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『ささやかな野望 』
千住・瞳子5242)&槻島・綾(2226)

 千住瞳子には、いま野望がある。
 他人の目にはささやかな望みと映っても、瞳子自身がその達成を難しいと感じるのであれば、それは立派に野望だ。



 隣の運転席でハンドルを繰っている、槻島綾の指は長い。
 瞳子も楽器をたしなんでいるから、女性としては比較的手が大きめで指も長いほうだ。けれど明らかに綾の手のほうが大きいことを、瞳子はすでに知っている。それに意外と……などと言ったら失礼だろうか……手の甲の筋や指の節が骨ばっていることも。
 互いに手をつないで歩いた、決して多くはない記憶を思い起こして助手席でひとり赤くなる。
 一見優しげな青年に見えるが、綾もまたやはり男性なのだ。
「瞳子さん?」
 赤信号にさしかかり、ブレーキを踏んでゆるやかに車を停めた綾が、怪訝そうに瞳子の方を向いた。
「僕の顔に何かついていますか?」
「えっ」
「いえ、何かさっきから、瞳子さんがこちらを見ている気がしたもので」
 しまった。そんなにまじまじと凝視していただろうか。
「いっいえっその別に、なんでもないですっ」
 あわてて手を振ってごまかすと、綾は運転と仕事のときだけかけているという眼鏡ごしで軽く目をしばたたかせた。フロントガラスに向き直ると、ああなんだ、と横顔が柔和に笑う。
「僕の自意識過剰でしたか」
「そんなことないです!」
 ほとんど反射的に、思いっきり声を上げた直後……車中にしばしの間沈黙が訪れた。
 もう一度瞳子を見た綾が口を開きかけたが、それを遮るように後続車両からけたたましいクラクションが鳴らされる。いつのまにか目前の信号が青に変わっていた。車がまたゆっくり走り出し、助手席で縮こまりながら、瞳子は顔から火が出そうだった。
 思わず否定してしまったが、あれでは実は見ていましたと言ったようなものではないか。



 付き合いはじめてからもうどれだけになるだろう。お互いの休みが合うごとに、こうして車で一緒に出かけている。
 行き先はその時々によって色々で、動物園、映画館、瞳子の趣味でクラシックのコンサート、あるいは綾の趣味で寺社仏閣巡り……以前女友達何人かで集まったとき、ここ最近のそういったデートコースを話したら、学友たちが一斉に目の前に突っ伏したのはまだ記憶に新しい。曰く、
「デートっていうには、あまりにもアカデミックすぎるんじゃない!?」
 とても大学生のデートとは思えないと口々に非難された。そういわれても瞳子には、大学生らしくかつアカデミックではないデート……というものが具体的に思い浮かばない。学友にそのあたりを問うてみたところ、挙がる場所といえばここ数年で急に増えた埋立地のプレイスポットとか、西洋風の城を中心に戴く例の遊園地とか、なんだか人の多いところばかりで疲れてしまいそうだ。
「そういう所もいいけど、コンサートに行ったりお寺を見たりするのも充分楽しいし」
「あんたはよくてもその彼氏は」
 よくないのでは、と学友のひとりが疑問を投げかけようとして、寺社仏閣巡りが趣味だという男性が、遊園地だのプレイスポットだのに行きたがるとは到底思えないことにようやく気づく。
「……ああなるほど、うまく行ってるわけね」
「それが、そうでもなくて」
 瞳子は溜息をついた。
「何? なんか悩み事?」
 心配半分好奇心半分で身を乗り出した友人の心遣いに感謝しつつも、それでも素直に言うのはためらわれて瞳子はうつむいてひとことだけ口にした。
「手を」
「手?」
「今まで何度か手をつないだけど、それってみんな綾さんのほうからつないでくれたんです。でも私から進んでそうしたことって、まだ一度もなくて……。つないでいいですか、って聞けばそうしてくれるのは分かってるんだけど、そういうことじゃなくて、自分から積極的に気持ちを表現したいというか……え? 何? どうしたの?」
 またしても学友たちが、脱力したように全員でテーブルに突っ伏した理由が、瞳子にはまったくわからない。



 ……他人にとっては他愛のないことでも、当事者はこの上なく真剣ということはよくあるものだ。
 大学が夏期休暇に入って初めてのデートである。綾の知っている水族館が何ヶ月か前に改装オープンしたそうで、よかったら一緒にどうですかという綾の誘いを、もちろん一も二もなく承諾した。
 それ以前にも何度か、こちらから手を握ろうと挑戦したことはあるのだが、いずれも失敗に終わっていた。いざ! と意識するとどうしても緊張してしまうのである。友人たちに話したとおり、手をつなぐという行為自体は何度も経験している。だがそこに『自分から』という意志を伴わせようとすると、どれほど達成の困難な行為になることか。
 繰り返すが、瞳子は真剣である。とても真剣である。
 今日こそは目的を達成しようと、内心固く決意している。
 当人にとって非常に達成が難しい、望外の目的……それを人は『野望』と呼ぶ。

 夏休みだけあって、駐車するスペースを探すのに少々手間取った。駐車場を回っていると運よく建物の近くのスペースが空いて、慣れた様子で綾がそこに車を停める。
「着きましたよ」
「は、はいッ」
 ぼんやりしていたところに声をかけられて慌てて車を降りる。天気は快晴、降りたとたんに強い日差しとアスファルトの照り返しがむっと肌を焼く。駐車場から水族館の建物までは、せいぜい十数メートルというところだろう。何かのアトラクションが終わったばかりなのか、建物からは続々と人が吐き出されてきている。ちゃんとお互い近くにいないと、すぐにはぐれてしまいそうだ。
 ――ここで手をつないでも、不自然じゃない、よね?
「瞳子さん?」
「はいッ!?」
 いきなり名前を呼ばれて飛び上がりそうになる。
「日差しが強いですから、ずっとここに立っていると熱射病になりますよ。どうかしました?」
「な、何がですか?」
「いえ、今日はなんだか、僕の手ばかり見ているような気がしたもので」
 綾さん、鋭い。
「い、いえ、その……綾さんの手って、大きいなと思って」
「そうですか?」
「そうですよ」
「キーボードを叩くぐらいしか能のない手ですけどね」
「でも好きです」
 ごく自然にぽろりと口から出てきた言葉に自分でびっくりして、「綾さんの手が」と急いで付け加えた。
「手だけですか?」
 もしかしてわかっていて聞いているのだろうか。そうだとしたら綾さんは意外と意地悪だし、そうでなければ相当に鈍い。そんな分かりきっていることを、どうして私の口から言わなくちゃいけないのだろう。
 素直に答えるのも恥ずかしい気がしたので、こほんと咳払いして意を決した。
 建物まではものの十数歩しかない。今を逃したら、次のチャンスはいつ来てくれるかわからない。綾はそ知らぬ顔で空を見上げながら、少し日が翳らないものですかね、などと呟いている。
 瞳子がこれほど心乱しているというのに、綾はいつもなんでもないことのようにさりげなくスマートに手を差し出してくる。それが少しだけ悔しい。年上だからだろうか。それとも男の人だからだろうか。
 これほど鼓動の振幅を大きく激しくしているのは、自分だけなのだろうか。
 少しばかりの反撥心が背中を押してくれた。
 手を伸ばす。ほんの数十センチのささやかな距離が無限に感じる。呼吸をしていることも忘れているような気がする。指の長い大きな手を探して、感じて、触れて、意を決してぐっと握りしめた。
 瞳子のてのひらには少し余る綾の手は温かい。今はレンズに覆われていない、緑の混じった瞳がこちらを向いた。そこに一瞬だけ見えた驚きの色が、すぐに笑みにかわったことに瞳子は満足を覚えた。
「人が多いですから、はぐれないようにしないと」
 この期に及んで言い訳めいたことを言ってしまうのは、そうでもしないと恥ずかしさで死ねそうだからだ。
「はぐれないようにですか」
「はぐれないようにです」
 見透かされている気がして頬が熱くなる。触れている手がかすかに握り返してきて、瞳子は自分の鼓動が乱れるのがわかった。綾はかわらず穏やかな目をしている。のんびりと歩く親子連れの一団が、足を止めたままのふたりを追い越していった。
「……行きましょうか?」
 落ち着いた声で、綾は微笑して瞳子に呼びかけた。笑みがこぼれてしまうのを自分では止められず、手をそっと握り返しながら瞳子は首肯する。
「はい」
 刺すように強い夏の日差しは、ふたりの頭上に濃い陰影を落としている。
 触れている指の体温は、はじめてこうして手をつなぎ合った日の出来事を思い出させた。今まさにあのささやかな時間を思い返しているように、いつか、この夏の日を懐かしく思い出すこともあるかもしれないけれど。
 ひとまず今は、望みの通じ合ったことを噛み締めながら、長くはない距離をゆっくりと歩いていく。



 千住瞳子には、かつて野望があった。
 野望を達成した今でも、綾と手をつなごうとする直前には、やはりたいそう緊張する。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
宮本圭 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年08月18日

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