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『蝉蛻 』
槻島・綾2226


 盛夏、万緑。
 呼吸のたびに躰の奥深いところにまで草熱れが行き届いて、その先でまた息衝いているような気になるほどの熱気が、槻島綾の身を絡んでいる。山道の傾斜は想像していたものよりきつく、時折草丈を読み誤った足の先が、固い土の地面に躓いた。すると疲れもあって自然と前屈みとなり、歩みに連れて自分の靴先が、右に左にと揺れながら視界に出現した。綾の辿る道は辛うじて道と呼べるもので、傍の草生い繁る地よりは少々増しと云った程度、歩くごとしっかりと根を張る草々を踏み分け進んでゆく。草の色はひどく瑞々しかった。木立のつくる下闇が、彼らを酷暑から救っているようである。ちらちらと覗く木洩れ日さえも優しく、風に合わせ草葉の上を舞っている。
 夏が来た、と綾は思った。匂いたつ草と土の香りは郷愁めいたものを想起させ、降り頻る蝉時雨にもまた、自分のなかから遠い記憶を呼び覚まされるような錯覚をする。背を伝う汗、頸筋を焼く熱、霞懸かる視野には草木が競って緑を炎天へ遊ばせる姿。
 それは既視感に似ている。この場処は、この時は――この夏は、初めて出逢うものであるのに、どこかで経験した気がする。夏には、そんな不思議な感覚がついてまわっていた。そこには期待、不安といった類の感情より、ずっと鮮明な、けれど茫然たる、哀傷の念がうっすらある。
 夏の主張が、激しすぎるからかもしれない。春、秋、冬と考えてみても、これほど急激で、その存在を意識せざるをえない季節があるだろうか。他の季には、次への変化を感じさせる流れのようなものがある。花に木に落葉に、雨に雪、空の色、あるいは動物たちの眠りと目覚めに、移ろう時間の確かさを見ることができた。しかし夏のそれは、どこか切り離されたようなところがある。始まりと終わりが截然としてあって、だからこそ、来た、と改めて思うのだろう。そうすると哀傷は、去るべきものへの惜別でもあるのだろうか。
 物思いに沈んでいると、突然「おう」と挨拶とも驚きともつかぬ人間の声が聞こえた。顔を上げると、使い込んだ風情の、古色した麦藁帽子を被った老人が綾と同じ道を下ってくる。首にタオルを巻きつけた軽装は、老人が地元の者であることを示していた。互いの顔と声がはっきりと伝わるまで距離が近づいたところで、こんにちは、と会釈する。老人はまたさっきの「おう」を繰り返して、
「あんた、旅のひとかね」と早口で言った。
「はい」綾は汗で張りついた前髪を掻きあげて答えた。「この上に、城蹟があるとお聞きして」
 正確には、物見櫓の遺址だったかもしれない。麓で聞いた話では、この一帯にはそういった遺構が点在しているということだった。
 老人は綾の言葉を聞くと、急にすまなそうな顔になった。
「あんた、そりゃ、こっちじゃない」
「え?」
「ずっと下の方で、道が三俣になってたろう?」
 言われて綾は記憶を辿る。この山に入ってすぐに、確かに道は三つに分かれていた。綾は一番右の道を選んだのだ。
「ええ、どの道も同じ方向に向かっているようでしたから……」
「真ン中と左はな。そっちなら城址に着くが、右だけはどんどん逸れてくんだ。この上は、地元者の墓しかない」
 何と、自分は三分の一の方を選んでしまったらしい。
 綾は苦笑して、その事実を教えてくれた老人とは礼を言って別れた。

 そこで引き返すべきだったのかもしれないが、綾は思い直し、そのまま山道を上った。道は麓の住民の、それも随分古い祖先の墓地で行き止まると聞いていた。墓参りをする者もそうそういないのだろう。先程擦れ違った老人も、何かを包んだ手拭いひとつを手にしたのみであった。
 午后、陽射しは一等つよく、くっきりと影を地面へ映じている。道は徐々に狭まり、獣道と大差がなかった。ひたすら土と樹と草と、空色のみが綾の視界を支配する。蝉の声が遠くに近くに絶えずあって、ふと自分が今、進んでいるのか歩みを止めたのか、分からなくなる瞬間があった。
 やがて道は、木立に吸われて消えた。
 いつの間にかまっすぐにのみ向けられていた視線を動かして、辺りを窺う。大分登ったように思う、山頂付近ではなかろうか。来し方はゆるやかに曲線を描いて、遠くまでは見通せなかった。眺望もきかず、ただ木々の向こうにほのか青い山脈が見える。左と前方は鬱蒼と山深い気配、ただ右の側だけは、明らかに人の手が加えられていると知れて、切り開かれた空間にぽつぽつと立つものがある。多くは朽ちかけた木の姿で、眼を凝らせばなかには卒塔婆もあるようだった。墓標が並ぶ。そこが道の終点の墓地だった。
 綾はしばらく入口と思しき対の門柱の前に佇んでから、手を合わせるでなく、ひとつ辞儀して墓所に踏み入った。
 山の端を回りこむようにして拓かれた土地は、奥に進むと少しばかりだが麓が見下ろせた。近年合併されて名称は隣の市のものとなったが、こうして眺められるそこは、やはり“村”の風色である。
 ゆっくりと墓地を廻る。踏み固められた塗だけが歩きやすい。人間の背丈ほどにも伸びた草たちは他の草木を呼び寄せ、端の方では既に山に呑まれた墓標もある。そのなかに、ひとつふたつ真新しく土色露わな墓は、先の老人の縁者だろうか、よくよく見れば他の墓や塗の辺も、まだ人の気配を伝えている。足繁くとはいかぬまでも、ここを訪れる者があるのは確かなようだ。
 それでも、いずれは消えてゆく、と綾は思う。予感とも違う、穏やかな結論だった。参るひとの絶えた墓地は、少しずつ侵蝕を許し、山の一部となって、ついには麓から続く道をも断ち切るのだろう。あの三俣の分かれ道は二俣になり、ここは道ごと消え去る景なのだ。
 そう考えていると、まるで呼ばれたような気になってくる。道に墓にこの緑にこの夏に。何だって構わない。それらが右の道を綾に択ばせ、今でしか見られなかった、触れられなかったこの景色に逢わせてくれた。無論こちら側の勝手な解義に過ぎぬのは承知だが、それは決して悪い考えではないだろう。
 墓所の端まで来ていた。眼の前にはなかば頽れた碑がある。墓石には見えなかった。綾は背負っていたデイパックから眼鏡を取り出し、碑文を読み取ろうと表面を凝視した。文字の刻まれた部分は残っていたが、永い時間を雨風に晒されてきたとみえ、白、黒、藍、白緑、斑に彩られた凹凸は、それが文字であることを教えるのみで、意味をなした文章には読めなかった。文字のかたちをなぞるように指を彷徨わせてもみるが、一向に解読できる気配はない。
 そうして我知らず夢中になっていると、すぐ傍にけたたましく蝉の音。反射的に片耳を覆った。
 足許を眺め遣る。草叢に蝉の脱け殻が落ちていた。茶色いセロハン紙のごとき透明はまだ幾分保たれている。今にも風が起こり、かさこそと転がってどこかへ徃ってしまうように思われたが、殻はじっとしているばかりだった。
 凪いでいる。
 唐突に自分が置いていかれる気がして、喉の奥がかすかに締めつけられたように覚える。息を吸うことを意識すると、背にも痛みとも呼べぬ痛みが伝播する。
 眼に映るこの夏は、いつのものであったろう。道はいくつに分かれていた?
 ぼやけた白い輪郭は耳まで支配して、不完全な静寂を齎していった。くらり、世界は凪いでいる。
「……」
 蝉が鳴く。
 二歩、右足と左足は等しく前へ進む。それがよろめきだと気づいて、綾はゆっくりと瞬きし、そして嘆息した。感覚に対処しきれず、僅かな息苦しさが曳いている。
 どこかぼんやりとした意識を覚醒させようと、眼鏡を外して眉間を押さえた。自分の呼吸。白い陽射し。墓標。頽れた石碑。分かれた道。草の匂い。蝉の声。夏。
 ――僕は、わけもなく泣きそうになった。


 <了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
香方瑛里 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年08月05日

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