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『意浮 』
藤咲・愛0830


 次の角を曲がれば、家が見えてくる。
 藤咲・愛(ふじさき あい)は心地よい疲れを身に宿したまま、そっと微笑んだ。赤い屋根の藤咲家は、ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家よりも甘く、素敵な存在だ。
 角を曲がると、いつものように赤い屋根の家が見えた。愛はなんだか嬉しくなり、小走りに家へと向かった。逃げる訳でもないのに。
「ただいま」
 勢い良くドアを開けながらいうと、リビングの方から「おかえり!」という声が聞こえてきた。父母弟の三人が、声を揃えて返してきたのだ。それがくすぐったい気がして、愛は半ば慌てつつハイヒールを脱ぐ。
「愛、テンツユとソース、どっちで天麩羅食べる?」
 玄関でハイヒールをそろえている愛に向かって、母親が尋ねてきた。愛は「そうねぇ」と呟いてからにっこりと笑う。
「テンツユ。それに大根おろしもあったらいう事無いわ」
「ほら見なさい、テンツユでしょう?」
 母親は父と弟にそう言っていた。愛は「なぁに?」と笑いながらリビングに入っていく。
「だって、二人とも大根おろしはいらないんじゃない?て言ってくるから」
 母親の言葉に、愛は食卓上にある皿を見た。確かに、山盛りになった大根おろしがあった。真っ白な山は、まるでかき氷だ。
「こんなにはいらないだろう?なぁ」
 父親はそう言って笑った。愛も「そうねぇ」と微笑む。すると、弟もそれに便乗する。
「俺らがいくら言っても駄目なんだって。気付けば大根半分使っておろしてたしさ」
「だって……ねぇ?」
 悪戯っぽく母親が笑った。愛もにっこりと笑い、テーブルにつく。
「お待たせしました!」
 愛がそう言うと、家族揃って手を合わせながら「いただきます」と声を合わせた。妙におかしくなり、家族全員で顔を見合わせてくすくすと笑った。
「今日も仕事、大変だったのか?」
 父親が愛に尋ねてくる。愛は「そうねぇ」と言いながらナスの天麩羅を口に運ぶ。
「確かに大変なの。でも、それ以上に楽しいのよ」
 愛の勤めている会社は、一流企業だ。にも関わらず、愛は26歳という若さで結構重要な地位についていた。日々確実に感じる手ごたえに、愛は仕事が楽しくてたまらなかった。
「仕事って、楽しいのか?」
 弟が怪訝そうに尋ねてくる。愛は「もちろん」と言いながら、ふふ、と笑う。
「あんたのサッカーと同じくらいに」
「俺のサッカーとは違うって」
 弟はそう言いながら、海老の天麩羅を口に放り込む。
「もうすぐ試合って言ってなかったかしら?」
「そうだぜ。せっかくレギュラーになれたんだし、一点を取ってやるんだ」
 そう話す弟の目は、きらきらと輝いている。それを両親は嬉しそうに微笑みながら見ていた。勿論、愛も。
 身内びいきと言われても仕方が無いが、弟がサッカーのレギュラーに選ばれたのは当然のように思っていた。弟はサッカーが上手いと思うし、練習だって頑張っているのだから。
「彼女とかはいないの?」
 母親が不意に弟に尋ねる。弟は啜りかけていた味噌汁を、思わずぶっと吹き出した。あわてて父親が近くに置いてあるティッシュペーパーを差し出す。
「いきなり、何を言い出すんだよ!」
 弟は受け取ったティッシュペーパーで飛んでしまった味噌汁を拭きながら、叫ぶ。
「あやしいな、お前。相手はどんな子なんだ?」
 父親がにやにやと笑いながら弟に尋ねる。弟は顔を真っ赤にしながら「だから、いないって」と言い放った。
「いないのなら、そんなにむきになる事は無いわよねぇ?」
 愛はお茶を飲みながら、ふふ、と笑った。愛の見透かすような目に、弟は一瞬どきりとした表情をした後に、慌てて「違うって」と主張する。
「そんな事言って、姉ちゃんはどうなんだよ?」
「え?」
 突如自分に矛先が回ってきて、愛は思わずきょとんとする。
「そうよ、愛。あなたも仕事ばっかりしてないで、身を固めたら?」
「あなたもって、俺は違うから」
 母親の言葉に、慌てて弟は突っ込みを入れた。愛はその様子に笑いつつ「やぁね」と母親に言う。
「やぁね、お母さん。今は仕事の方が、ずーっと楽しいのっ!」
「そ、そうだぞ。愛はまだどこにも行かないんだぞ」
 父親が不安そうに言い放つ。それを聞き、愛と母親と弟は顔を見合わせ、笑い合う。父親だけが笑う三人に向かって、真剣に「笑う事じゃないぞ」と言い放つ。
「もう、お父さんってば」
「大事な事だぞ」
 尚も主張する父親に、愛はそっと微笑む。
「大丈夫よ。本当に、今は仕事が一番楽しいんだから」
「あら、あなた。それもどうかと思わないです?」
 母親に言われ、父親は一瞬考え込む。だがすぐに顔を横に振る。
「いや、別にいい。愛はこうしてずっといればいいさ」
「あーあ、こりゃ姉ちゃんが結婚する時は号泣だな」
 弟がくくくと笑いながらそう言った。愛は「もう」と言いながら、弟を軽く小突く。
「ほら、愛」
 大方夕食を食べ終わった後、父親は突如愛に包みを手渡した。ファンシーな柄の包み紙に、柔らかな感触の物が入っているようだ。
「あら、なぁに?」
 愛は首を傾げつつ、そっと包みを見つめる。
「今日は、お前の誕生日だろう?」
 父親に言われ、愛ははっと気付く。どうして忘れていたのだろうか、と疑問に思うほど。
「そう言えば、そうだったわ」
「愛、忘れていたの?」
 苦笑する母親に、愛はこっくりと頷く。隣で弟が「あはは」と軽く馬鹿にしたように笑う。
 愛は弟を軽く睨んでから、包みをそっと開けた。
「……あれ?」
 出てきたのは、熊のぬいぐるみだった。それも、自分が幼い頃に親に買ってもらい、一等大事にしていた、ぬいぐるみである。
「コレがプレゼント?これは昔……」
 温かな微笑み。柔らかな感触。優しい波動。
 それがぐるぐると渦巻いていく。ぐるぐる、ぐるぐると……。


 愛は目を開け、ゆっくりと起き上がった。
「夢……?」
 愛は呟き、自分を再確認する。自分は、藤咲・愛。一流企業は内定を蹴ったので勤めてはおらず、歌舞伎町にあるSMクラブ「DRAGO」で指名ナンバー1の女王様をやっているのだ。
 愛は思わず苦笑する。今見た夢は「もしも」の世界だ。もしも、両親が生きていたならば過ごしていたであろう、仮の現実。
(こんな夢を見るなんて、あたしは平凡を望んでいるのかしら?)
 愛はベッドから立ち上がり、部屋を見回す。
 部屋の内部は、可愛いもの好きな愛に贈られた花やぬいぐるみたちで溢れている。親しい人から、お客様から。
 愛はその中から、熊のぬいぐるみを探し出す。夢の中で受け取ったものと全く同じ、昔親に買ってもらった熊のぬいぐるみ。
「大丈夫よ」
 そっと手に取り、抱き締める。柔らかな、だが確かにそこにあるという確かな感触が伝わる。今ここにいるのだという、確信を抱かせる。
 ぬいぐるみを抱いていると、そこからほんわかと暖かくなっていく気がするから不思議だ。まるでぬいぐるみに込められた思いが、温度となって愛に注ぎ込まれていくかのように。
「今の生活だって、捨てたもんじゃないわ」
 夢で体験した仮の現実を、全く焦がれないと言えば、嘘になる。だが、だからといってそれに執着する程のものではない。
 愛には、今がある。
 今、こうして過ごしているという実感が確かにあるのだから。
「大事な、あたしの居場所だもの」
 一流企業に勤めるのではなく、夜の町に君臨する事を決めたのは自分だ。そしてその事を後悔する事など、全く無い。今という生活だって、大事に思っているのだから。
「あたしは、今こうしているんだもの。こうして生活しているんだもの。だから、大丈夫よ」
 愛はそう言って微笑み、熊のぬいぐるみを元の場所に戻す。他のぬいぐるみたちに混じった熊は、いつもと変わらぬ愛らしさを称えていた。
 愛は大きく伸びをしてから、ザッと言う音をさせながら勢い良くカーテンを開けた。途端、眩いばかりの光が、愛の真紅の目に飛び込んでくる。愛は目を細めつつも、そっと微笑んだ。
 DRAGOナンバー1たる愛の、妖艶な笑みを浮かべて。

<意を浮かべるが如く光が射し・了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
霜月玲守 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年08月08日

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