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『水風鈴 』
セレスティ・カーニンガム1883



「こちらでよろしいですか?」
 窓辺で振り向いたメイドの問いに、セレスティ・カーニンガムは穏やかな笑みと共にゆっくりとうなずく。
 彼女が指し示す先には、わずかに開いた窓と、そのへりにかけられたガラスの風鈴。午後のけだるい風に揺られて、それがちりんとひとつ鳴る。
「ありがとう、あなたのおかげで助かりました」
 わずかに首を傾げつつ、セレスティはにっこりと笑って見せる。
「……い、いえ。仕える者として、当然のことをしたまでですから」
 彼の笑みに一瞬言葉に詰まらせた彼女は、心持ち顔を赤くした後「失礼します」と慌てたように部屋を出て行ってしまった。

「……ちょっと、からかいすぎてしまったでしょうか」
 大きなフランス窓から差し込む夏の日ざし。それからまるで避けるように、日がな一日セレスティは屋敷の一室、ここ書斎に篭っている。
 主に仕事用に使用しているこの部屋の隅――強い日差しのせいでよりいっそう暗く見える箇所――に設えてある執務用の机と椅子。ここ数時間、そこに着いているセレスティは、革張りされた背もたれになおも身を沈めつつ、ぬるい風に揺れる風鈴を見上げる。耳を澄ませれば、「人をからかって笑うなんて、相変わらず趣味が悪いですね」などと聴きなれた声が聞こえてきそうだ。

 暑すぎるせいか、外の喧騒は全く聞こえてこない。今の時間、誰も屋敷の外に出ていないのだろう。空調機による涼気がほどよく漂うこの部屋にいると、外の気温がまるで幻のようにも思えてくる。
 今もなお、夏盛りな気候。
 視界を漂白してしまいそうな夏の陽は、セレスティには少々刺激が強すぎる。



 ちりん。
 再び風鈴が鳴った。
 ガラス部分が光を弾いて七色に輝く。見る角度によって色の変わるそれはまた、天井や床にまばゆいかけらを散らし振りまいていく。
「この風鈴はプリズムの結晶から作られているんだよ」と、これを譲ってくれた人間が言っていた。
 ゆるい風とともに七色の光らもまた揺れ、薄暗い部屋を鮮やかに彩る。光の粒がゆらゆらときらめく光景は、まるで水面を海底から見上げているかのようで――

 と。
 壁に浮かんだ光の粒から、小さな影が飛び出したように見えた。
 目を凝らし、その影を目で追ってみれば、それはすぐに一つの形を取る。
「……おや、懐かしいですね」
 それはかつて――おぼろげにしか記憶に残っていないほど、はるか遠い昔のこと――見慣れた海で見かけた銀色の魚によく似ていた。
 光の泡が漂う宙を泳ぎ、セレスティの鼻先を掠めるようにして通り過ぎた、夢とも現ともつかぬ魚。
 赤い輝きを潜り抜け、黄色いきらめきを過ぎる。緑の光から生まれた同じ魚が平行して泳ぎ、藍と青が重なる中に飛び込んで共に消える。


 ふっと気がつき見回してみれば、書斎は水色の空気に染まっていた。
 それは例えるならば、白い珊瑚の砂がずっと続く、明るく浅い南の海のような色。
ちりんという風鈴の音と共に、水色の中で光の揺れる様は、すでに崩れ去ってしまった海の記憶を呼び起こすかのようだ。
 棚に並ぶ本の背表紙が、マリンブルーに揺れる。その前を過ぎるのは、銀色の魚の群れ。
 だが、そっとセレスティが腕を伸ばしてみても、その魚に触れることは出来ない。紺碧に染め上げられるような錯覚を覚えても、水の中のように息が苦しくなることはない。


 ――この『水風鈴』は、水の光景をあんたに見せてくれるはずだよ。

 再び、風鈴を譲り受けた者の声が脳裏によみがえってきて、セレスティは一人得心する。
 なるほど、これが彼女の言っていた光景か、と。
 ――普通の人ならば扱いかねる代物だけど、あんたなら大丈夫だろうさ……。


 窓からの光に鱗をきらめかせながら、銀色の魚は数を増しつつ漂い続ける。
 セレスティを取り囲むようにして泳いでいたそれらは、とある瞬間ぱっ、と散り、そうして光の泡の中に瞬時に消えてしまった。
 途端、部屋を染めていた青がよりいっそう淡くなる。まるで薄いヴェールを一枚剥ぎ取ったような変化に、セレスティは目を瞬かせた。


 ちりん。
 そうしてまた、風鈴が鳴る。


 変化の最初の訪れは、声。
 ふふふ。くすくす。幼い少女のような忍び笑いが、遠くなっては近くなる。
 目を閉じ、その声音にしばらく耳を澄ませていて……そしてぱちっと目を開けた時、目前には見知らぬ少女がいた。
 何が珍しいのか、セレスティの顔をまじまじと覗き込んでくる彼女。ひょっとしたら、未だ身じろぎ一つしないセレスティのことを、人形と思っているのかもしれない。
「こんにちは」
 セレスティがそう笑いかけると、その少女はわずかに目を見開いた後、はにかむ様に微笑んだ。
「こんにちは。あなたも、人魚なの?」


 ――その言外の意味が示す通り、彼女の下半身は2本の足ではなく、1本の尾びれと化していた。
 まだ幼い、少女の人魚。

 セレスティが戸惑うことなく、ただ笑ったままでいると、すぐに彼女はにっこりと笑い、そして宙へと舞い上がった。――いや、海面の方へと浮かび上がった。
 少女は水色の空間を舞うようにして泳いでみせる。漂う光の乱舞の中、優雅な動きで舞う人魚。
 まだ幼いといっても動きひとつに艶があり、そしてなまめかしい。
 セレスティでさえ、引き込まれそうになる気持ちを留めようと意識した程。

 
「さぁ、あなたも泳ぎましょう?」
 宙を泳ぐ幼い人魚は、そう言ってセレスティに手を差し伸べる。
 一瞬それを取りかけて――だがセレスティは首を振り、いつの間にか浮かせていた身体を再び椅子に沈めた。
「申し訳ありませんが、私は遠慮しておきます」
「どうして? こんなに楽しいのに。この海だって、こんなにこんなに綺麗なのに」
「残念ですが……私はもう、人魚ではありませんから」

 笑顔のままのセレスティに、少女はいたわしげな視線を向ける。
「あなた、かわいそうね」
「どうしてですか?」
「だって、人魚じゃなくなっちゃったんでしょう? ……そっか、あなた今は人間なのね?」
「ええ」
 頷くと、彼女は再びかわいそう、と言った。
「人間なんてつまらないものになるなんて」
「……あなたは、人間はつまらないものだと思うのですか?」
「違うの?」

 ちりん、と再び風鈴が鳴って、光の乱舞がいっそう強くなる。
 セレスティは目を細めた。少女の顔が光に埋もれかすんでゆく。


「あたしは、あたしが人魚でよかったと思うわ。こんな綺麗な海で、こんな風に楽しく毎日が暮らせるんだもの。明日をことを心配する事も、昨日の事を思い悩む事はないぐらい、今日がこんなに楽しい」
 ――人間になって、辛いことも、悲しいこともいっぱいあったんでしょう?
 ――それなのになぜ、人間のままでいるの?
 ――どうして、楽しいことばかりの人魚の生活を捨ててしまったの?

 ――ねぇ、一緒に帰りましょう? 人魚の海へ。
 ――だってあなたは、私と同じ人魚でしょ?



 少女の笑顔は、気のせいかセレスティがかつて出会った誰かのものとよく似ている気がした。
 光の隙間から、白い腕が差し出される。セレスティを誘うように、それはゆっくりと上下に揺れる。
 セレスティはそろそろと腕を伸ばしていく。あと少しで触れ合うという時、少女の微笑みがいっそう深くなったように思えた――



 突然。
 部屋が暗くなった。ザー、という轟音にも似た大きな音。開いた窓から忍び込んでくる冷気。
 夕立が来たのだ。
 あれほど部屋を埋めつくしていた光は、夢だったのかと思うほど跡形もなく消え失せていた。宙を泳いでいた銀の魚も、もちろん人魚も、もはやどこにもいない。
 一瞬で切り替わった現実は、まるで今までのことが悪い夢だったと示してくるかのようで、
 ――そう、悪い夢、だったのだ。
 ――確かに、辛いことも、悲しいこともたくさんあるけれど……私は人魚の身を捨て、人となった己の選択を、後悔してはいませんよ。
 人魚とは、『明日』を夢見ることなく、『今日』でまどろむばかりの生き物。辛い事から目をそむけて、快楽だけを追いかける。

 ――だけどそんな毎日が嫌で、私は人となったのです。
 おかげで、決してあなたが知りえぬだろうたくさんのものを、手に入れることが出来ましたよ?



 
 雨に濡れて、窓辺の風鈴が透明な雫を滴らせていた。今日はもう、澄んだ音を聴くことは出来ないだろう。
 ふう、とため息に似た息を一つつき、セレスティは頬杖をついた。
 そしてゆっくり目を閉じる。
 このまま眠ってしまえば、目が覚めた頃には雨も止んでいるだろう。せめてその刹那だけなら、また儚い夢に溺れてもいい。

 
 ――たまには、そんな夏の日があってもいいかもしれない。
 そう思ったから。
 
 
 
 涼気が部屋へと吹き込んで来て、水に濡れた風鈴をちりん、と鳴らす。
 だがその音はかすかで弱々しく、まどろみ始めたセレスティのまぶたを開かせる事は出来なかった。
 
 
 
PCシチュエーションノベル(シングル) -
つなみりょう クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年08月12日

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