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『陽に向かい 陽を想う 』
楷・巽2793)&門屋・将太郎(1522)
 月明かりが薄闇の中に緑を浮かばせていた。オフィスの観葉植物に、最後に水を与えてから大分経っていたことに気づき、しゃがんで乾いた土に水をやっていた。
 楷・巽は手を止めて、オフィスの窓から夜空を見上げた。黄金色に輝く、満月にはやや欠けた月が、そこにあった。子供の絵によく出る赤い太陽さえほうふつとさせるその月は、夜空にふさわしいものだった。そう、月明かりはもとをただせば太陽の光だ。
 水を与えていたペットボトルのふたを閉め、立ち上がって、すぐ近くの机に寄りかかる。それでもまだ、月を見つめ続けた。
 懐かしむように、月を眺めていた。いや、もしかしたら、月ではなく、その光の先にある、太陽のような……



 心理相談所としては一般的な構えのそこに、一通の書状を携えて行ったのは、おそらく片手ほどで数えられるほど、ほんの数年前。書状にも、ドアの入り口にも『門屋心理相談所』の文字があった。楷は、大きく息を吸い、はいた。
 ドアノブをまわし、開ける。中にいた人物と視線がかち合った。まだ院生だが、働ける自信はあります。どうか助手として雇ってください――心の中で叫んだが、本人を目の前にして、口に出すのを忘れてしまった。
 心理相談所所長宛の書状を、名刺さながらに腕を伸ばして渡す。それが開けられて読まれている間、ずっと床を見つめていた。紙のかさかさとなる音がひどく耳についた。
「――で?」
 切り出しがそれだった。なんといったら言いのかわからず、ただ頭を下げた。答えを訴えることもなく。訴えようにも、頭が上がらない。彼の目にどう見えていたのかは、今もわからない。
「助手になりたいのか? 俺の?」
「論文を読んで、興味を……」
「何年前のを読んだんだか」
 彼がポン、ポンと後頭部に手を置くので、顔を上げるタイミングを逃してしまう。どうしたらいいのかわからない。
「まぁ、助手か。うん、わるくないな」
 頭に置かれていた手がなくなったので頭を上げた。逆光がまぶしくも、口元に浮かぶ笑みはよく見える。
「雇ってやるよ。これを見るかぎりじゃぁ、おまえが俺に求めるものは、俺がおまえに求めるものとは違うかも知れねぇけどな――お前流に俺を理解すればいい。ゆっくり、な」
 これ、といってさした書状は、院の教授がしたためたものだ。そこそこに有名な教授に一筆書いてもらえれば、雇ってもらえる確率が高いと思ったのだが、何か無駄なことまで書かれていたのだろうか?
「俺の名前は知っているだろう? お前の名前は?」
「書状には書かれていないんでしょうか?」
 問いかけた。
「自分で自分の名前ぐらい名乗れ、な」
「楷・巽です」
 楷がそういうと、所長は肩からかけている白衣で手を拭き、楷に差出した。楷もその手を握った。握られた手から、希望があふれていた気がする。


 その希望が崩れたのは、いつだったか。
「楷、そこの資料を取ってくれ。あと、カウンセリングの記録、半年前から先月までのものをファイリングして、学園の生徒のものだけを俺の机においておけ。臨床例として記録をみても構わんが、見たあとは、見なかったことにしろよ」
 相談所所長、門屋・将太郎のもとでの助手としての生活に、不足はなかった。被験者のデータを担当者以外の者が見るのは、プライベートにかかわるため、あまり推奨されない行為なのだが、見なかったこと、にすることで門屋はざっくばらんに対処していた。院生として、論文の臨床例は欠かせなかった。傾向を知ったあとであとでデータを検索すれば、芋づる式に出てくるのだ。
 学術的に充実していたし、なにより深く突っ込むことのない門屋の性格はわかりやすかった。助手、といってもカウンセリングに参加したりはしなかったものの、仕事に満足していた。――『助手』としてはだな、本当に。
 勤務時間を過ぎると、扱いは『助手』から『家政夫』に一転した。思い出すと、いまでも口の端が笑ってしまう。
「楷、――やっておけ」
 家政夫的仕事を押し付けるとき、彼は決まって顔をあわせた。視線をじっと交わし、言っていることがわかるよな? と暗に伝える。読心術に長けた人物だが、テレパシー能力もあるんじゃないかと思ったこともある。
「自分でやったらいかがですか、オフィスの掃除ぐらい。食事の用意にしたって、自分でコンビニ弁当なり勝手に買って……」
 最初は正直にやっていたものの、一ヶ月も経てば不平をもらすのが常だった。思えばその一ヶ月は、大先生が自分を雇ってくれたことに酔いしれていたのかもしれない。だが反論しても、途中経過は名誉のために秘めるとして、口げんかが勝てたためしがなかった。
 結果、おさんどんさん状態が半年も続いたある日。職場に行かずに、駅の喫茶店でずっと紅茶を飲んでいた日があった。横文字カタカナで言うならボイコット。あてつけ的な気分もあって、門屋行きつけの店にいた。案の定彼が来て、隣の席に座った。なにも言わず、コーヒー一杯とタバコ一本で去って行った。その後姿が、心に残ったというわけではない。
 子供の駄々のようなことをやっている自分を、ひどく恥じた。


 翌日は行った。はじめて来たときのような深呼吸をして、ドアノブを開ける。変わらない顔でおはよう、という所長が、朝日よりもまぶしい存在に見えた。
「おはようございます」
「おう、どうだった? 一日喫茶店は」
「楽しかったです。いろんな人の、いろんな行動が見えて」
 説教代わりなのか、突然の質問に面食らいつつも、自分の心理状態の半分を隠しながら言った。喫茶店では無駄な雑音ばかりだったせいか、かえって自分とそのほかのものをシャットアウトすることがたやすかった。結果、行動を冷静に分析できた。行動から、他人の心理分析をしてしまうのは、今ではもう性となってきている。
 門屋は、隠しているはずの心理状態半分に気づく人だった。気づいていたはずだった。
「それはよかったな。先日にひき続いて資料を探してくれ。あと、学園の学生、五年分」
「……あの、大分ほこりかかった棚からも、ですか?」
 最近の生徒のものは机の上にもあるが、古いものはオフィスの隅にほこりをかぶって棚の上に山積みされている。はたきでほこりを落とす作業が必要だ。部屋に蔓延する塵芥は避けられない。今年の大掃除は自分の部屋だけでは終わらなさそうだと、笑みを漏らした。
「業者、呼びませんか?」
「お前の薄給で呼ぶならいいぞ。百人単位で呼べ」
 そんなことはできません、と言い返して、窓を開け、棚をはたきで叩く。マスクはもちろん、つけて。資料に目を落とす門屋の真剣なまなざしの中には、勤労助手と、舞う塵芥は入らないらしい。
 塵芥レベルか? いやいやいや。
 マスクの下でほころぶ。冬の空に浮かぶ太陽が、オフィスを照らしていた。


 結局、家政夫状態はいつまでも続いた。まぁ、無駄だと思っても、それで自分は幸せに似たようなものを感じていた気がするのだ。そう思わせるものが、そのときの彼にはあった。――今の彼を、否定するわけではないが。
 枯れていた観葉植物の葉をもぎ、ゴミ箱に捨てる。月は今も、輝いている。けれどいつか月は沈み、太陽が朝を迎える。
 それまでは、月の光に、かの陽を。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
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東京怪談
2005年07月05日

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