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『星間宇宙を翔け抜けて 』
海原・みその1388)&海原・みなも(1252)

「お中元でいただいたものを分けてもらいましたの」
 そう言ってみそのが持ってきたのは一本の、ラベルも貼られていない酒瓶だった。
「お酒、ですか?」
「蜂蜜酒です。甘口のもので、美味しいんですよ」
「でもお姉さま。あたし未成年なんですけど」
 控えめなみなもの反対は、しかしあっさりと無視されて、みそのは楽しげにコルクを抜く。
「フランスでは新婚の夫婦は一月の間、滋養の高い蜂蜜酒を飲んで子作りに励むそうです。ハニームーン、蜜月の語源にもなった風習だとか。ロマンチックですわ」
 たぷんたぷんと音を立てて、黄金の液体が満たされていく。とたんに、蜜特有の甘い香りがふわりと辺りに広がった。
 鼻腔をくすぐる甘い誘惑をなんとか振り払おうと、みなもは軽く頭を振る。さらに大きく深呼吸してから、気を取り直して姉の方に向き直った。
「……あの、お姉さま?」
 そこにあるのはにこにこと、底の知れない優しげな笑み。なんとなく、腰砕けになりかける。
 追い討ちをかけるようにみそのは首を傾げて言った。
「それとも、みなもは甘いお酒は苦手かしら?」
「そんなわけは無いけど……」
「じゃあ、いいじゃない♪」
 にべも無く笑って言うと、みそのは六分辺りまで満たされた蜂蜜酒にお湯を注ぎ込み、レモンの絞り汁を垂らす。
「飲みやすいようにお湯で割りましたわ」
 透きとおった玻璃細工のマドラーが、黄金色に輝く液体を揺らす。部屋の灯に照らされて綺羅めくその様子は神々しくさえあり、思わずみなもは唾を飲み込んでいた。
 そこで突然スッとグラスが下げられる。
 みなもは思わず、名残惜しげに「あッ」と声を上げていた。次の瞬間、その様子を可笑しげに眺める姉の表情に気付き、羞恥に顔を赤くする。
「ふふふ、みなもったら」
「ず、ずるいですお姉さま」
「心配せずとも、ちゃんと飲ませて差し上げますから」
 幼子に言い聞かせるようにして優しく言うと、みそのはそのままグラスを傾け、蜂蜜酒を自らの口に含んだ。
「え、お姉さま?」
 困惑するみなもに、みそのはにっこりと微笑みかけ、己の口元を指差してから軽く唇を尖らせる。そこでようやくみなもは姉の意図に合点が行き、直後その顔を耳まで赤く染める。
 ようするにみそのは、口移しで飲ませようと言っているのだった。
「あ、あの、お姉さま。そんな、姉妹でそんなこと……」
 にこにこと微笑んで、みそのはみなもの瞳を上目使いに覗き込んできた。さらさらと長い髪が頬を流れる。外見の年齢からは考えられない色気ある仕草に、みなもは思わず口を詰まらせた。
「ええと、女の子同士だし……」
 そもそも、みなもはみそののことが嫌いでなく、むしろ実の姉として強い尊敬と愛情を抱いている。それなのに何故口移しくらい断る必要があるのだろうか。そんな疑問が一瞬浮かび上がり、慌てて首を振る。
「倫理的に、その……」
 闇夜の空よりも暗く、艶やかに濡れた瞳が真っ向からみなもに突き刺さる。
 みそのは何も喋らずに、ただじっと微笑みながら、みなものことを見つめている。
「…………」
 無言の微笑みに、みなもはあっさりと陥落した。
 観念して、居住まいを正して、姉の方に向き直る。ふっくらとやわらかい唇が目に入り、ドキドキと心臓の鼓動が高鳴るのを感じる。
「ええと、それじゃあ。よ、よろしくおねがいします」
 散々に迷った挙句そんな間の抜けた言葉を口にして、みなもは実の姉に口づけをした。
 間近に迫ったみそのの目が柔らかに細められる。
 とぷりと、姉の唾液も混ざった温い蜂蜜酒が喉に流れ込んできた。舌先はとろけるように甘く、鼻腔には強い蜜の匂いが充満している。みなもはその幸福な瞬間にうっとりと全身の力が抜けていくのを感じた。
「美味しいですか? みなも」
 目を開けると姉の顔はすぐ目の前にあるのに、その声はどこか遠くのほうから聞こえた。
「はい、お姉さま」
 一口飲んだだけだと言うのに、心地よい酩酊が全身を満たしている。それはみなもが飲んだことのあるどんな飲み物よりも甘く、かすかに酸味があり、芳醇な味わいだった。ただの一滴でさえも黄金と呼ぶに相応しい、素晴らしい蜂蜜酒だ。
「もう一口いただいていいですか?」
「もちろん」
 蜜月のように甘い時間は、大体その辺りまでであった。


 初めに聞こえたのはキィンというつんざく様な音、或いは爆発するような光のシャワー。
「え?」
 正確に言えばそのどちらでもない。耳は何の音も捉えていないし、目にもそんな異常な光は見当たらない。その衝撃は、どちらとも関係の無い。脳の内部に直接、第六感とも言える感覚を通して流れ込んできた。
 圧倒的な情報の奔流が突然みなもの脳の一部を焦がす。
「ひッ」
 灼熱する感覚に、たまらずみなもは助けを求めるように視線を姉に向ける。
 艶然と微笑むみそのは、みなもの差し伸ばした手を優しく包むと、優しく宥めるように耳元に囁く。
「大丈夫です、痛いのは初めだけですから」
「へ?」
 それっきりみそのは何も語らない。みなもの身に起きる異変を、まるであらかじめ知っていたかのように、うろたえる事も無く静かに微笑んでいる。
「どうし……て」
「ふふ、可愛いですわ。みなも」
 みそのの言葉を合図にするように、みなもの身体が唐突に、ざぶりと大きく波打つ。そこでようやく、みなもは今しがたの不快な感覚が、これから起こる異変の単なる前兆に過ぎなかったことに気がついた。
「ひハあぁッ!」
 メキリミシリと音を立てて肩甲骨が背を突き破るように張り出す。全身の骨格がきしむ音が、骨伝導の原理でみなもの聴覚に突き刺さった。
 嫌が応にも身体に襲い掛かる変異の兆しが実感できた。顔面に翳した指が見る間に、萎れるように変色し、角張った骨格を浮き上がらせ、異形へと変じていく。
 全身の筋肉が引きつる、いや、引き絞られるような激痛が走った。ゴキリと鈍い音を立てて、二の腕が妙な方向に曲がる。折れたわけではない。新しくその方向に曲がる関節が作り加えられたのだ。それに気付いて、背筋に悪寒が走る。
 唐突に、ガチャンと硝子の倒れる音がした。
 引きつった手の端が偶然、蜂蜜酒の瓶を掠めて押し倒したのだ。音を立ててテーブルの上に零れ落ちる、黄金の雫。匂い立つ蜂蜜の香り。
 嗅いだとたんに、何かが弾けとんだ気がした。
 バキバキと硬いものが、背の皮膚を食い破って迫り出してくる。それは一対の翼だった。いや、翅と言った方が正しかったかもしれない。
 と、言っても正しい昆虫類のそれのように整然と薄く透き透ったものではない。輪郭はまるで蝙蝠の翼のようにキザキザに乱れ、色もまた濁りきった泥水のように不鮮明であった。
 正しい生物であれば美しく整っているはずの翅脈も、非ユークリッド幾何学的に歪曲し、常識的な人類であれば目にしただけで吐き気をもよおす異次元的な文様に成り果てている。
「お、おね、ねえさま。こ、これ、こひゅっ……」
 喉の筋肉、横隔膜、舌。全身のあらゆる部位が引きつり、痙攣し、声を出すどころか呼吸をする事さえ侭成らない。
 身を捻り合わせるような変態はまだ続く。
「あ、ああ……ああぁあぁあうおぇッ!」
 強張り引きつった皮膚は高温で熱したように醜く爛れ、同時に硬質化していった。関節の様子は特に悲惨であった。皮膚の下にはおよそ肉のようなものは無くなり、キチン質の外骨格で覆われた節足動物のように節くれだっていく。
 捲れ上がりった唇は口を閉じる事すら許してくれず、断続的に痙攣する喉では口腔内にたまったもの飲み下す事さえ出来ず、口の端からは粘性の唾液が滴りテーブルを汚す。
 少しずつ、しかし確実に広がりゆくその水溜りは、みなもをますますもって哀れな気分にさせた。
「ゆ、ゆるひぃ……てぇ」
「おかしなことを仰いますのね、みなも?」
 みそのはコロコロと、愉快気に笑う。崩れ落ち、這いつくばるみなもを見て、ただ笑う。
 その表情に、苦しみのたうつみなもへの憐憫の情のようなものは無く、また嘲笑うような優越の気配も無く。もちろん煮え立つ憎しみの色も無い。
「許すだなんてそんな、わたくしはみなもが憎らしくてこんな事をしているわけではありませんのよ」
 そこにあるのはただ一つ、愛しいものを愛で慈しむ、狂おしいまでに優しげな感情のみだった。
 爛れ赤黒く変色したみなもの腕を優しく取り、変態して原形を止めない頬をなであげる。
 みそのは、先ほどもそうしたように恍惚とみなもの口に唇を重ね合わせ、『髪』と言うよりは『鬣』と言うべき位置にまで後退した毛並みを撫で付ける。
 耳元で囁かれる声は飽く迄慈愛に満ちていた。
「これも全てみなもへの『愛ゆえに』ですわ」
 絶望の悲鳴を上げようとしたみなもの喉にはしかし、最早地球人類の声帯に相当する器官は存在せず、ただすきま風が漏れるような甲高い音がぴゅうぴゅう鳴り響くだけであった。


 その『お中元』は遥か虚空の彼方、アルデバランを間近に見る黒き湖の深みより届けられたものである。
 そこに住まうは人類の思考ではおよそ計り知れないほどの太古より微睡み続ける風の神。受け取ったのは、みそのの仕える、御方と呼ばれる偉大なる海神。
 一般に、風と水は仲が悪いなどと知られているが、本来的に言えば彼ら古き神の間にそのような感情は存在しない。
 そも風と水の対立構造とは、不完全な自然哲学者たちの浅はかな思考実験が考え出した四大元素の法によるものであり、それが生み出される遥か以前より存在した古き神が従う道理などあろうはずも無いのだ。
 さて、どこの世界であろうと、お中元、お歳暮というものは、価値はあっても必要は無いものであると相場が決まっている。彼らにとって大切なのは、『送った』『送られた』の事実であり、その内容ではないからだ。
 風の神から送られた『お中元』は、なるほど、尋常なものではなかった。しかし、それだけだった。
 御方は正直、その品物をもてあましていた。ハムであれば取って喰らうことも出来ようし、石鹸であれば巫女達の身体も出来る。しかし、口にするものを“翔るもの”と呼ばわれる風の眷属に変える黄金の蜂蜜酒など、御方にとって、そしてもちろん御方にかしずく巫女達にとっても、全く必要の無いものだった。
「でしたらば」
 と、そこで提案したのが、並み居る深淵の巫女たちの中でも特に風変わりな一人。海原みそのという女人魚だった。
「その蜂蜜酒、わたくしめに御下賜いただけませんか? この蜂蜜酒にて“翔るもの”へと変じた人魚を駆り、お中元返しを届ければ良い余興にもなるでしょう」
 御方もなるほどとその意を汲んで、その通りになされた。


「と、いうわけで。みなもはわたくしをのせて、遥か星辰の彼方まで飛び立たなくてはなりませんの」
 全てが収まった時、みなもであったものは無様にも地面に這いつくばり、床にこぼれた黄金の蜂蜜酒を長い舌でぴしゃりぴしゃりと舐めていた。
 みそのとしては満を持しての種明かしだったのだが、みなもの反応はあまりに薄く、というか話を聞く余裕も無く一心不乱に蜂蜜酒を舐めている様子で、それはそれでそそるものもあるのだが、やはり多少はがっかりしてしまう。
「聞いていますか、みなも?」
 聞いていなかった。
 蜂蜜酒に精神まで破壊され、ただ本能に従っての行為であるのかと思えば、そうではない。みなもは、自分の意思を保ちながら、地面にこぼれた蜂蜜酒を舐めている。いや、舐めざるを得ないような、凶悪な衝動が絶えずみなもの心を襲っているのだ。
 そのような浅ましい行為に臨むみなもの羞恥と、葛藤と、自らの身体が思いのままにならぬことに対する恐怖とが、思考の波すら感じ取れるみそのには容易に知れた。
「さあ、みなも。いつまでも舐めていないで。お中元返しに出かけなければ」
 放って置けば下が擦り切れるまで床を舐めていそうなみなもの手を引く。が、みなもは姉の意に応じようとはせず、ぎこちなく振り払ってすぐに地面に這いつくばるのだった。
「まあ。仕方ありませんわ」
 我が侭な妹の仕業に軽くため息をついて、みそのは冒涜的なあのフルートの音にも似た、甲高い音の笛を吹いて聞かせる。蜂蜜酒が送られてきた際に同梱されていた古めかしい石笛の音である。案の定、たちまちにみなもは命令通りびしりと直立した。
 全体の像は蜂に似て、しかし細部をとって見ればおおよそ昆虫類には(無論人類などの哺乳類にも)似ない異生態系の怪生物。尾部に着いた器官がウヮンウヮァン音を立てて三次元空間を揺らしている。
 みなもであった名残と言えば、最早かすかに残る女性的な身体のラインと、特徴的な青い毛色くらいしかない。
 精神は引き裂かれんばかりに、未だこぼれた蜂蜜酒に執着していると言うのに、その肉体はまるで、予め動作を定められた自動人形のようによどみなく動いた。それも道理。かの生物は、その起源からして上位者に奉仕することを求められた種族であるのだから。
 無論、生物としての本能的動作と、みなもの精神的働きとは全く別のものであるから、彼女が不満を感じないわけではない。
 今も喉の奥をひゅうひゅうと鳴らし、顎を軋らせて不満を訴えかけている。みそのには悲鳴を上げるように喚き続けるみなもの声が確かに聞こえていた。曰く「戻してください」とか「助けてください」とか「お姉さまのいじわる」とかそういった思考を延々と発散し続けている。
 みそのの口の両端が愉悦に、満足気に吊り上げられる。なんとも可愛らしいことであった。しかし、いくら嫌がったところで『身体は正直』なものだ。
「さ、みなも。わたくしを運びなさい」
 命令すると、みなもはその場にかしずき、みそのの背と膝裏を持って抱え上げた。いわゆるお姫さまだっこだ。カサカサに強張った表皮はあまり感触のいいものではないが、みなものものであると考えると全く気持ちいいものだ。
「では、出発進行ですわ」
 心地よいみなもの声ならぬ悲鳴を聞きながら、二人は遠くアルデバランの間近、風の神の眠る暗黒星へ向けて飛び立った。


「夏バテかしら?」
 うーんと力いっぱい伸びをして、肩を回し、さらに首をかしげて、みなもはため息をついた。
 妹の奇妙な様子にみそのは軽く眉をしかめ、疑問の言葉を発する。
「どうかしましたの、みなも?」
「いえ、お姉さま。なんだか、肩と腰の具合が悪いんです。まるで、長いこと重いものを抱えて走り回っていたみたいに」
 「まあ」と、驚いた素振りをして、みそのは妹を気遣ってみせる。もちろん、みそのにはみなもの不調の理由が良く分かっていた。しかし、真実を教えてあげるつもりはこれっぽっちも無いのである。
「それに……夏休みで学校に行っていないせいかしら。ここ数日の記憶も曖昧なんです」
「残念ですわ」
「へ?」
「いいえ、こちらの話です」
 言いながら、どこと無く口惜しげにみなもの顔を見て、みそのは軽くため息する。
 “翔るもの”へと変じたみなもは存外に早く、目的の地まで数十光年の道のりはたったの二日で踏破された。さて、問題が起こったのはその後である。
 件の蜂蜜酒がみなもの肉体と、それに付随する本能部分を変質させ、精神自体にはなんら手を加えなかったという事は既に述べた事である。つまり、どういう事かというと、当然の帰結としてみなもの精神は、名状しがたいまでに異次元的な造詣をした風の神との邂逅に耐えられなかったのだ。気づいた時には既に遅く、みなもの精神は、みそのがあれよという間も無く、完膚なきまでに砕け散っていた。
 普通なら、蜂蜜酒の使用が「風の神の眷属を増やす」という本来的な目的によるものだったなら、人としての精神の喪失などなんら問題ではない。“翔るもの”には本来そういったものは存在しないのだから。だが、みなもの場合はただの戯れであり、壊れてしまったりなどすれば大変困るのである。
 幸いに、蜂蜜酒には安全処置として記憶を復元してしまう機能があった。しかし、結果としてここ数日の、異形に変じての甘い日々はみなもの脳内から全くもって忘れ去られてしまったのだ。それはもう、完膚なきまでに容赦なく。
「夏バテに効く料理ってなんでしょう。レバーとか、ウナギとか……」
「そうね、滋養の高いものが……」
 と、そこで言葉を切る。
 ふいにみそのの口元に笑みが浮かんだ。それは、とんでもない悪戯を思いついた子猫のように無邪気で、残虐な笑顔である。
 みなもは考え事をしていて、それに気付かない。「冷蔵庫にありましたっけ?」なんて能天気に言っている妹に向かって、みそのは蜜より甘い口調で優しく語りかけた。
「そうだわ、みなも。夏バテといえば、わたくしいいものを持ってますの」
「いいものですか?」
「お中元でいただいたものを分けてもらいましたの」
 そう言ってみそのが持ち出してきたのは一本の、ラベルも貼られていない酒瓶だった。
 みなもは一瞬、嫌な予感と激しい既視感に囚われる。が、流石は神の手による蜂蜜酒で、その本能的な忌避がどこから呼び起こされたものか思い返すにまでは至らなかった。
 みそのは、絶望的なまでに優しげに、そして穏やかに、まるで一匹の蜘蛛が獲物を糸で包んでいくように慎重に、みなもに向かって語りかけた。
「蜂蜜酒です。滋養が高くて、夏バテにも最適ですわ」
 この後のことはわざわざ語るまでも無いだろう。
 この心根の優しい妹が、姉の気遣い(に偽装されたいたずら)を断ることなどできるはずが無いのだから。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
月影れあな クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年08月22日

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