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『新宿は月の下 』
光月・羽澄1282)&葛城・伊織(1779)


「ちわー、ッす」
「もう『こんばんは』の時間じゃないの?」
 大概の家庭が夕食を食べ終わっている時間に、「こんにちは」という挨拶を引っ下げて、調達屋『胡弓堂』を訪れたものがある。そんな客を、呆れた突っ込みで受け入れた店員もあった。
 光月羽澄と、葛城伊織だ。
 ふたりが付き合っていることは、『胡弓堂』の関係者にとっても衆知の事実である。もとよりオープンな状態で付き合い始めたふたりだったが、それでも、連れ立って店を出たり、羽澄の部屋に伊織が上がりこんでもひやかされることがないのは、気楽でよかった。
 ふたりの関係には、なんの障害もない。その代わり、お互いの間にも遠慮や秘密はありえない。
「仕事は? 終わったの?」
「おお。ついさっきな」
「どこも怪我してない?」
「この俺が怪我するわけがなかろう!」
 伊織の仕事は、エアコンの風の下でキーボードを打つような類のものではない。鍼をもって、魔を退けるのだ――病魔や、妖魔を。怪我をしてもおかしくはない、物騒な仕事だ。悪事ではないが、堂々と人前でできる仕事でもない。伊織の退魔能力は優れていたが、羽澄はいつでも仕事帰りの伊織に尋ねる。どこにも怪我をしていないのか、いつも通り首尾よく終わらせることが出来たのか、と。
 しかし羽澄の尋ね方は、あたかもそのあとに、「ごはんにする? それともお風呂?」と続けそうな、そんなどこか女房じみたものであった。
 ふたりは、いまのところ夫婦ではない。結婚してみようと思ったことも……ないかもしれない。将来ひょっとすると結婚するのかも、と冗談混じりに考えたことがあるくらいかもしれなかった。こうして突然の夜中の訪問にも大して驚かず、一緒にのんびりと昼寝をしたり、どちらかが風邪を引けばつきっきりで看病をする。それ以上でも以下でもない。この関係にあることが、「甘んじている」とも思っていない。どこか曖昧だが、確かに強く結ばれている。奇妙で不思議なものなのだ。
「でも、ちょうどよかった。これから伊織呼ぼうと思ってたの」
「ん、なんか用だったか?」
「用意してるとこだったからちょっと待ってて。……その辺のものつままないでよ!」
「もう遅いですね」
「……あーっ、ちょっと!」
 羽澄が何も食べるなといったときにはすでに、伊織は食卓の上にあったバナナを咀嚼していた。羽澄はすばやく手を伸ばしたが、バナナはもう半分近く食べられていたし、皮をむいてしまった状態のバナナを奪ったところでどうすることも出来ない。羽澄は伊織を軽く睨みつけて頬をふくらませると、支度の続きをはじめた。
「……どっか行くのか?」
「うん。そうね、散歩」
「こんな夜にか!」
「最近、涼しくなってきたでしょ。夜風にあたるのも悪くないと思うけど」
「……んー、まあ、一理ある……かな」
 釈然としないまま伊織がバナナを食べ終わって、皮を三角コーナーに捨てる頃、支度を終えた羽澄が振り返った。
「お待たせ。行こ」


「で、そりゃ何だ? 羽澄」
「バッグ」
「……そうじゃねエだろ! なんて典型的なボケだ。小学生か?!」
「まあまあまあ。男のひと中に入れてるわけじゃないよ」
「当たり前だー!」
 新宿の中心部を横切るふたり。羽澄の手には大きなスポーツバッグ。彼女がそんな大仰で、(伊織に言わせると)無粋なバッグを持ち出すのは珍しい。男ひとりは入りそうにないが、1泊分の荷物は入りそうな大きさだ。そして彼女は、そのバッグの中身を明かそうとしなかった。おまけに伊織は、この『散歩』の目的地がどこなのかもよく聞かされていない。
 ともかく――駅に向かっているわけではないから、羽澄が新宿でなにかしようと企んでいるのは確かだ。
「なんだ、弁当か?」
「……」
 呆れたように伊織が言うと、羽澄は一瞬言葉に詰まり、目を見開いた――だが、幸い、彼女は伊織の半歩先を歩いていた。伊織が羽澄の顔色の変化に気づくことはなかった。
「……中身が食べものなら、伊織、とっくに気がついてるでしょ」
「なんでだ」
「鼻利くもの。犬みたいに」
「コラ!」
 芸人のように突っ込んでから、伊織は笑った。
「どんな匂いも、ここじゃかき消されちまうって。この排ガスじゃアさ」
「そっか」
「しっかし、こんな時間になっても車すげエなあ、新宿は」
「そうだね」
「で、そのカバンの中身は何なんだ?」
「ひみつ!」
 スモッグの下にあっても、時間が夜であっても、羽澄の髪と笑顔はまぶしい。街灯とヘッドライトの光など、比べ物にならない。しかし、太陽ではないのだ――ならば、なぜ、輝いているか。他に輝くものと言えば?
「月だ……」
「えっ?」
 思わず『喩え』を口にした伊織に、羽澄は、今度こそぎくりとした表情を見せてしまった。


 羽澄が、「それ以上何も言うな」とばかりに急ぎ足で伊織を連れこんだのは、新宿のビル群の中でもひときわ高く、新しいビルだった。夜も遅かったが、明かりは消えていないし、自動ドアもすんなりと開いた。ロビーには落ち着いたクラシックが流れ、新宿の夜の雑踏は別世界の音のように遮蔽されている。伊織は、初めて入るビルだった。
 すれ違う社員たちは、笑顔で羽澄に会釈を残していく。羽澄は迷うことなく入り組んだフロアを歩き、途中出会った警備員と一言二言会話を交わしてカードキーを手に入れ、黒いエレベーターの前に立った。
「……おまえはなんだ、このビルのオーナーかなんかか」
「んーと、オーナーの知り合いの娘ってことになってるはず。どの階にも顔パスなんだよ」
「スパイかおまえは!」
 エレベーターが来た。羽澄はとりあえず、伊織の突っ込みに小悪魔のような微笑で答え、エレベーターのドアが閉まってから、こっそりと彼に耳打ちした。
「ここね、Lirvaの所属事務所なの」
「おう、そういうことか」
 光月羽澄がプロフィール完全シークレットの歌手Lirvaであることを知っている者はごくわずかだ。この事務所の社員たちにすら伝わっていないのだろう。羽澄はあくまで、『ビルオーナーの知人の娘』というわけだ。
「このビルはおまえさんの庭かァ」
「そ。とっておきの場所があるの」
 伊織を見た羽澄は、またしても、悪戯っぽい笑みを浮かべたのだった。


 エレベーターが上り詰め、さらにその上へと、階段で上がる。目の前に現れた強固な鉄の扉を、羽澄はカードキーで開けた。
 羽澄の細い指が、手が――重く分厚い鉄の扉を開ける。
 生温かい東京の初秋の風。
 街の光が照らす空。
 おう、と伊織が感嘆の声を漏らす――。
 月だ。


    月月に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月


「んー、そうだったな。十五夜だ」
「私も伊織も、今日は仕事が入ってたし。せめて東京の特等席を用意しといたの」
「用意、っつったってなア」
 ぐるりと周囲を見渡して、伊織は苦笑した。
 望月が見下ろす『特等席』には、なにもない。気の利いた音楽があるわけでもなく、懐石料理が卓に並べられているわけでもない。ここはコンクリートと埃、排ガスの臭いが生温かい風に乗ってやってくる、無愛想なビルの屋上にすぎない。ごおうごおうと街道を行き交う車の足音と、ざわめきがすぐ近くにあるのだ。
 けれども、屋上の情景から羽澄に目を戻したとき、伊織は、確かに月見の『用意』がされていたことを知るのだった。羽澄が例の大きなバッグから、次々と月見グッズを取り出しているのだ。
「おいおいおい、中身がこれじゃ、黙ってるわけだよな」
「つまみ食いされちゃたまんないもんね」
「俺だって『待て』の命令くらい聞くぞ」
「犬だから?」
「はは。そういうことにしてもいい」
 バッグの中から取り出されていくのは、ゴザに重箱に月見団子。日本酒。重箱。
 最後に出てきたのはススキの穂。
「……そんなもんまで持ってきたのか!」
「お月見といえばススキとお団子でしょ?」
「そういう問題じゃねエよ。……こんな詰めてきて、重かったろ。俺に持たせりゃよかったのに」
「こんなの、全然大したことないよ。帰りに持ってもらおうかな?」
「帰りは軽くなってるぞ。酒瓶も重箱もカラになる」
「お団子もなくなっちゃうんだろうね」
 笑いながら、羽澄は日本酒の蓋を開けた。用意周到な彼女は、枡まで用意していた。枡に並々と注がれた酒をかっと一息で飲み干して、伊織は大きく息をつく。
「はァーッ! この辛口! たまらんな!」
「やだもう、オジサンくさい」
「オジサンにもう一杯!」
「ピッチ早いよ……」
 重箱の中身はきっちりと小奇麗で、そつなく、完璧な出来ばえの和風弁当だった。弁当のみならず月見団子も、すべてが羽澄のお手製だ。『用意』にはそれなりの時間を要している。羽澄にも、今日は仕事があったというのに。
「……わざわざ、悪ィな、こんなに」
「ううん、いいの。私が好きでやってることだよ」
「でもよ、豪華な弁当と旨い酒が、なんだか勿体ねエな。こんな五月蝿いとこじゃなくて、せめて俺ンちとかで月見るべきだったんじゃないか?」
 望月はそろそろ中天に上りつめようとしている。新宿はこんな時間でも眠ることがない。朝方や夕暮れの雑踏ほどではないが、伊織の家の縁側とは確かに比べ物にならないほど賑やかだ。月の光も、新宿に圧されてくじけかけているようにも見えた。
「ううん、いいの」
 羽澄はまた、微笑とともにかぶりを振った。
「私、この街が好きよ。好きな街で見る月は格別」
「……ん。気持ちはわからんでもない」
「空、晴れてよかった。天気予報じゃ、夕方から雨って言ってて……どきどきしてたの」
「ああ――昼間は天気悪かったもんな。しっかし、アテにならない天気予報だ」
 ふたりは微笑を望月に向けていた。
「……十三夜も、この場所か?」
「どうしよっか……?」
 この東京の月を、こうして団子やススキを前にして見上げている人は、一体どれくらいいるのだろうと考えながら。
 もし自分たちに子孫が出来たら、きっとこの風習を伝えて、絶やすことなく続けていかせるにきまっている。月見はけして悪いものではない。そして、どこでも出来ることだ。
「……あたしも、飲も」
「オイ、未成年」
「大丈夫、ほどほどにするから」
「そういう問題じゃねエだろって」
 酒瓶を奪い合うふたりは、からりと笑い声を上げた。笑い声は雑踏に呑まれる前に、風に乗っていた。




〈了〉
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2005年09月16日

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