くのと人工的に作り出された馨りを聞くのとでは知覚する感覚を分けねば成らないが、結局行き着く先は同じなのである。
判断と謂う最も重要な使命を下された器官―――――脳だ。
冷静な判断力には其れなりに自信が有る美籟でも其れが絶対に正しいかと問われれば躊躇ってしまう。目紛るしく流れ込んで来る情報を処理して切り捨てて整頓する中で混乱が起きないとは言い切れないのである。
だから、摂取する情報量は最低限に絞りたかった。自然と人混みを避け、喧騒を避け、触れ合いを避ける。其れは幼い頃から染み付いている習性の様なものだった。
やがて美籟は人気の無い空き地に好んで入り浸る様に成った。否、入り浸ると謂う程頻繁に立ち寄る訳でも無い。只、ふと思い出した様に此処を訪れては自分の望む様に、歌った。
肌寒さを孕んだ菊月の風が黒髪を持ち上げて露に成った項を冷ややかに撫でて行く。美籟は寒さは疎か感情ですら何も感じていない様な仏頂面で喉を震動させた。
喉越し良く滑り出した旋律は外気を受けて更に広がり、伸びて行く。歌詞は無い、けれども何故だか強い共鳴を受けずには居られない不思議な歌声。
其の声に滲み出した僅かな不安定さが自分の寂しさや哀しみの表れだとは思いたく無かった。
沈み行く夕陽と満開の曼珠沙華が今日の観客だ。美籟は自分の心に溜まった膿を吐き出すかの如く、観客達に自らの歌声をぶつけた。
違う。
心の中に溜まっているのは膿では無い。
膿とは死んだ細胞だ。
此れは未だ死んでは居ない。

只、殺したがっているだけだ。

己の歌声に混じってパキリ、と小さく枝を踏む音が聞こえた。美籟は歌うのを止めて、其方へと振り返った。一人の少年が此方をじっと見つめている。
少年の顔の中で主張する曼珠沙華よりも鮮やかで、夕陽よりも深い紅から美籟は眼を離す事が出来なかった。
心臓に穴が開いてしまった気分だ。其の穴から外側だけを包んでいた冷たい何かが流れ出して、中に隠していた滾る何かが露に成り心臓に焼け付く様な熱を齎す。鼓動が早まる。息苦しさに眩暈がする。
感銘しているのか?私が。―――――馬鹿馬鹿しい。
穴の開いた心臓は、そんな嘲りの念さえも薪にして、只管燃え盛る。少しだけ泣きたくなった。



美籟は制服の胸元に縫い付けられた隠しから絹の手巾を取り出して、流に差し出した。戸惑いの所為か眉間には皺が寄り、何時に無く険しい表情を浮かべている。流は其れを怒りの表現だと勘違いして、躊躇いがちに手巾を受け取った。
「アリガト…あの、えっと…今の歌、何て曲?」
平静を装いたくても言葉が上手く喋れない。舌が器用に回らない、自分と相手に対する驚きで脳がきちんと機能していないのだ。
閊え閊えの問い掛けは自分でも滑稽に聞こえて、流は照れ隠しに手巾で涙を拭った。純白に斑の染みが浮かぶ。清らかな流水に顔を浸している様な絹の心地好い感覚がとても名残惜しい気がした。
「…愛の挨拶。エルガーの曲だ」
「へ、へぇ…」
「…………」
会話が途切れる。流にもう少し古典派音楽の知識があれば、少しは間を持たせる事が出来たかも知れない。だが、彼には古典派音楽に対する興味など大凡存在せず、又興味の無い事に記憶を費やせる程、器用な人間でも無かった。
沈黙は続く。然し、考えてみれば必ずしも無理に言葉を交わして会話を繋げる必要など無いのだ。
恐らくは此の侭何も話さずに別れても後々何の支障も無い。親しくする理由等存在しない。
だが、数奇な偶然で巡り会った相手と折角結んだ縁を切るのは互いに名残惜しかったのだろう。
流は此処数年を思い起こしても思い当たらない程脳を酷使し、美籟は余りにも感傷的過ぎる自分自身に大いに戸惑った。
そして。
「そ、そうだッ!折角愛の挨拶って題名なんだし、俺達も自己紹介の挨拶なんてどうよ…なんて」
何が折角なのだろう。流は自分の言葉に疑問を持ちつつも、美籟の反応を窺った。多少警戒心を解いたのか先程よりも眉の皺が薄れていた。
「…良いだろう」
「え、良いの?」
「だが、先ず其方からだ」
飽く迄も威圧的な態度を崩さない美籟に流は逆に遣り易さを感じ、仰々しく咳払いを一つ零して口を開いた。其の顔には笑みが浮かぶ程の余裕が見て取れる。
「えっと、俺は柳月流。年齢は…まァ外見よりは上だと思ってくれ。職業はフリーター兼何でも屋。何か困った事があればお気軽にドウゾ」
「何でも屋……」
「そ。依頼はマジどんなくだんねー事でも良いから。浮気調査でも、靴磨きでも、猫探しでも…ってヤベ。そういや俺、猫探してたんだわ」
脳裏にごてごてした指輪を嵌めた中年女性と、お高くとまった血統書付きの白猫が浮かぶ。
ま、良いか。投げ遣りに吐き捨てられた言葉は美籟の眉間の皺を魔法の様に消し去ってしまった。
「私は、神居ミライ。ミライとは美しい籟と書く。籟とは風が物に当たって発する音を示す。…女学校の高等部に通う学生だ。趣味は…歌と、甘味を食す事だ」
「甘味ィ?何かあんまイメージ出来ねェなァ。どっちかっつーと辛党って感じ」
「其れは如何謂う意味だ」
「そりゃそのまんま…って嘘嘘。冗談だから其の背後の黒いオーラ消してくんね?」
漆黒の気を立ち昇らせる美籟と、其れに大袈裟に怯える流。美籟が口角を緩ませたのと流が声を立てて笑ったのは殆ど同時だった。
語る言葉を無くし二人の間に再び沈黙が訪れる。然し、其れは一刻前迄の後味の悪い沈黙とは違い、酷く心を落ち着かせた。沈黙が苦に成らない古い親友同士の様な、そんな不思議な感覚だった。
其の時、一陣の風が起こり二人を包んだ。曼珠沙華が優雅に身を踊らせ、巻き上がった砂埃がきらきらと沈み掛けた日の光を反射する。夕陽は頭の僅か天辺だけを残して、西の空を壮絶な茜色に彩っていた。
「…日が暮れる前に帰らねば」
何故そう思ったのだろうか。美籟は無意識に零した呟きに当惑しつつも、撤回はしなかった。
本能が此処に長居をしては成らないと訴えている。
此の侭此処に居ては、彼と一緒に居ては―――――――私が私で無くなってしまう。
失礼する、別人の様な硬質さを取り戻した響きは一度取り払った筈の警戒心を帯びている。美籟は颯爽と流の横を通り過ぎて、出入り口へと向かった。
美籟が意識的にそう装っているのだと感じて、流は少しだけ消沈した。だが、美籟の只管真っ直ぐに伸びた、芯の通った後ろ姿を見るととても清々しい気がして頬が緩む。
「また会おうな!」
遠ざかって行く背中に大声を投げ掛ける。出入り口を後一歩で出ようと謂う所で美籟は足を止めた。
そして、静かに背後を振り返った。日の光で染め上げられた右頬と、影の中に溶け込んだ左頬。変わらないのは美籟の蒼が流の紅を映し出し、流の紅が美籟の蒼を映し出す、其の不均衡さだけ。
美籟は再び身を翻すと躊躇わずに空き地の外へ歩を進めた。音も無く日が沈む。空は鮮やかさを失い、照明を失った曼珠沙華は日陰の花へと変わる。
風の名を持つ少女と、風に愛された少年。
必然論に従って、二人は再会を果たすだろう。
去らない予感は二人を縛り付ける。
風の名の許に。







初めまして、柳月流様。そしてご無沙汰しております、神居美籟様。作者の典花です。
この度はシチュエーションノベル(ツイン)のご依頼有難う御座います。納品がギリギリになってしまい申し訳御座いません。前回お名前の漢字を間違えると謂う初歩的で最も失礼なミスを犯したのにも関わらず、再びお仕事を与えて戴けて光栄です。
神居様のお心の深さに大変感謝しております。
さて、今回は流さんと美籟さんの出会いについてのノベルだったのですが、理想の出会いに少しでも近付けたでしょうか?
古風と謂うテーマからは少し逸れた気がして、反省している所です。長く成れば成る程出て来る粗を少しずつ切り捨てて行けるように努力したいと思います。
其れでは此の度は本当に有難う御座いました。此れからも何卒宜しくお願い致します。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
典花 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年10月03日

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