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『優しい炎、幸せの花 』
藤井・せりな3332


 周りの景色が見えないほどに忙しい日々に心も身体も疲れた時は、立ち止まって周りを見るといい。
 ゆったり流れる雲にも、髪を優しく撫でる風にも、道端に咲く花にも、あなたの幸せが輝いているから。

* * *

 夏本番にはまだ少し遠いはずだと思っている街とは裏腹に、太陽は既に熱く照り、地上を灼熱に焼き始めている。連日の猛暑に人も草も少々元気がないようだ。
 藤井・せりなはフラワーショップの店先で、まだ午前中にも関わらず、照りつける強い日差しを眩しそうに見上げた。
「今日も暑くなりそうだわ……それなのにどこに行ってしまったのかしらあの人は」
 せりなが呆れた呟きを漏らすのも無理はない。このフラワーショップの経営者であるはずの夫は、今日もどこかで興味を惹かれたあらゆる事象を追って走り回っている。店に居る時の方が少ないくらいだ。そのおかげで、最近は目を離すとすぐに店内から消えてしまう夫よりも、専らせりなの方が店の主として認識されているようだ。
 少年のように純粋な好奇心や行動力は夫の魅力だと思うし、そこに惹かれてもいるが、こうもちょくちょく抜け出されては流石にたまらない。
「全くもう……目を離すとすぐにいなくなるんだから……」
 ふぅと溜息を吐くせりなの手には、花達の水遣りの為に傾けている如雨露の他に、何故かハリセンが握られていた。知る人ぞ知る、せりな御用達のお仕置きハリセンは、まるで研ぎ澄まされた刃のように白い刀身を日の下に晒しながら、今日も振り下ろされる時を待っている。
 今日はアッパー気味にいこうか、それとも大上段から振り下ろすべきか、おっとりとした美人顔に似合わない恐ろしい思考を巡らせながら花に水を遣るせりなの耳に、無邪気な歓声が聞こえてきた。
「先生こんちはー!」
「あら、こんにちは」
 その声に顔を上げると、この暑さに泳ぎにでも行こうと言うのか水着の入ったビニールバッグと浮き輪を手にした小学生が二人、せりなの元へ走り寄ってくるところだった。二人とも、せりなが週一回指導している空手の教え子達である。
「わぁ、虹だ!」
「きれいー!!」
 子供達はせりなに挨拶をすると、すぐにその手元に目を移し歓声を上げた。つられて視線を落とせば、乾いてしまった葉や土に潤いを与えるついでに、せめてもの暑気払いにと店先にも水を振り撒いていた為か、如雨露の先から迸る水の上で、熱い日差しを遮るようにふわりと虹がかかっていた。子供達の声でそれに気付いたせりなは、僅かながら視覚からも涼が得られた事に微笑を浮かべた。
 そして、子供達が如雨露の先に目を奪われている隙に咄嗟にハリセンを隠すと、にっこりと笑って彼らの視線と高さを合わせるように膝を折った。
「持ってみる? あなたたちにも虹が作れるわよ」
「いいの!?」
「ええ。でもお花にはかけないでね。この子達はもうたくさんお水を飲んだから」
 そう言って如雨露を差し出すと、子供達は我先にと取っ手を掴み、熱くなったアスファルトの地面に向かって水を振り撒き始めた。
 小さなにわか雨の向こうで虹が光り、それを映す子供たちの瞳もキラキラと光る。
 きゃあきゃあと楽しそうに騒ぎながら、代わる代わる如雨露を傾ける様子を見て、せりなは胸に温かな炎が灯るのを感じた。

* * *

 本音を言えば、夫の手伝いをする事が嫌だった時期もあった。
 花屋の仕事というのは、朝も早いし生物の取り扱いだから気も遣う。更に当然だが水仕事も多く、想像以上の重労働である。見た目の華やかさに惹かれて手伝い始めたのはいいが、お嬢様育ちのせりなはその実情に悲鳴を上げた。しかも、夫が前触れもなくふらりといなくなるせいで、接客までもが全て自分の仕事になってしまうのだ。花の名前を多少知っているくらいの自分が、客が求める状況に応じて花を見繕うなどそう出来るものではない。仕事の辛さと自分の至らなさと夫への不満が爆発して、一体ハリセンを何度揮った事か。
 それが原因で夫と別れようとまでは流石に思いはしなかったものの、それでも店の手伝いをするのだけは辞めようと考えた事はある。そうすればいくら何でも夫は店に居るようになるだろうし、自分の代わりにアルバイトの一人でも雇えばいいのだ。
 慣れない仕事に疲弊して、そんな事ばかり考えて辛い毎日を送っていたせりなの心を救ったのは、誰でもない、毎日接している客たちだった。
 大事な人に贈る花束を真剣に吟味する青年、母の日に渡すカーネーションを買いに来る幼い兄弟、ただ花が好きで嬉しそうに店内を眺める初老の女性。皆訪れる目的は様々だけれど、この店で花を手にした時、その心には優しく幸せな炎が満ち溢れる。
 感情を炎として見る事の出来るせりなだけが気付いたその変化に、せりなの心にもまた優しい炎が灯ったのを感じた。辛く忙しい毎日の間に見えなくなっていたものが、そこで全て見え始めた気がした。
 どうしてこんな温かな感情に気付かなかったのだろう。花の事など分からなくてもいい。知識ならば勉強すれば手に入る。朝早いのも重労働なのもやってるうちにきっと慣れてしまう。
 なによりも大切なのは、花を通して幸せの欠片を渡しているという事なのだ。そうして花を介して渡した幸せは、客の笑顔でせりなにも戻ってくる。一つ一つの出会いと笑顔が自分の活力になる事にせりなはやっと気が付いた。
「明日、プロポーズするんですよ。花束渡してってのはちょっとキザですかね?」
「おかーさんにね、ありがとうって言うの!」
「この花びらの色、とても綺麗ね。見ているだけで嬉しくなるわ」
 交わす言葉から零れる炎を、花が幸福へと変えてゆく。笑顔が咲いて、胸の内に温かな炎が宿る。なんて素晴らしい瞬間なのだろう。
 一つ一つは小さな松明にしか過ぎないかもしれないが、それはいつしか大きな篝火となって、人々を、自分自身を明るく照らし出してくれるのだ。
 そうして胸の奥に優しい灯火を湛えたせりなの笑顔は、周りで咲き誇る花と同じように、来店する人々に幸せを感じさせるようになっていた。

* * *

「先生、お水なくなっちゃったよ」
「あら、ホントね」
「ねぇ、花に水上げてもいい?」
「向こうのお花ならまだお水上げてないからいいわよ」
「やった!」
 眩しい日光の下で、子供達を見守りながら昔の記憶に思いを馳せていたせりなは、自分の服を引っ張る子供達の手に、我に返った。そうして、強請られるままに如雨露に水を満たしに行く。
 今日も子供達の笑顔から優しい幸せを貰った。この後も、どんな人々が幸福の欠片を求めてやってくるのだろうか。今日はどれだけの幸福を渡せるだろうか。
「こんなに素敵な仕事を放り出して、本当にダメな人ね」
 そう呟くせりなの口元からは笑みが零れて消える事はなかった。


[ 優しい炎、幸せの花/終 ]
PCシチュエーションノベル(シングル) -
佐神スケロク クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年07月04日

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