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『継がれるものか、継がれたものか 』
早津田・玄5430)&早津田・恒(5432)


 ヒグラシたちの声が筒抜けだ。ということは、こちらの会話も、ヒグラシたちに筒抜けだということになる。
 正座で向かい合う父と子は、揃ってしかめっ面だった。息子の恒が、ぎろりとその目を動かして、開け放たれた襖の向こうのヒグラシを睨みつけた。縁側から見える梅の木に、ヒグラシが確かにとまっているのだ。
 早津田邸は、縁側もあれば中庭もあり、囲炉裏もあれば襖と障子もある、日本家屋の鑑のようなものだった。古いが、手入れは行き届いており、門構えから家柄の由緒の正しさが見て取れる。この家を継ぐさだめにある少年は、現代っ子だった。この古臭い家は、彼にとって、「古臭い家」でしかない。風情も由緒も彼の心の琴線に触れることはなかった。
 その少年は、いま、畳と襖と掛け軸の、絵に描いたような和風の応接間で、父・玄に一枚のプリントを渡したところだった。

 現代文:85点
 古文/漢文:88点

 ここまではいい。
 この調子で高得点がずらりと並べばなんの問題もないのだ。
 だが。

 政経:51点
 世界史:55点
 哲学:47点
 化学:45点
 数学:32点
 英語:32点

 玄の額に稲妻じみた青筋が浮かび上がった。確か、恒の高校――神聖都学園高等部の、いわゆる『赤点』は、30点以下だ。数学と英語は赤点ぎりぎり、というより赤点に等しい。
 これが、高校3年生の息子の、夏の実力ともなれば、その親は進路の心配をするのが当然だ。
 早津田恒の夏季実力テストの成績は、そうして、たった一枚のプリントにおさめられていた。学年平均点や学年順位も算出されている。よく見れば、現代文と古文/漢文の点数以外はすべて平均点以下という有り様だった。
 玄の猛禽の目が、ぎろりと動いて息子を見据える。息子は渋面で中庭を見ていた。
「……おい!」
 弦が短く吼えると、恒の目がすばやく父に向けられる。
「なんだこりゃア。テストのとき、腹でも痛かったのか」
 玄の怒声は地を這うように低い。猛獣の唸り声にも似る。いまにも目の前の獲物に飛びかかり、八つ裂きにしてしまいそうな迫力があった。しかし、こうして毎日のように父に睨まれ、お小言や怒声を頂戴している恒であるから、その迫力の効果は薄い。
「……べつに。ちょっと眠かったけど、体調は万全だった」
「まァた一夜漬けか」
 するどい一言に、う、と恒は言葉に詰まった。都合の悪いことに、恒は感情が表に出やすいたちだった。図星であったことが、父にしっかり伝わってしまったのである。――もっとも、その表情が仮になかったとしても、恒の一夜漬けの事実はとっくに父の知るところであったのだが。テスト前日、恒の部屋には午前3時ちかくまでデスクスタンドの光があったのだ。恒はテストの前日をのぞけば、普段そこまで夜更かしをしない。
 テスト中、倒さねばならない敵は無論問題だったが、恒の場合、その敵のほかに睡魔とも同時に戦わねばならなかった。
「一夜漬けってのはな、所詮その場しのぎだ。身になんか着かねエ。……いつも言ってるだろうが。その場しのぎでなんとかするのはよせ、ってな」
「……追試も補習もないんだぞ。乗り切れたんだからいーじゃんかよ」
「おまえは!」
 目を泳がせて言い訳した恒を、玄は一喝した。ぐむ、と口をつぐんで、仕方なく恒は玄の黒い瞳を真っ向から見つめる。
「まさか呪術にもそういう生半可な意気で向かってるんじゃねエだろうな」
 玄の視線が、鋼の刃のようにするどい。何ものをも貫き、斬り伏せてしまうかがやきを持っていた。今日はそのかがやきに加えて、怒気を孕んだ声もある。ヒグラシが怯えて、鳴き止んでしまうのではないか――。
「来たよ。すぐこれだ」
 しかし恒は、その刃のような視線を弾き返して、うんざりとかぶりを振ったのだ。
 たちまち玄の額の稲妻が増えたが、彼は息子の言い分を聞いてみることにした。
「なんなんだよ、すぐに呪い呪いって……! なんでそうやってすぐ家業に結びつけんだよ! 現代文と古文の点はいいだろ。ちゃんとうちの古い巻物とか本とか読んでる証拠じゃねーか! 呪いの勉強は命に関わることだから真面目にやってるよ。学校の勉強とは別物だろ!」
「……命に関わることでなけりゃア、どんな気持ちで向かい合ってもいい、ってのか」
 厳めしい表情を崩さず、銀の顎鬚を撫でながら、玄はぴしゃりと言い切った。ぐっ、と恒が再び言葉に詰まる。目も……畳に落ちて、泳いだ。

 早津田家は古今東西の呪術と向き合うさだめにある。理不尽な呪いやおぞましい呪いを、はね返すのではなく、完全に消滅させる力を持つ。凶暴な呪いの権化と立ち回るための独自の古武術も持つ。
早津田の跡継ぎとして生まれた恒は、幾世代も続く早津田の、膨大な知識と技を会得し、父と同等か――それ以上の存在にならねばならない。
 恒に使命感はなかった。ただ、呪いという(いまでは)現実離れした事象や、極めれば純粋に強くなれる古武術に、少年ならではの好奇心を抱いているのは確かだ。呪いや邪な存在を倒すとき、そのイメージの手助けをするのは古武術の型だ。先祖が遺した古い文献を読み漁り、いくらか文にも慣れている。
 しかし、父のことばは恒を間違いなく射抜いた。命に関わりそうもない事柄や、小難しい理論の類は、斜め読みに近かったから。

「言い返せねエか。図星ってわけだな」
 玄が、ぐっと眉間の皺を深くした。
 自らが放った言霊が、恒の胸を貫いた。まるでそれがはね返ってきたかのように、玄の左胸が、しくりと痛んだ――ような気がしたのだ。大した痛みではない。気のせいだと片付けられそうな程度だ。
 しかし痛みは、玄に、ある予見を思い出させるには充分な力を持っていた。
 いまの恒には、家業を継ぐ気があまりない。ふらふらと遊び歩いていないだけまだましではある。だが――あまりにも未熟だ。玄が見守ってきたこれまでの18年間で、恒はあまり目覚しい成長を遂げていないようだった。少なくとも玄には、そう見えるのだ。そんな息子が、必ず、父の『呪』を継ぐという。
 玄が呪いで死に至ることはない。だから、仕留めきれなかった『呪』を、自分でかぶってやることもあった。『その場しのぎ』、の方法なのかもしれない。玄を滅ぼすことも出来ず、弦の身体にとどまる呪いは、奇怪な痣や腫瘍の姿をとっていた。
 この『呪』を――恒が継ぐのか。恒に、父親と同じ、べらぼうな耐性は備わっているのか。呪いに喰われず、呪いを飼い殺す力はあるか。
 しくり、とまた玄の左胸が痛む。とりわけ大きく、醜い痣が、玄の左胸に浮き出ているのだ。忌々しい小さな痛みに、自然と玄の手が動く。
 この痛みを、息子は気のせいだと笑い飛ばせるだろうか。否。この程度の意気の若造に、それは期待が過ぎるというものだ。
 玄は腕を組み、左胸を押さえかけた仕草をごまかした。都合のいいことに、彼は感情が表に出にくいたちだ。いまの暗鬱とした親心は、きっとヒグラシたちにさえ伝わっていない。

「……そんな中途半端な気負いのガキが、一人前な面ァしやがって。そのうち取り返しのつかねエことになるぞ。もう、妙な事件に首を突っ込んだりするな」
「……!」
 恒の目が、たちまち吊り上がった。
 彼は、覚えたばかりの早津田の知識や技、生まれ持った力をもって、ときおり探偵まがいのアルバイトをしていた。草間興信所やアトラス編集部といった機関で斡旋された怪奇事件の調査や、神聖都学園における不可思議な事件を追い、解決している。それを、父の玄にはひとつも話したことはない。……得意になって話せば、きっと怒り出すだろうと、自覚していたのだ。
 けれども彼は、けして悪事をしているわけではない。父に隠し事をしている、という程度の後ろめたさは抱いていても、恒は『人助け』をしていたつもりなのだ。
「……どっから聞いてくんだよ、そういうこと……!」
「この業界はなア……縦にも横にも繋がってるンだ。聞きたくなくても耳に入ってくる」
「……俺はッ!」
 父が、自分の秘密をすでに知っていたのは不愉快だ。そしてそれ以上に、人助けが『余計なこと』とという扱いを受けていること――自分には、まだ人を助ける資格がない、と言っているも同然の父の言い分は、恒にとって、腹立たしいことだった。
 恒は猛然と立ち上がり、座ったままの玄を見下ろして、声を荒げていた。
「俺は、人助けをしてんだぞ! べつに悪いことじゃねーよ! それに、こいつは俺の力なんだ。俺がどう使ったって……俺がどんなことしたって、俺の勝手だろ!」
「恒!」
 玄が狼のように吼えたが、激昂する息子には届かなかった。恒は大股で応接室を出ていき、古い廊下を軋ませながら、行ってしまった。
 応接室には、高校3年生の恒を示す一枚のプリントと、玄が残された。

 ――なんなんだよ。俺に出来るだけのことは精一杯やってるんだよ。悪いことなんかしてねーだろ。なんで怒るんだよ。なんで、なんで……なんで成績の話が、いっつもいっつも、こうやって……家の話になるんだよ! 頑固親父!

 ――ああ、どうしていっつもこうなんだ。俺はだんまりで、おまえは先に逃げてくンだ。はっきり言ってやればいいのか、俺は。おまえが心配だ、ってェ言えばいいのか。言えば言ったであいつはまァた怒り出すンだろうな。くそ、……馬鹿息子!

 け・け・け・け・け・け……!

 ヒグラシが、暗い声で嗤っている。
 遠くの林から聞こえるヒグラシの合唱は、ふぃふぃふぃふぃふぃ、とまるで鈴を振っているかのようなうつくしい声であるのに……、近くでこうして聞いてしまえば、なんと醜く、おぞましい声だろうか。
 声を黒い瞳で睨みつけて、玄は、ヒグラシよ去ねと半ば呪った。
 たちまちどこからか、地味な羽根をひるがえし――1羽のヒヨドリが現れた。玄が恨んだ笑い上戸を、ヒヨドリは横ぐわえにして、さっと梅の幹から飛び立った。あっと言う間の狩りだった。
「……」
 玄は目を、中庭からそらす。
 目の前には、たった一枚の紙。
 恨むまえに、玄はその紙をくしゃくしゃに丸めていた。




〈了〉
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2005年09月20日

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