▼作品詳細検索▼  →クリエイター検索


『たゆたう罪の儚き夢 』
榊・遠夜0642)&榊・紗耶(1711)


 冷ややかな真珠色を模した闇が、世界と、そして榊遠夜の意識そのものをボンヤリと包みこんでいた。
 地面もなく、天井もなく、ただ白いだけの空虚な場所。
 ここはどこなのかを知りながら、遠夜は何も見えない世界で俯き、そして耳を澄ませる。
 それは予感であったのかもしれない。
 あるいは、願いであったのかもしれない。
 現から抜け出した、どこでもないどこかでそっと彼女の名を口にする。
 そっと、そっと。
 だがソレが音になることはなく、空に溶けて消えてしまう。
 それでも、紡いだ声なき声は確かに彼女へと向けられていて……
「……久しぶり、というべき?」
 ほのかに笑みを含んだ、鈴の音のように透き通って儚げな声が、ふっと背後の闇から差し出される。
 それは不定形な夢に意味とカタチを与える。
 遠夜は瞳に安堵とも苦悩ともつかない色を滲ませながら、ゆっくりと、見えない水を掻くようにゆっくりと振り返る。
 そして、
「沙耶……」
 向かい合う、それはかつて自分とまったく同じ顔をしていた魂の片割れ。
 運命の鎖で繋がれた、もうひとりの自分。
「沙耶………来てくれたんだ……」
 安堵の溜息のように、言葉を洩らす。
「兄さんが私を呼ぶ声は聞こえるから……あの場所でも、ここでも、ちゃんと」
 二人を満たす白い闇。
 差し伸べられる華奢な手が、遠夜の下ろされたままの手を取る。
「ちゃんと聞こえている……誰の声よりも大きく、強く、痛みを感じるくらい、ね……」
 絡まる指先から、互いを隔てる存在という名の壁が融けあいそうな感覚に襲われる。
「呼べば、聞いてくれるのか……」
 繋がる指をそのままに、求めさえすれば彼女の漆黒の髪が触れられる距離にあることを噛み締める。
 かつては当たり前に傍にいた。
 沙耶は遠夜であり、遠夜は沙耶だった。
 あの頃の自分たちには、互いを隔てるような自我の境界線などないに等しかった。
 どちらがどちらの感情なのか、どちらがどちらの思考なのか、それすらも曖昧なまま、まるで互いを自身であるかのように錯覚さえしながら。
 生まれてからの5年間だけが、遠夜にとって心が満たされた時間だったのだ。
「手を伸ばせば、触れられるのに……」
 滑らかなその手触りに、切ないほどの郷愁と罪悪感が込み上げてくる。
「沙耶は、どこにもいない……」
「……でも……どこにもいない代わりに、どこにでも行けるのよ、兄さん……こんなふうに、ね?」
 呼んでくれたら、どれほどの空間を隔てていても会いに来れる。
 どれほど隔絶されていても、この領域まで引き寄せられる。
 そう、沙耶は微笑み、血の気の失せた唇で密やかに囁くのだ。
「兄さんの仕事も、手伝えるくらい傍にいる……兄さんの見ているもの、兄さんでさえ見えないもの、すべてが私には判るから……ほら、今も……」
 遠夜を通していながら、妹はまるで違う位相を眺めている。
 彼女の瞳が映すのは、過去であり、未来であり、誰かが見続ける永遠そのものである。
 夢を視、夢を渡り、夢に生きることしか出来ない彼女。
 けして自分と交わることのない道に進んでしまった彼女。
 胸が軋んだ音を上げる。
「沙耶……沙耶、ごめん……」
 強張ったままの顔が僅かに歪む。
「どうして謝るの?」
「……お前がそうなったのは、僕のせい、だから……」
 あの日、妹を自分から奪ったのは、他ならぬこの両手だ。
 もしも。
 もしももっとちゃんとしていれば、もっとちゃんと自分をコントロール出来ていれば、もしも自分がこんなチカラをもってさえいなければ、彼女はここに居なかった。
 こんな世界に心を閉じ込められたりはしなかった。
「見せたかった……お前こそが見るべきだったんだ……あの景色を……あの世界を……あの、瞬間を……」
 桜が散り、舞う――眼にしたのは、鎌倉の屋敷を取り囲む薄紅色の、それはとても美しい幻想風景だった。
 遠夜にとってあの場所は、けして居心地のいいものではなかった。
 その身に眠る力がけして外に漏れないように、この眼に宿る力がけして他者を傷つけたりしないように、幾重にも張られた結界の中で隔離され続けた日々に、懐かしさなど感じるはずもない。
 だが、それでも……どれほど不自由な生活を強いられていたとしても、今の自分は眼で見て、肌で触れ、実存する全てを五感で受け止める側にいる。
 しかし、彼女を取り囲むのは、白い壁と白いベッド、そして生命を維持するのに必要なチューブだけだ。
 絶やさぬように生けられる花たちも、沙耶の周囲を彩ることはしても、その心を楽しませることは出来ない。
 彼女は何も感じない。何にも触れられない。ただひたすらに、利用され続けるだけの、夢見人でしかあり得ない……
「叶うなら、僕は……」
 いっそ、叶うことなら。
「沙耶……まだ夢は醒めないの……?お前の夢はまだ、僕をここへと引き摺りこみ、永遠に閉じ込める未来を暗示してはいないのか?」
 硬く視界を閉ざして、呟く。
「僕とお前が……」
「兄さんと私が……?」
「僕とお前が」
「入れ替わるということ?」
「そう……そういう未来こそが正しいはずなんだから……」
 定められていた運命は、彼女に科せられるべきものではなかったのだ。自分こそが背負うべき罪だった。
「ねえ、覚えてる?2人で手を繋いで、私たち、どこまでも歩いたの……」
 けれど、自身を追い詰め続ける遠夜の言葉に、沙耶はまるで聞こえていないかのような優しい声を被せてしまう。
 懐かしげに目を細めて、口元をほころばせて。
「兄さんと過ごしたのは5歳までだけど……私、今でもちゃんと覚えている……今でも時々この世界であの日の欠片が見つかるわ」
 何もない白いスクリーンに、沙耶は過去を映し見ている。
 まるで切り取られたフィルムのように、記憶の断片がここには無数に散りばめられているのだ。
 上映される夢たちは、彼女のための思い出。
「ほら……兄さん、すごく嬉しそうに笑っている……私、兄さんにはいつでも笑っていて欲しいと思ってるの……」
 透明で純粋な、それは祈りにも似た言葉。
 しかし、
「見えない。僕にはそんなものは見えないよ、沙耶」
 妹の穏やかな時間を遮るように、遠夜は彼女の手を引き、抱き寄せる。
 光溢れる幼い日々に思いを馳せることなど出来ない。
 彼女の言葉に耳を傾け、夢にたゆたう彼女と共に笑みを浮かべて、幸福だった日々を共に語る資格などない。
「ねえ、沙耶……今でも僕は、あの日の光景を繰り返し夢に見るんだ……繰り返し繰り返し……」
 自分が思い出すべきなのは、ギリギリと魂に刻み付けるべきなのは、内側から突き上げる、あの病んだ力が暴走した瞬間だ。
 感情がソレに追いつくことはなく。
 ひたすら出口を求めて放たれた凶悪な闇。
 破壊と。
 破滅と。
 破局とを呼んで。
 悲劇は思わぬ時に、唐突にその幕を開けたのだ。
 沙耶の傷。永遠に消えない傷。彼女は今もベッドに繋がれる。
 遠夜のせいで。遠夜の為に。遠夜がいたから。
 暗い痛みが足元からじわりと浸透してくる。
 視界を染めあげる、鮮赤。舞い上がる桜の花びらすらも濡らし、穢し、彼女は壊れた。
 彼女を壊した。
「沙耶……沙耶……僕さえいなければ、お前は幸福を約束されていた……お前には自由が与えられるはずだったんだ……僕の存在がお前を……」
 どうすればいい。どうしたらいい。どうすることが、償いになるというのだ。
「……ねえ、兄さん……」
 けれど、彼女の穏やかな声は、血を吐きそうなほどに自分を痛めつける遠夜を包む。
「それでもね……」
 何も映さない虚空の瞳で覗きこむ。
「私は兄さんが大好き」
 そうして浮かべるのは、深淵に立つ夢見の巫子の、殉教者にも似た慈愛の笑みだ。
「……沙耶……」
 彼女は常に赦しを与える。
「お前はいつも僕を甘やかしてばかりだ……」
 彼女は生まれ落ちたあの日から、一度として遠夜を責めたことがない。
 こんなにも罪深い兄を、妹は愛していると微笑んでみせる。
 だからこそ、哀しい。
 だからこそ、苦しい。
「僕が、ここに留まるべきだった……本来なら、僕が……ここにいるはずだった……」
 愛しいモノを抱く腕を、自分はもう持ってはいない。
 愛しい妹を抱く資格を、自分はもう持ってはいない。
 妹から夢から醒めるなら、混沌とした白い闇から救われるなら、心臓を抉り出されてもいいとさえ思うその強い切望を、彼女は止める。
「……ねえ、もう時間よ……」
 縋りつくことも出来ず、ただ許しを請いて俯く遠夜の頬に、沙耶の指先が触れ、誘うようにそっと顔を上げさせる。
「ほら、朝が来る……世界がまた目醒めるわ……」
 導かれるままに振り返れば、いずこからともなく光が射し込まれ、白い闇に塗り潰された世界がじわじわと明けていく。
「兄さんには陽の世界が似合う……私じゃないの……兄さんこそが、あの世界に触れ続ける資格を持っているの……」
 朝を告げる光が満ちていくほど、鮮明なはずの遠夜の意識はぼんやりと霞み掛かっていく。
「違う……違う…っ……僕がここにいるべきなんだ。お前じゃない。沙耶じゃない。本来なら僕こそが……」
 緩やかに訪れるまどろみから逃れるように、必死に首を横に振る。
 けれど、眠りを振り払うように言い募る遠夜の唇に、冷たい指が押し当てられた。
「ねえ、行って……私は、兄さんのためじゃない……私自身の為に、ここにいたいの……」
 ここにいることが、私の幸福。
 ここで兄さんを見つめていることが、私の幸福。
 そう注げて、沙耶の手が、遠夜の唇からそっと離れ、そして心臓の辺りをトンっと押す。
 覚醒の波に侵食されていく体が、それに抗うことなどできなくて。
「ねえ、兄さん……大好きよ……」
 足元が揺らぐ。
 視界が急速に失われていく。
 遠退く世界。
 そして。
「……だから……こっちにきては、だめ……」
 意識は途切れる。



 カーテンの隙間からシーツの上へと射し込む清浄なる朝の光。
 約束された、今日という日の訪れ。
「……沙耶」
 誰もいない部屋で遠夜は胸を掻き掴み、膝に顔を埋め、痛みを堪えるように嗚咽を洩らす。
 救いたい。なのに、今日もまた朝の光を受けて目覚める自分が許せない。
 彼女を連れ出せない自分の非力さが許せない。
 愛しい者を救う術を、自分はまだ得られていない。
 贖罪の日々に至る道が見つからない。
「……沙耶……沙耶……僕は、どうすれば、いい……?」
 永遠に交わらないまま、儚く、あまりにも遠くで微笑む妹に、届かない問いを投げ掛け続ける。



END
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
高槻ひかる クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年09月15日

投票はログイン後にできます。

ログインはこちら












©Frontier Works Inc. All Rights Reserved.