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『神田にて 』
早津田・玄5430)&城ヶ崎・由代(2839)



「おう、由代」
「……おや、めずらしい偶然もあるものだね」

 梅雨明け宣言したばかり東京、神田の街に、からりからりと下駄の音が鳴り響く。
 吹く風を肩で切り、落ちついた色合いの作務衣に身を包んだ壮年の男は、懐からつきだした片腕で顎ひげを撫でつつ、黒檀のような眼差しをにゅっと細めて笑みを浮かべた。
 対する男は、見目の派手さは感じさせないものの、見る者が見れば一目で上質なものであると分かるジャケットを羽織っている。こちらもやはり、落ちついた風貌の壮年。
「いつもながら、キミ、笑顔を作るならば、もう少し器用に笑いたまえよ。それじゃあ、子供なんかは怯えて泣いてしまうよ」
「……フン。おまえの笑い顔はどうも胡散臭くてならん」
 憎まれ口をたたき、鋭い眼光を光らせる。ジャケット姿の男――城ヶ崎由代は、目の前の友人に向けて頬をゆるませると、ついと路地に顎を向けた。
「キミが神田に足を運ぶ時は、きまってあの店に行く時だ。どうせ目指す場所は同じなのだから、しばらくぶりに並んで歩こうじゃないか、早津田君」
 穏やかな知慮深さを宿す双眸をゆるませつつ笑う由代に、玄は再び顎ひげをわしわしと撫でまわし、睫毛を伏せて笑みを浮かべる。
「そうさな。それも悪くない」


 時は二十数年ほど前にさかのぼる。
 そう、二人が顔を合わせ、こうして肩を並べるようになったきっかけは、二人がまだ少年であったあの頃の事――――。

 * * *

 梅雨の明けた空はすっかり夏を色濃いものとしていた。
 うだるような暑さ。しゃわしゃわと鳴く蝉の声が、教室の中にまで聞こえてくる。加え、教壇に立つ教師の話のつまらない事といったら、これはもう、寝てしまうか授業をさぼるか、二つに一つの選択しか残されていないような気がしてしまう。
 早津田玄は汗ではりついた前髪を片手でかきあげ、残る片手でかたっくるしい詰襟を力任せに引っ張った。
 席の位置は窓際。悪い事に、一番前。さすがにこの位置では居眠りするのにも躊躇する。
 そんな玄の心など素知らぬ顔で、英語教師はぼそぼそと聞こえ辛い声で授業を続けている。黒板にしたためているのは、どうやらマザーグースの一節かなにからしい。が、今の玄には知った事ではない。
 ……暑ぃ。
 手であおぎながら窓の外に視線を泳がせた。蝉の声はしゃわしゃわと景気よく鳴いている。グラウンドで汗を流している生徒達の上には、惜しげもなく降り注がれる夏の陽光。
 こんな暑ぃ中、外で走りまわるなんざ、俺だったら勘弁だな。
 手であおぎながら小さな欠伸を一つつく。教壇の真上の丸い時計を見れば、針は授業の終わる十分ほど前を示していた。
 あぁ、さっさと終われ。
 心の内で呟く玄の視線が、ふと、教師のそれとがちりと重なった。軽く睨み据えてやると、教師はしばし視線を泳がせてから、まるで助けを請うかのように、一人の男子生徒を指差した。
 男子生徒が立ちあがり、教科書に指をかける。玄はそれを見るともなしに見ていたが、やがて心の底で軽く一言ぼやいて、再び小さな欠伸をしてみせた。
 蝉の声と、グラウンドで走りまわる生徒達の声。それらを打ち消すように、低く、落ちついた声音が教室の中に響き始める。つっかえのない、流暢な読み方で教科書を読み進めていくその少年に、玄はもう一度、ふらりと目を向ける。
 城ヶ崎由代。整った顔立ちに、成績優秀。当然のように運動もこなすし、性格は品行方正、誠実を絵に描いたような、まさに”好青年”といった風の男。
 ……しかし。
 頬づえをついて由代を見つめ、憮然とした表情で、その整った横顔を確かめる。
 あいつは、どうも胡散臭ぇ。
 あいつがまとっているあの輝きの影に、俺ぁ確かに影を感じるんだ。こう、言い知れねぇ、色濃い影とやらをな。あいつはどうも、それを巧妙に隠しているように思えてならねぇ。 
 心の内のみでそう毒気づき、睨み据えるように由代を見つめる。ちょうど教科書を読み終えた由代が、教師の絶賛を得ながら静かに着席しているところだった。
「……!」
 頬づえをついた姿勢のままで、玄はわずかに目を見張る。
 玄の心を知ったかのように、由代が、こちらに視線を向けているのだ。口許には、玄の心をあざ笑っているかのような微笑。
 玄は、知らず眉根にしわの寄るのを感じた。

 * * *

「そりゃあキミ、あんな風に睨まれたりしたら、僕でなくとも、キミの心意は手に取るようにわかってしまうというものだろう?」
 神田の街を往きながら、由代はそう言って呆れたような顔をした。
「俺がおまえを睨んだだと?」
 玄の険しい眼光が由代の眼差しを一瞥する。
「俺ぁ、言われるほど人を睨んだりした事などないのだが」
「うん、実はただ単にキミの目つきが悪いだけだっていうのは、キミと話をするようになってから判ったよ」
 思慮深げな双眸をゆるりと細め、自分を見つめる由代に、玄はムゥと小さな唸り声をあげてはみせたが、それきり押し黙ってしまった。
 夏の陽射しに熱せられたアスファルトから、むうとした熱気はたちのぼる。車が過ぎるたびに、土埃が舞いあがっている。
「……おまえは、あの時俺が思った通りの男だ」
 不意に玄が口を開く。
「ふぅん。あれ、だってキミ、僕を胡散臭い奴だと思っていたんだよね」
 思案気味に顎を軽く撫でながら由代がそう訊ねれば、玄はニィと口を引いて目を細ませる。
「現にそうだろうが。単なる良家のご子息様がだなァ、おまえ、あんな店に足を運ぶわけもねェんだから」
「それもそうかもしれないな。まぁしかし、それもあって、僕はキミと親しくなれたのだから」
 返す由代の言葉に、玄は懐から抜き出した片腕を伸ばし、後頭部でまとめた頭髪をひと撫でしてみせた。
 見据える視線の先、通い慣れた一軒の古書店が姿を見せる。
「アァ、確かにそうだな」
 
 * * *

 退屈なばかりの一日が終わると、玄はホームルームや清掃といったものもそこそこに、早々と門を後にした。
 夕暮れていく風景の中、蝉の声に背を押されながら、教科書もろくに詰め込んでいないカバンをぶらぶらと揺らしつつ、神田の街を目指す。
 神田には、馴染みの古書店が在る。お世辞にも決して流行ってはいないだろうと思われる佇まいを見せるその店は、実は裏の顔を抱え持っているのだ。
「よぉ、オヤジ」
 退屈そうな顔で欠伸などついている店主に挨拶をする。店主は玄の顔を確かめるとゆっくり席から立ちあがり、むっつりとした表情で手招きをした。
「待ってたよ、玄くん。さ、入って」
 店主の招きに、玄は軽い会釈を返す。

 この古書店は、神田の道の、奥まった場所に在る。いつ潰れてもおかしくはないような店構え。それなりに古書は並べてあるが、常時閑古鳥がいるといってもいい。
 その古書店が持つ、もう一つの顔というのは、その店の地下に隠されている。

「玄くんのお父さんから連絡は受けておるよ。本来なら付き添って説明なぞしたいところだが……」
 通された地下に並ぶ書棚には、西洋魔術に関する書物がびっしりとおさめられている。玄はそれらを一通り眺めた後に、ふと、棚の奥に揺れる人影があるのに気がついた。
「俺ぁ一人でいろいろ見てるから構わないっすよ」
 笑みを浮かべてみせると、店主は「悪いね」と一言言い残し、そそくさと奥の方へと消えていった。
 店主を送り、棚に並ぶ書を確かめる。日本語で書かれたもの、そうではないもの、真新しい表装のもの、そうではないもの。それこそ多様に取り揃えられてはいる。
 玄はその内の一冊――わりと古びた表装のものを手にとって、流すようにぱらぱらと頁をめくった。
 古書独特の香が鼻につき、わずかに目を細ませる。それを流し見て棚に戻し、再び棚を物色しはじめる。
 早津田の家は、中国を起源にした陰陽道の流れを組んだ法を使う、いわば特異な能力を持ち合わせた家柄だ。そこに、西洋の術式の存在も知っておきたいと、玄自らが父親に頼みこみ、この古書店との繋がりを結んだのだった。
 西洋の術式もまた、奥が深い。書を読めば読むほど、その世界の広さに惹かれていくのがわかる。
 棚を移動し、別の書に手を伸ばした、その時。玄の耳に、覚えのある声が届いた。

 ――いや、いくらあんたでも……は、なかなか出来る事じゃあない
 ――いえ、しかし……この術式を……すれば……もっと簡単に……できるはずです

 会話は小声で交わされており、言葉の端々しか聞こえない。……が、しかし。
「……城ヶ崎由代」
 呟き、目を見張る。
 
 気難しく、接する客を選ぶという事で評判な店主が、満面に愉悦を浮かべて会話している男。それは確かに由代だった。
 見れば、由代は一冊の洋書を手にしている。玄は由代に気付かれないように気を配りながら、棚の影に身をひそませた。
 由代の手にある書は、大英図書館書所蔵スローン稿本3189番……俗にロガエスの書とも呼ばれる古書の写本であるのだが、――それは残念ながら、玄の側からは確認できそうにない。しかし、会話の端々から察するに、そして今この場所から弾き出される結論としては、
「あのヤロウ……西洋魔術に通じてやがるのか……?」
 声をひそめ、一人ごちる。
 由代と店主は、玄に気付く様子もなく、時折笑顔など見せたりしながら、会話を続けている。
「やっぱり俺の目は狂っちゃいなかった。……あのヤロウ、単なる子女なんかじゃねえ」
 呟き、眉根を寄せた。
 棚の影に身をひそませた玄は、しかしその時まだ気付いてはいなかった。
 由代の目が、ちらとこちらに向けられていた事を。

 + + +

 目指す古書店を前にして、玄はふと足を止めた。
 横を見れば、由代は興味深げに微笑みなど浮かべつつ、入り口のワゴンに並んである本のタイトルなどを追っている。
「……なンか、めぼしいモンでもあるのか?」
 問えば、由代は訝しげに眉を寄せている玄に一瞥して、うなずいた。
「こういう本なんかも、案外面白く読めたりするものだよ。早津田君もどう、一冊」
 穏やかに頬をゆるめる由代の手には、タイトルさえ聞いたこともない推理小説がおさまっている。
 玄は鼻を鳴らして歩みを進め、古書店の中へと立ち入った。
「その笑顔がクセモノなんだ、おまえは」
 
 吐き捨てるようにそう述べる。由代は、玄の背中で小さな笑い声を洩らしている。

 蝉が、夏の青空を背景に、忙しなく鳴き続けている。


―― 了 ――
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2005年07月19日

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