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『『風景写真 ― 夏、馨る日に ―』 』
槻島・綾2226


 夏、馨る草木の匂い。
 蝉時雨は途切れる事無く鳴り響いて、夏を満たす。
 僕は車の窓を全開にして、木陰に止めた車の中でそんな夏の音を聴く。
 岐阜県の香嵐渓。
 秋には紅葉で有名な土地だけど、夏でも川遊びに釣り、と有名なレジャースポットだった。それに舞い降る落ち葉の紅はとても鮮やかで、心はっとするような光景だけど、夏の日差しを浴びて輝く草木の濃い緑も、とても眩しくって心震えるような綺麗な光景だと僕は想うから。
 これは完全なる趣味の旅行。
 昨日までは仕事。
 東京から新にできた中部新国際空港に飛行機で降り立ち、そのままセントレアと呼ばれる中部新国際空港を取材して、それから地元、常滑市の焼き物の散歩道や常滑焼きの作家の工房を中心に取材した。
 それから中部新国際空港近くの競艇場の所にあった大きな常滑焼きの招き猫の写真も撮れたし。反応が楽しみだ。
 最後の取材先である半島の先にある温泉があるホテルに一泊し、取材を終えた僕はそこのホテルの人にレンタカーを手配してもらって、香嵐渓に来た。
 海、ときたら山。
 ただそんな理由でやって来た気ままな一人旅。
 朝の9時にホテルを出て、11時には香嵐渓に着いていた。
 そこで僕は道の脇の木陰に車を止めて、窓を全開にして小休憩。
 座席を倒して夏に耳を傾ける。
 様々な種類の蝉の鳴き声。東京では聞けない蝉の鳴き声もあって、僕は蝉時雨という名のオーケストラの中からその音色を聞き取りながら、その声で鳴く蝉の名前を求めて記憶を探った。この声で鳴く蝉は何だったろうか?
 聞こえてくるのはようやく暗い土の中から這い出して、暑い夏を栄養剤に残り短い夏を謳歌する蝉の鳴き声ばかりではなくって、子どもらのはしゃぐ声も。それが愛らしい。
 時折、ふいに香った匂いに行った土地の先々を思い返して懐かしく想う事があるけど、子どものはしゃぐ声が思い出せてくれたのは僕の子ども時代。
 暑い夏、麦藁帽子をかぶって、虫取りをした事や、サイクリング自転車に乗って、地元の神社仏閣巡りをしていた事。思い返して、ふと笑えてくれる。
 懐かしくって愛おしくって、そして少し照れくさい昔の自分。子ども時代の僕の思い出。
 僕は苦笑して、それから車の座席シートを起こすと、車を発進させた。
 と、言っても来た道を少し逆走。
 伊勢神トンネル。そこを通過してサービスエリアでガソリンを入れて、ついでに僕自身のガソリンも入れる。
 せっかくの香嵐渓。
 川に沿う道を車で走り、心掴む風景を写真に撮って、それから川にも触れよう。
 たくさんの物を見て、触れて、聞いて、東京に帰ったら伝えたいから。
 そのための車と僕のガソリン補給。
 サービスエリアで食べたのは立ち食いそばと、名物の五平餅。
 五平餅は真空パックのお土産もあるので、買っていこうかな?
 隣の席の客が話していた噂話、伊勢神トンネルの怪談。赤い自動車でトンネルを通ると幽霊が現れるとか、どうとか。
 僕は肩を竦める。
 確か伊勢神トンネル、心霊スポットとしての伊勢神トンネルは旧街道の方のトンネルのはず。
 そう想って苦笑を浮かべてしまったのは、知り合いの怪奇探偵を思い出したから。きっとこういう噂話を聞くだけでも彼は顔をしかめるのだろう。本当はハードボイルドを気取りたいのに人の良さと星回りの悪さのせいでいつも彼は怪奇絡みの厄介事に巻き込まれているから。
 僕は肩を竦める。それから五平餅のお土産を彼と、彼のかわいらしい妹さんにも持っていこうと想いながら車に戻った。
 頭の中の予定では僕はこのまま車を流して、景色の綺麗な適当な場所で車を止めて、川の方に降りて少し遊ぶつもりだった。
 だけどいつだって予想外の事は起こるもの。
 急に車の調子が悪くなって、動かなくなってしまった。
 僕は慌てて車から降りて、車を後ろから押して、何とか道の脇に止める。
 何とか車を治せぬものかと想いながらボンネットを開けて、エンジンとかを見てみるけど、どうにも素人に何とかできそうなレベルでは無かった。
 僕は顔を片手で覆う。
 携帯電話で連絡をとろうにも、圏外になったり、アンテナが一本しか立たなかったり。
「これは伊勢神トンネルのサービスエリアまで歩いていかないとダメかな?」
 それでもまだ完全に神様には見放されてはいなかったらしい。
 ハザードランプを点けた車の脇に立つ僕を見て、車を止めてくれた人がいた。
「どうしました?」
 60代ぐらいの農家の男性、そんな感じの人が真っ黒に日焼けした顔に人好きのする笑みを浮かべて、声をかけてくれる。
 僕は彼に事の詳細を説明し、そしてわざわざ彼が僕を乗せてサービスエリアまで行ってくれる事になった。そこのガソリンスタンドの従業員になら治せるかも、と。
 しかしそうそう上手くは行かなかった。イカレタ部品の交換をしない事には車の修理はできず、結局はガソリンスタンドに配置してあるレッカー車で故障した車をそこに運んで、修理業者を待つ事になったのだが、しかし運が悪い事にその部品を取り寄せるには一日待たないといけなくって、結局僕はそこに車を置いて、農家の男性の家に泊まる事となった。
「どうも本当にすみません。ご迷惑をおかけして」
「いいんよ。うちは婆さんと二人きりで、誰に遠慮する事も無いから。明日業者が来たら家に電話してくれる事になってるから」
「はい」
 僕はくすりと微笑み、それからもう一度頭を下げた。
 車内に流れる演歌を聞きながら僕は窓の向こうの後ろに流れて行く車窓を見つめる。
 川の風景はとても綺麗だった。
「河童が居るんよ、ここの川には」
「え? 本当にですか?」
「ああ、本当に。本当に。有名な話なんだから。長野だけじゃないんよ、河童が居るのは」
「はあ」
 僕は苦笑をし、それから川を見つめる。
 でも案外と河童も本当にいるのかも、僕はそう想い、それから今度は河童を訪ねて長野に行くのも良いなと想った。
 岐阜県恵那市、合併される前は串原村。蒟蒻が特産物のそこが男性の暮す地で、僕の一夜の宿。
「気持ちの良い場所ですね」
「あはははは。若い人には何も無くってつまらん場所でしょう?」
「いえ、そんな事は無いです。涼しいですし、それに本当に綺麗だから」
 向かって右手側に山々。その山の麓にある家々。左手側には緑が溢れた田んぼ。そこを抜けていくと川がある。
 とても古い、どこか流れる時間のスピードが緩やかになったような場所。
「お世話になります」
 僕は男性の奥さんに頭を下げた。
 奥さんは頭に被っていた手ぬぐいを外すと、やっぱり人好きのする笑みを浮かべた顔を横に振った。
「ええって、ええって。それよりも災難だったねー。家は本当にいいから、どうぞ遠慮せずにゆっくりとしていってねー」
「はい」
 今は感謝してもいいと想っている。あの予想外の車の故障に。それでできた縁は素晴らしい物のように想えたから。
「あの、何か手伝います」
 僕がそう言うと、二人は笑顔で気にしなくともいいと言ってくれた。
 でもそれでは僕の気がすまない。
 そう告げると二人は、だったら明日手伝って欲しい事があるので、明日手伝って欲しいと口にした。
「明日、何かあるんですか?」
「ああ、あるんよ。明日は天神様の夏祭りで、青年会の皆が準備をするんだけど、それでも私らも手伝わないと人出が足りんからねー。若い人の手伝いはほんと助かるから」
「はい」
 頷く僕に男性が向かいの山の方を指差す。
「綾君。神社や仏閣が好きだと言ってたろう? 見てくるといいよ。さっき通った橋を越えて、それですぐの所に見える階段を昇れば行けるから」
「あの、でも本当に何か他にもお手伝いを」
「いいんよ。いいんよ。あとはオレはご飯の用意をするだけだし、お祖父さんはお風呂に入ってごろ寝して、それでご飯を食べて、また寝るばかりなんだから。毎日そんなん。だから良かったら夕飯の時に都会のお話とか色々として。それだけで充分」
 奥さんはにこりと優しく笑って、僕はその笑みに見送られながら結局散策へと出かけた。
 悪い気もするけど、でも神社も楽しみだった。
 やはり知らない土地を歩くのは楽しいし、神社や古い物に触れるのは好きだから。
 顎を伝い落ちる汗を手の甲で拭いながら僕は先ほど車で通り過ぎた道を歩いていく。
 じりじりと照りつける夏の太陽の日差しはしかし、都会よりも少しは慈悲深い感じがした。
 涼やかな清流の流れる音が僕にそう思わせるのかもしれない。
「ただ普通に歩いていくにはもったいないかな?」
 整備された道を歩くよりも昔の村民たちが作った古い道を歩く方が心惹かれた。
 田んぼと田んぼの間のあぜ道を僕は拾った木の小枝を振り回しながら歩いていく。
 川原のすぐ隣に作られたプールでは子どもたちが楽しげに遊んでいた。何でもここの子どもたちは数が少ないために一時間近くかけてバスで麓の学校まで通っているらしい。だから川原にプールを作って、村民に開放したのだとか。水はポンプで川の水を汲みあげるから無料らしい。
 僕を見つけてプールの子どもたちが水をばしゃばしゃとさせながら手を振ってくれて、僕もそれに応えて手を振った。
 生い茂る草と草を押し分けて僕は古めかしいつり橋を発見する。先ほど橋を車で渡る時に見えたつり橋で、ちゃんとこの橋も渡れる事はその時に確認済み。
 僕は少しの緊張感と、大きな好奇心とを胸に抱いてそのつり橋を渡ってみる。ぎしぃ、っとつり橋が軋む音、それから歩く度に少し揺れる。ちょっと渡るためにはコツというか、度胸が必要になるかもしれない。何でも農家の男性の話によると、このつり橋はここへ遊びに来た麓の小学校や中学校、高校の子どもたちの肝試しに使われるのだとか。
 思わずその話を思い出し、いつもよりも慎重な足取りでつり橋を渡る今の自分の現状を見て、確かにこれは慣れない子どもには大いなる試練だと想った。きっと都会の子どもでは渡れないだろう。そして渡りきれたらそれは大いなる自信にも繋がるし、その時に初めて子どもらの環に入れるのだろうな、と想う。そう、ちょうど僕が小学校の時に国語の授業で習ったあのお話のように。女の子につり橋を渡らせたのは座敷わらしだったろうか………
「やまびこの妖精だったかな?」
 そんなとりとめもない事を考えながらつり橋の真ん中で僕は足を止めて川を見下ろした。
 透明感溢れる清流はとても優雅で、気品溢れる淑女のように思えた。
 その川を数匹の魚が泳いでいるのが目に見えて、子どもらが作ったのだろうか、川岸近くの方には大きな石を円形に並べた仕掛けも見えた。きっとそこに魚を追い込んで捕まえるのだろう。
 僕は絵描きの人がするように両手の指でフレームを作って、そこから周りの風景を眺めながら記憶のシャッターを押す。
 どこか懐かしい風景に心和み、癒されるのを感じながら。
 そして心のカメラで撮った風景写真を記憶のアルバムの中に大切に一枚一枚貼っていく。
「ねえ、何をしているの、お兄さん」
 ふいに聞こえたソプラノトーンの声。
 継いでばしゃばしゃと水を叩く音。
 橋から真下を覗き込むと、スクール水着を着た女の子が手を振っていた。
「風景を、見ているんです」
「ふーん、そうなんだぁー。それで感想はぁ―――?」
「とても綺麗ですよぉー」
 僕が笑いながらそう言うと、彼女はにこりととても嬉しそうに笑った。
 そして僕はつり橋を渡りきり、土手へと降りて、川へと向かった。
 彼女は結構流れが速そうに見える川の真ん中ででもそこで一定に止まってぷかぷかと浮いていた。
「お兄さんはバーベキューでもやりに来たのぉー?」
「いいえ、違いますよ。ちょっと話すと長くなるんですけど、今日はここに泊まっていく事になりました。今は散策中です」
「そうなんだぁ。お兄さん、名前は?」
「槻島綾です」
「へぇー、綾さんか」
 そう言って彼女は遊んでもらいたがっている仔猫のような目で僕を真っ直ぐに見つめる。
 僕は苦笑しながら彼女の名前を聞いた。
 そしたら、
「あたし? あたしには名前が無いのぉー。だってあたし、河童だものぉー」
 と笑顔で言った。
「これはまた驚きですね。河童さんがこんなにもかわいらしい女の子だったなんて」
 するとそれまでぷかぷかと流れに逆らって一つの場所で浮かんでいた彼女が(シンクロの技?)、おもむろに川の流れに流されて、沈んでしまう。
 僕は慌てて川の中に飛び込んで、水を蹴るようにして走って彼女を追いかけようとしたら、沈んだ時と同じように急に水の中から顔を出して、顔に張り付く長い黒髪を掻きあげて、笑った。
「ごめん。照れた」
 僕はしばし呆気に取られ、それから僕も肩を揺すりながらくすくすと笑った。
「河童の川流れ」
「だって綾さん、面と向かってかわいい、だなんて言うんだもん。本当の事でも照れる!」
 彼女は背面泳ぎで川の流れに逆らって泳ぎながら僕に笑ってそう言った。
「ごめん」
「ん、いいよ。でも綾さん、あたしが川に流された、っていうのは二人の秘密ね。河童の川流れは、木から落ちる猿以上に恥かしい事なんだから」
 ばしゃりと川の中から出てきて、足を川の水につけながら大きな石の上に腰を下ろしている僕に彼女は至極深刻そうな顔でそう言った。
 僕も彼女のその冗談に乗って、笑顔で頷く。
「はい」
「ん。じゃあ、約束。ああ、そうだ。きゅうりか、冷えたお味噌汁、あげようか? 一応は口止め料も必要って。ああ、それともあたしにする?」
 スクール水着の肩紐をゆっくりとずり下ろしながら言う彼女に僕はまた苦笑した。
「遠慮しておきます」
「わぁ、綾さん、もったいない。すごくもったいない。もったいなさすぎて、今夜もったいないお化けが出ちゃうかもよ! ってか、据え膳喰わぬは男の恥? こんなにもぴちぴちの美少女なのに。胸はまだ発展途上だけどさ♪」
 前髪の毛先から水をぽたぽたと滴らせて、僕の顔を笑顔で覗き込んでくる彼女の額を僕は右手の人差し指で軽く押した。
「大人をあまりからかうんじゃありません」
「はーい。でもあたし、外見はこんなスクール水着を着たぴちぴちの女子中学生っぽい美少女だけど、実年齢は綾さんをすっごく越えているんだよ」
 彼女は笑いながらそう言って、それからまた川で泳ぎ出した。
 僕は肩を竦めて、それから苦笑する。
 見上げた空は熱い真夏の空。
 どこまでも蒼く晴れ渡る透明度の高い空に、キャンバスに直接白を塗ったような雲が浮かんでいる。
 その空を風に乗って飛んでいるのは鳶だろう。
 蝉時雨も川の流れの音に上手く重なるようにして奏でられていて、やっぱり僕はその蝉時雨、という名のオーケストラを成す中の一種類の蝉の鳴き声がわからない。
「ねえ」
「ん?」
「この蝉の鳴き声って、名前、なんでしたっけ?」
 僕は蝉の鳴き声の真似をする。
 彼女は笑いながら蝉の名前を教えてくれた。
「クマゼミだよ、綾さん、それ」
「そうでした。そうでした。クマゼミだったですね」
「ん。じゃあ、あたしからも質問。綾さんはどこの人? 仕事、年齢、彼女は居る? それと本当にあたし、かわいい?」
 もう何度目かの苦笑をして僕は最後の質問以外は答えた。
「へぇー、すごい。旅行記のエッセイストなんだ。カッコいいー。色んな場所に行けるなんて、すごく羨ましい。でも何でエッセイストなの? ってか、最後の質問の答えは?」
 そう言えば前にも同じ質問をされた。初めて出会ったあの日に。
 そして僕はその時と同じように答える。
「伝えたいから、かな、皆に。そこにある大切なモノを」
 僕がそう言うと、僕の隣に座った彼女はきょとんと小首を傾げた。
「古い建物、それはそれが造られようと計画された時からもう既にその存在が始まっている。そしてきっと僕がそれを見た現在、その時間まで流れた日々の間にそこにはたくさんの人の想いが存在すると想うんです。そうした流れた時間の間にそこで暮らした人や、訪れた人たちの想いを想像する事が僕は何よりも好きな事で、そして僕が今見ているその風景も実は永遠ではなく、流れて行く時間の一コマでしかなく、だからこそ僕はその一瞬一瞬の光景をいつまでも覚えておきたいと想うし、愛おしく想うんです。時間とはこうして流れ落ちるもの、絶対に元には戻らないから」僕は川の水を手で汲んでみせる。そしてそれは当然の事ながら指の隙間から落ちていく。そう、時間とはこうして流れ落ちていく物なんだと僕は想うから。
 僕は隣の彼女に微笑む。
「だから僕はもちろん、僕が感動したその風景や建物、人の感情とか、そういうモノを旅行記のエッセイとして形にして、人に伝えて、楽しんでもらいたい、そこへの想いを馳せてもらいたいと想いますけど、でも一番の理由は僕が過ごした時間を他の人に見てもらいたい、知ってもらいたいと想うのが強いのかな。そうすれば残るから。僕が感じた過去から現在までのその場所の時間と、そこへの皆の想いが。そしてそれは僕の旅行記のエッセイを読んで、そこを尋ねてくれた人が居たら、またその人が見た現在、とより多くのそこの時間と想いが受け継がれて、そこからまた他の人に時間と想いが受け継がれていくと僕は信じているから」
 そう言った僕に彼女は微笑んだ。
「つまり綾さんはその場所が持つ過ぎた時間と、その分だけ溜まった人の想いを皆に報せて、そしてそれがより多くの人に共有されて、受け継がれていくための橋渡しをしている、って事だね♪ もちろん、自分の想いも皆に伝えたくって」
「はい、そういう事ですね」
 僕が頷くと、彼女はいいなぁー、と呟いた。
 そんな彼女に僕は笑う。
「キミはこれからでしょう? これからたくさんの経験をして、そしてそこから選んで進んでいく。僕にだってそれが眩しくもあります。素直に羨ましいとも想うし」
 だけどそう言った僕に彼女はなんだか消え入りそうな表情をした。まるでほんの少し指先で触れても粉々に砕けてしまうようなそんな、罅だらけの硝子細工のような………
 そして彼女はまるで妖精のように川の中へと水しぶきを上げて走っていって、深い川の中に飛び込んで、濡れた顔を水から出す。
「だってあたしは河童だもーん。ここの川から離れられなぁーい。よくって川の主。だから綾さん、すごく羨ましぃー」
 川の流れの音に、鳴く蝉たちの声、そして夏の暑さに負けないぐらいの大きな声で叫んだ彼女だけど、でも僕にはキミが泣いている様に思えたんだ。それはどうしてだろう?
「ねぇー、綾さん。一緒に、どっか行こう。散策してたんでしょう!」
「ああ、うん。いいですよ」
「ほんとに! じゃあ、デートだぁ♪ あたし、デートするの初めて!」
「そんなにかわいいのに?」
 もう一度僕がそう言うと、彼女は耳まで真っ赤にして、それで水の中に潜ってしまった。
 …………僕も少し、照れてしまった。



 +++


 濡れた髪はバスタオルで簡単に拭いて、器用にヘヤピンとバレッタでアップにして、うなじを流れる雫はそのまま流れるに任せて彼女は拭いた体の上に半袖のパーカーを着込んで、僕に微笑んだ。
 僕は少し困ってしまう。
「大丈夫? 風邪を引いてしまいそうだ」
「大丈夫♪ 大丈夫♪ あたしは河童だよ? 風邪を引くのよりも、頭のお皿が乾いちゃう方が心配だよ♪」
 茶目っ気たっぷりのかわいい笑みを浮かべて彼女は僕の肩をぱしんと叩いた。
 痛い…。
「さあ、行こう、綾さん」
 当然のように出される右手。
 僕が微笑むと、
 彼女もん? と、小首を傾げる。
「だってデートでしょう? 大丈夫。綾さんの奥さん(彼女)には内緒にしておいてあげるから。いひひひひ。このぉ」
 僕は肩を竦めて、彼女の手を握った。
 ―――ただ、彼女の手はとても冷たかった。ずっと川の中で泳いでいたからだろうか?
 それとも本当に河童?
「あの、大丈夫?」
「ん? だから大丈夫。慣れっこ。それにほら、暑いし」
「いや、頭のお皿」
 僕がそう言うと、彼女は驚いたように目を瞬かせて、それから楽しそうにくすくすと笑った。
 繋いだ手をぶんぶんと振り回しながら彼女は先陣を切って歩いていく。
 頭を横切った感想は内緒。これじゃデートというよりも幼い子どもと動物園とかそういう場所を歩いているようだ、というのは。
「どうかした、綾さん?」
「いいえ。それよりもすごいですね」
 目の前にあるのは紅い鳥居。
 それが数百段はあろうかという階段の上までずっと連続でいくつもある。
 とても薄暗く、そしてどこか簡単にそこへ入っていいような感じは抱かせない気配のような物があった。厳かで、重厚な空気。
「昼間でも神社って不気味だよね」
「そうです、ね。少し怖さも感じるかな」
「でもお祭りとか、大晦日なんかは夜でも平気♪」
「確かに。明るいですし、人がたくさんいますからね」
「うんうん。お祭りはすごいんだよ。提灯がいくつも並んでいてそれが綺麗で。それから神社に収められている絵も飾られるの。なんとか、って言う大昔の偉い画家さんが描いたすごい綺麗な絵で、影絵みたいに絵の裏から光りを当てるとさ、こう、キラキラと輝いてすごくって。綾さん、いたら。明後日までさ!」
「そうですね。それもいいかもしれませんね。そんな話を聞いたら僕も見たくなりました」
 僕は彼女に微笑んで、それから神社の境内に視線を向ける。
 趣のある小さな古い社。
 それでもきっと近隣の人たちから大切にされているのであろうそこはとても綺麗に掃除されていた。
 確かに夏の世界の音色―――蝉や、それに夕暮れ時に近づいて鳴きだした虫たちの音色が世界に溢れているのだけど、社の厳かな雰囲気が境内に静謐めいた澄んだ崇高な静けさを僕に感じさせる。
 自然に彼女の手は僕から外されていた。
 そして僕らは並んで両手の指でフレームを作って、記憶のシャッターを押して、想い出の風景写真を心のアルバムに貼る。
 彼女は僕の服の裾を引っ張って、社の奥の杜(もり)を指差した。
「きっと好きだと想うよ、綾さんは」
 そう悪戯っぽく笑う彼女に誘われて僕は杜の奥へと足を運ぶのだけど、晴れていたはずの空から突然に降りだした雨、夕立に足を止める。
「どうします?」
「ん、こっち。このまま行きたい場所に行けば、大丈夫」
 彼女は笑いながらそう言って、僕の手を引っ張った。
 僕らは手を繋いで、深い杜、夏、馨る場所を走り抜けていく。
 降る雨の音色が木の枝や葉を打ち、大地を打って、溜まる。
 野鳥があげる鳴き声、羽音。
 いよいよ深くなっていく蝉時雨。
 どこか現実感を僕に失わせる。
 世界の風景が、音が。
 そして杜が抜ける。
 そこから見えたのは世界。
 麓の村や町がそこからは一望できた。
 流れる川、
 そしてそれに沿うように流れる光の川。車のヘッドライト。
 濃い緑。
 山々。
 その上に見える橙が零れるような夕暮れ時の空。
 こちらでは雨が降っているのに、あちらの方は晴れ渡っていた。
「綾さん、こっち」
 そして彼女に袖を引っ張られて、僕は歩いていく。
 木と木の間、枝と枝とを繋ぐ板。ちょっとしたスペース。
「秘密基地!」
 彼女は無邪気に笑いながら言って僕をそこに案内してくれて、僕はそこから、先ほど見た風景に心をまた奪われる。
「綾さん、子どもみたいな顔をしている」
「や、だって本当に綺麗だから」
「ほんとに? 良かった。ここ、あたしの大のお気に入りの場所。前はね、ほら、あの木がまだ小さかったからもう少し綺麗に風景が見えたんだよ。それであちらの方角には川辺の大きな石が見えて、その石の形がなんだかペンギンみたいなの」
 彼女は夢中になって話してくれて、僕はそれに耳を傾けた。
 彼女の声はとても心地良く、そして楽しくって、目を閉じていても自然に彼女が話して聞かせてくれる風景が見えるようだった。
 そうしてこちら側の空を覆っていた黒雲も散っていく。
 そう、夕暮れ時の橙と濃紺、その美しいコントラストを成した空を飛ぶ白鷺が雲を切り裂くように。
 それはひどく神秘的で、美しい光景だった。
「夕立の雲間の日影はれそめて山のこなたをわたる白鷺」
 彼女は静かに呟き、そして僕もやっぱり静かに呟く。
「夕立の雲とびわくる白鷺のつばさにかけて晴るる日のかげ」
 僕はその白鷺が雨雲を切り、その隙間から覗いていく終っていく夕暮れという時間の橙と濃紺がコントラストを成した空を見つめながら、鳴きだしたヒグラシの音色に思わず涙を流しそうになった。
 その美しい空は雨上がりの澄んだ清浄な空気によく似ていて、だから僕はそれをより感じたくって、世界の美しさを自分の物にしたくなって、重なりたくって、胸一杯にその空気を吸い込んだ。
 ふと気付く。足下にある愛らしく咲いた鷺草に。
 伝えたいと想った。
 終っていく時間、今ある時間、未来へとその風景を、そこにある想いを繋ぐために。
 きっと僕は残したい。綺麗な光景を、想いを、過ぎ去った時間、僕がそこで過ごした時間。
 だから僕はそれへの想いを文章で紡ぐのだ。
「ぱしゃり」
 僕は愛らしく咲いた鷺草を心のカメラで撮った。



 +++


 夜、僕は神社の階段の下に行く。
 そこが彼女との待ち合わせの場所。
 昨日の夕方、別れ際にした約束。
 ―――綾さん、やっぱり明日の夜までいれない? 一緒にお祭りに行こうよ。ね?
 僕は苦笑しながらそれを了承して、それからやっぱりとても冷たい彼女の小指に僕の小指を絡み合わせて指きりげんまんをした。
 そうしてその夜、夕飯の食器洗いをし終わって居間に戻った僕に夫妻は一冊のアルバムを見せてくれた。
 そのアルバムに写っていたのは濃紺の生地で朝顔の柄が入った浴衣を着たひとりの髪の長い女の子。黒い髪に縁取られていた彼女の顔に、だけど僕は見覚えがあった。
 それは………
「綾さん、だーれだ?」
 待っていた僕の目を後ろから隠す冷たい手。
 僕は肩を竦めて、苦笑混じりに口にする。
「河童のかわいい女の子」
「正解♪」
 振り返った僕の視線の先に居たのは濃紺の生地に朝顔の柄が入った浴衣を着た女の子。
「行こう、綾さん」
「うん」
 僕は彼女に手を出す。
 彼女は大きな切れ長な瞳を瞬かせて、その後に嬉しそうに微笑んでくれた。
「うん」
 繋いだ手はやっぱり冷たく、それが僕の胸に痛みを感じさせる。
 そして一緒に天神様の夏祭りを見て回った。
「これは確かに見事だね」
「見事でしょう?」
 えへん、と彼女は得意そうに笑ってそう言って、僕にその絵が見える最高の場所を教えてくれる。
 それから二人でその絵を堪能して、僕らは場所を移動する。
「綾さんにね、見てもらいたいパート?Uがあるの! これはもう本当に自信の場所♪ 覚悟しておいてよ、綾さん!」
 神社の杜を風と一緒に渡って僕らが着いた場所は古い木造の学校だった。もう廃校になって久しいこの村の小学校だった場所。
「来て来て、綾さん。ここから入るの」
 彼女は浴衣の癖にひょいっと軽やかに硝子の無くなった窓枠に両手をついて、足で地面を蹴って飛び越える。
 僕もそれに続いて中に入って、
 そして彼女は僕に口の前で人差し指一本を立てた。
「シー。静かに綾さん」
 僕は不思議に想いながら彼女についていって、そして一階の右隅の教室で足を止める。
 真っ暗な教室の中を飛び交う淡い蛍光の光り。僕は我が目を疑った。それは蛍だった。とても多い蛍の光りが真っ暗な教室の中を飛び交っている。
「すごい」
「でしょう? これをね、綾さんに見てもらいたかったの。それから、この風景と一緒にあたしの事も覚えておいてもらいたかったの。この小学校、もう壊されるんだって。古いモノは壊される。わかってる。そしてあたしも………逝かなくっちゃって。でもこれでも未練あったんだ。大好きな人とデートしたかったし、大好きな人に覚えておいてもらいたくって、だから………ごめんね、綾さん。あたしの気持ちばかり押し付けられても迷惑だよね」
 彼女は俯いてしまう。
 だから僕は綺麗に飾り付けられた彼女の頭をそっと撫でたんだ。
「忘れられないよ。串原で出逢った元気なかわいい恋人の事は」
 彼女はばっと顔をあげて、それからぽろぽろと涙を流した。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。でもお母さんもお父さんも、あたしの事忘れていいのにずっと覚えててくれて、忘れていいのに、忘れてもらって、二人には本当に笑ってもらいたくって、だけど本当はあたし、誰かに覚えててもらいたくって、綾さんだったら優しいから、だから終っちゃったあたしの事だって覚えててくれるかもって。だからごめん。ごめんなさい、綾さん」
 泣いている彼女に僕は微笑みかける。
「ありがとう、でいいんだよ。―――ちゃん」
 僕が彼女の名前を紡いだ瞬間に、教室に居た蛍たちが廊下まで飛んできて、そして僕たちを包み込んでくれる。


 数え切れないぐらいの数の蛍が、僕らを囲んで、儚くも美しい蛍光の光りを、夜に発する。


 彼女はその光の中で今までで一番の綺麗な笑みを浮かべて、僕は両手の指で作ったフレームから彼女を見つめて、「ぱしゃり」、と彼女を記憶のカメラで撮って、心のアルバムに貼る。決して忘れないように。
「ありがとう、綾さん。大好きだよ」
 そしてさっとほんの一瞬だけ僕の唇に自分の唇を重ね合わせて、そうして彼女は世界に溶け込むかのように温かな光の中に消えていったんだ。
 砂糖菓子が水に柔らかに溶け込むように、僕の心にその存在を永遠に染みこませるのと同時に。
 彼女の唇の感触が残る唇に僕は指を当てて、そしてしばらく蛍の燐光を見つめていた。遠くから風に乗って聞こえてくる祭りのお囃子を聞きながら。




 ―――次の日、僕は36年前に彼女が死んだ、そして僕たちが出会った川原に花束を供えて、そこを後にした。
 朝、夫妻が僕に聞かせてくれた事が何よりもの救いだったのだ。夢の中に出てきた彼女はとても幸せそうな顔をしていた、と。そしてだから二人はこれからも笑って幸せに生きなくっちゃならない、そう想ったと。
 車に乗って、エンジンをかけて、ギアーをニュートラルからローに入れてアクセルを踏んだ瞬間、ふと僕は誰かに呼ばれたような気がして、そして川に目を向けて、川原から蒼い空に向かって飛び立った白鷺を見送った。
 夏、馨る日。今日も暑くなりそうで、空はどこまでも蒼かった。


 ― fin ―



 ++ライターより++


 こんにちは、槻島・綾様。
 いつもありがとうございます。
 このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。


 今回はご依頼、ありがとうございました。
 こちらも本当にとても嬉しかったです。^^
 だいぶプレイングをいじってしまったのですがいかがでしたでしょうか? お気に召していただけていますと幸いなのですが。
 今回の綾さんの取材先コース&旅行先は実は私のテリトリーだったりします。(笑い
 とても風景の綺麗な場所ですし、本当に川の水は冷たくって、澄んでいて、川遊びなんかが楽しいですよ。^^ 焼き物の散歩道なんかは今だったら某アニメのOPで主人公が歩いていますしね。(笑い
 夏も秋も、いえいえ、春や冬も本当に一年中すごく綺麗な場所ですので、本当に綾さんに今回行ってもらえて嬉しかったりします。^^
 ですから作中で綾さんが旅行記のエッセイで伝えたがっていた気持ちは私の想いでもあったりします。
 綾さんの目を通して綾さんが行った先の風景をPLさまにも楽しんでもらえていましたら、もう本当に本望です。^^
 惜しむらくは私に筆力が無い事で。むむむ。(^―^;


 後半はしんみりと。
 女の子は幽霊で、ずっと心残りはもちろんだったのですが、でも両親の事も心配で。だけど今回綾さんに出逢えた事が本当に転機だったのだと想います。運命でしょうか?
 私は結構そういう事は信じている性質でして、どれだけ悪い事でもその人自身や、その人の近くに居る大切な誰かがそこから幸せになる縁があると想うのですね。逆に悪い事をしていると、そういう縁で身を滅ぼすとも想っていますし。
 だから車が故障したのもこういう縁、運命の糸が彼女に、彼女の両親に繋がっていたから、だと想うのです。そしてそれは綾さんだからこそ、と。
 きっとこの先もそういう縁、運命の糸はあるのでしょう。そしてそれは綾さんだからこそ良い事に繋がっていると。
 そういうたくさんの綾さんの物語、ファンとして楽しみにしております。^^


 それでは今回はこの辺で失礼させていただきますね。
 ご依頼、本当にありがとうございました。
 失礼します。

PCシチュエーションノベル(シングル) -
草摩一護 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年09月02日

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