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『現世は夢、夜の夢こそ真 』
伏見・夜刀5653

 

 赤錆、深紅、唐紅、燕脂、今様――――否。何れにも当てはまり、また、その何れにも染まらぬ濃紅色。此れはもはや焔であり血色であり、そしてぬらぬらと大地を染め上げる、沈み往く西日の名残香だ。
 夜刀は今その視界を埋め尽くしている一面の紅に、感嘆を成すわけでも驚嘆を評してみせるでもなし、只黙したままでその場に佇んでいる。
 その眼に映る全ての色は、それは即ち風に揺らぐ儚き華が放つ色の鮮やかさ。
 曼珠沙華
 天上の華と云う名を冠するその華は、音をあげる事も無く只静かに揺らぎ、風に開き、風に散って逝く。
 華ばかりが埋め尽くす地を見渡す眼を持ち上げて、頭上に広がる天を仰ぎ眺める。天の色もまた地と共にあり、薄い紅を一面に滲ませている。
 流れ往く雲の一筋さえも見当たらぬ、見事なまでに円いその天を、夜刀は一頻り見遣っていた後に、再び一面の曼珠沙華へと視線を向けた。

 今ここに在るこの風景は、何処か背筋がぞわりとする程に、空恐ろしいものをも漂わせている。
 今、自身がこの場に在るその理由。そういったものへの不審から覚える等と云ったようなものとは明らかに理由を逸した、その感覚に。
 夜刀は軽く腕をさすり、留まっていたままの己の歩を、気持ち僅かに進ませた。

 曼珠沙華は其の華の有る内は葉の伸びる事はないと云う。
 成る程、確かに。
 見渡す限り広がり夜刀の足を留めようと揺らぐその華の中、その見事に統一された色彩に野次を入れるような野暮は、只の一つも見当たらない。
 
 しゃわり、しゃわり
 華を踏み潰さぬようにと心を寄せながら、ゆっくりと確実に足を進める。
 ――――時折思い出したように背筋を冷やしていくのは、この広がる濃紅の、その噎せ返るような色の故であろう。ともすれば眩暈さえ引き起こしてしまいそうな……、いや、そうではなく。
 そういえば。
 ふと過る思念を浮かべ、夜刀は小さな溜め息にも似た息を一つ吐く。
 そういえば、赤は、人を狂気へと導く色ではなかっただろうか。
「……参ったな」
 ぼそりと呟き、足を留める。しゃわりしゃわりと揺らぐ華の渦が、その足を絡め取ろうとでもしているかの如く、しゃわりしゃわりと花弁を風に乗せて宙をも埋める。
 
 此れは恐らく夢の中での風景だろう。
 頭の何処かが、やけに鮮明にそう呟いている。然しその反面で、別の何かが頭をもたげて夜刀にささやきかけるのだ。
 ――――それじゃあ、この場に有るこの気配も。全てが夢幻だとでも云うのだろうか。

 しゃわり
 何者かが、夜刀の後ろで華の幾つかを踏み付けた。
 振り向くと、其処には和装の女の姿があった。

「お待ちしておりました」
 恭しく腰を折り曲げ丁寧なお辞儀をするその女は、見ればその顔に深井の面を着けている。無論その表情やら顔立ちやらを窺い知る事は出来そうにもない。只その声音から察するに、相応に年端の寄った女であろう事だけは確かに知れた。
「……僕を?」
 夜刀はその眼で女の面を見止め確かめてはみるが、女の声は微塵の揺れも見せる事なく、只淡々と言葉を続けるばかり。
「此方へ。お嬢様が首を長くしておいでです」
 女は夜刀のその問い掛けに応じる様子も見せず、しゃわりと華を踏み付けて急ぎ足を進めて歩く。
 夜刀は、しばし女の背を見遣っていたが、やがてのろのろとその歩みを進めてみる事にした。
 ――――どうせ、あてのない夢なのだから、何時ものように時計が朝を知らせるのをのんびりと待つのもいいだろう。
 ――――朝を迎える? 今、この場で? どうやって?
 交錯する二つの思念に、夜刀は思わず知らず眉根を寄せた。
 ――――眩暈がする。

「此方で御座います」
 華の向こう、否、華の中に忽然と姿を見せた一棟の日本家屋を前にして、女は再び此方を見遣り、頭を下げた。
 物々しい雰囲気を漂わせている門を潜り抜け、続く石畳の細道へと足を寄せる。石畳を囲むのは見事なまでの真白な玉砂利で、手入れの届いた松やらが其処彼処に姿を見せている。
 夜刀がその場を踏み往くと、道の脇を囲むように立っている数人の女がその面々を覗かせた。そのどれもが、やはり、面を着けている。
「御待ちしておりました」
「御待ちしておりました」
「御待ちしておりました」
 女達はそのどれもがすらりと腰を折り曲げ、一つの乱れもなく、一様に同じ所作を見せている。
 屋敷の上に広がる空はやはり紅色で、振り向いたその向こうに見えるのは、やはり大地を埋め尽くさんと広がる曼珠沙華の色だった。

 長い長い廊下を軋ませて、夜刀は女の後ろをついていく。
「此方でお待ちで御座います」
 ようやく辿り着いた一室を前にして、女はついと膝を曲げて頭を下げた。
「お嬢様、お客様がお見えで御座います」
 果たして中から返ってきたのは、か細い、消え入りそうに弱々しい女の声であった。

 案内されたその座敷は、木の匂いと畳の匂いとが入り混じったような空気を充たしたものであった。
 開け放たれたままの障子窓の向こう、一面に咲き誇り揺れる曼珠沙華が一望出来る。
 広いその座敷の中央に、只一つ、和布団が敷かれてある。その上で此方を見ているのは、長い黒髪を一つに束ねた、色白の少女の眼であった。

「……貴女は?」
 少女の横に腰を下ろし、夜刀は柔らかな微笑みを向けた。
 見た処、年の頃ならば十代半ば程といったところであろうか。少なくとも、夜刀よりは若干年下であろう。
 少女は夜刀の問い掛けに応じてみせるでもなし、どんよりと曇った眼差しで、夜刀を――――そう、まるで吟味するかのように見据えているばかり。
「……あの、僕は、どうやら人違いをされてしまったようなのです」
 頭を軽く掻きながら、弱りましたねと続けて微笑する。少女は、しかし、やはり一向に口を開こうともせずに、只夜刀の顔を見遣っている。
 
 沈黙。
 静まり返る部屋の中、秋の気配を押し広げた風が入りこみ、空気を震わせる。
 虫の声の一つでもあれば、この沈黙はさほどには息苦しいものではなかったかもしれない。が、虫の声の一つはおろか、天を滑るように舞う蜻蛉の落とす影の一つでさえも見当たらない。
 部屋の外にある一面の真紅を眺めた後に、夜刀は改めて少女の方へと視線を向けた。
「……あの、」
「お前様、彼の華をどう思われますか?」
 不意に少女が口を開けた。どこかくぐもった、淀んだ空気を思わせるような声音だ。
 夜刀は少女の問い掛けに対して小さな唸り声をあげ、幾分か思案した後にゆったりと首を傾げる。
「……壮観、でしょうか。……統一された色合いが、美しくもあり、……そうですね……どこか空恐ろしいような」
 応えると、少女は昏い視線を持ち上げて夜刀の金の双眸を見遣り、目を細ませた。
「恐ろしい……?」
「……ええ。……あれだけのものになると、まるで……」
「まるで?」
 少女の淀んだ眼差しが夜刀を真っ直ぐに見据える。
「……まるで……」 
 答え、ちらと障子窓の向こうを見遣る。
「……腕が生えているようで」
 呟くようにそう続けると、それまでは只涼やかに吹き流れていた秋風が、その顔を一変、豹変させた。
 生温く湿度の高い気味の悪い風が、夜刀の髪をひゅうと鳴らして掻き混ぜる。
 視界を支配せんばかりに広がる華の頭が、その風によってふらりと垂れた。
 まるで此方を手招いているかの如くに揺らぐその姿が、夜刀の背をぞわりと撫でる。
「わたくしがお前様に聞き入れていただきたい事は、只一つきりで御座います」
 何の前触れもなし、少女が口を開いた。
「わたくしの伴になっていただきとう御座います」
 少女の声が汚泥にも似た音を響かせる。
 夜刀はその言葉に刹那黙した後、緩やかに笑みを滲ませた。
「……いいえ、此れは今僕が見ている夢の中での御話です。貴女の言葉に、僕は頷く事は出来ません」
 返し、少女の顔に目を向ける。更に言葉を続けようと開きかけた口は、しかし言葉を成す事なく閉ざされた。
 少女の顔には、生成の面が着けられていた。眼が睨み据えるように夜刀を確かめる。
「いいえ、いいえ、いいえ、いいえ。お前様はわたくしとここに留まるのです」
 淀んだ汚泥を思わせる声音がざわりと水面を震わせる。
「いいえ、いいえ、いいえいいえいいえ、いいえ、いいえ…………ア、ア、アァあ、ガアガ」
 面の下で少女の声が裏返り、長い黒髪はうねりをあげる大蛇の如く渦巻き、骨ばった真白な指が狂ったように頭を掻き毟る。鮮血が飛ぶ。其れが夜刀の頬にも飛び散った時、初めて夜刀は腰をあげてその場を後にした。
 長い長い廊下。開け放たれたままの障子を取り囲むように、曼珠沙華がざわと揺れる。
 廊下は途方もなく続き、どれだけ走っても果ては顔を覗かせようとはしなかった。
 ざわ ざわ ざわり
 曼珠沙華が風に揺れる。はたと見れば、其れは血に塗れた人間の腕の姿へと変容していた。

「お前様はわたくしとともにこの場に留まり続けるのです」

 少女の声が耳元で小さな笑い声をあげた。

 ざわざわと揺れる華
 ざわざわと手招く腕
 少女が笑う 
 
 ――――アァ……アァ――――アアア――――――!

 ――――何処かで聞き慣れた目覚まし時計の音がした。

 夜刀は、背をじっとりと濡らす寝汗と共に目を覚まし、腕をついてがばりと上体を持ち上げた。
「……夢……」
 呟き、額を拭う。そうする事で幾らか落ち着きを取り戻した心を抱え、見慣れた自室をぐるりと見渡した。
「…………!」
 氷のように冷たいものが、夜刀の背をぞわりと撫でる。
 其処は彼の部屋の中ではなかったのだ。
 見慣れた家具の代わりに夜刀を囲むその顔は――――

 ざわざわと揺らぐ曼珠沙華の華、華、華、はな
 それを踏みつけながら、何者かが此方へと歩み寄ってくる音が聞こえた。


―― 了 ―― 
PCシチュエーションノベル(シングル) -
エム・リー クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年09月20日

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