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『萌芽 』
リラ・サファト1879)&藤野 羽月(1989)

 ふたりで早朝の市場から帰る途中、いつも前を通る花屋の軒先に、見慣れない花が咲いているのに気づいたのはリラ・サファトのほうだった。彼女の両の眼はいつも、見慣れた景色の中に起こったちょっとした変化を決して見過ごさない。それが自分の見たことのないものなら、なおのこと。
「リラさん?」
 隣を歩いていた妻が足を止めたのに気づいて、藤野羽月も歩みを休めて振り返る。
 リラは花屋の前にかがみこんで、そこに無造作に置かれた鉢植えを凝視していた。細い竹の棒を立てた行灯仕立てに、蔓が勢いよくからまりながら、喇叭のような花を咲かせている。それが故郷では見慣れた花であることを見てとり、羽月は軽く目を瞠った。
「朝顔か。久しぶりに見た」
「羽月さん、この花知っているの?」
「知っているも何も、私の故郷の花だよ。こちらにもあるとは知らなかったが……いや、もしかしたらこの花も、元々は日本から来たものなのかもしれないな」
 言いながら、朝露を受けてみずみずしく輝く紫色の朝顔に、指先でそっと触れる。
 このソーンという世界には、異世界からさまざまな漂着物が流れ着いてくる。時にはがらくた、時には異文化、そして時には人や、それに類する知的生命体。かつて羽月やリラがこの世界へやってきたように、別世界から流れ着いた植物の種が、いつのまにかソーンの大地に根付いてしまっていたとしても不思議はない。
「でも、私、こんな花ははじめて見ました」
 この花屋さんの前はよく通るのに……と小首を傾げたリラの言葉に、羽月は表情をゆるめた。
「朝顔という名前通り、朝にしか咲かない花なんだ。太陽が高くなるにつれて花はしぼんでしまって、またその翌朝に同じ花が咲く。リラさんが普段ここを通るのは、昼か夕方だろう?」
「へえ……なんだか不思議な花ですね」
 羽月に説明を受けてリラが感心したように頷いていると、花屋の女主人が別の大きな鉢植えを抱えながら、いらっしゃいと威勢よく声をかけてきた。
「おや、今日は旦那さんも一緒かい? 気に入った花があるなら安くしとくよ」
「ああ、いや」
 見ているだけだからと口を開きかけた羽月は、ふと隣のリラの様子を目に留めた。
 彼女は鮮やかな色をした朝顔の花を、未だめずらしそうに眺め回している。羽月自身もかつての故郷で見慣れた花を目にして、少しばかり郷愁を誘われていた。朝顔なんてものを目にしたのは、どれぐらいぶりだろう?
 この鉢植えを買って帰ろうかとも考える。だがこれはずいぶんと早咲きのようで、時期外れの花は案外長持ちしないものだ。いや、むしろ、それよりは。
 提案は存外するりと口をついて出た。
「失礼。もしよければ、この朝顔の種をいくつかいただきたいのですが」

 帰宅してすぐ、庭のどこに植えようかという算段が始まった。
「やっぱり、日当たりのいい場所がいいよね?」
「そうだな。多分」
 羽月もそれほど花に詳しいわけではない。植物の育て方の認識といえばせいぜい、種をまいたら水をやって日に当てればそのうち芽が出るはずだ……という程度だから、たぶんリラといい勝負なのだろう。
 日当たりのいい場所を選んで土を掘り返し、そこへ種を埋める。
「いつ芽が出るのかなあ」
 まだ埋めたてた跡も新しい土の上に、鉢と一緒に出てきたじょうろを使ってリラが水をまく。土いじりの道具を片付けながら、羽月は朝顔がどれぐらいで芽を出すのか思い出そうとしてみたが、記憶は定かではなかった。なにしろ朝顔を育てるなんて久しぶりなのだ。
「明日出るかな。それともあさってかな?」
「そんなにすぐは育たないさ」
 いくら詳しくなくてもそれぐらいはわかる。苦笑いとともにそう言うと、ふうん……とリラは残念そうに口を尖らせた。
(ああ、そうだった)
 羽月にとっては当然の常識でも、リラにとってはそうでないことは数多い。乾燥した地帯で育った彼女にとっては、植物を育てるという経験そのものがほぼ皆無に等しいのだろう。羽月はしばらくリラの横顔を眺めていたが、やがて立ち上がると縁側から家の中に上がり、筆と硯を持ってすぐに戻ってきた。
「なあに?」
「目印をつけておこう。埋めた場所を忘れないように」
 そうすれば、いつ芽が出てもすぐにわかるだろう? 羽月の言葉に、リラが嬉しそうに顔を輝かせた。
「それじゃあ、羽月さん。朝顔さんに名前をつけない?」
「名前? どんな?」
「ええとね」
 少しの間考え込む様子を見せて、リラはぱっと顔を上げる。
「『瑠璃子さん』!」
 こうして家の花壇の前に、墨と筆で『瑠璃子』と書かれた小さな板が立てられた。



 暇を見つけては、まだ芽の出ない朝顔を見に行くのがリラの日課になった。
 まず朝起き出しては、朝食の支度の前に花壇の前へ。朝ごはんを片付けてひととおりの洗濯を終え、干すための洗濯物を抱えながら横目で縁側の前をちらり。お昼を食べ終えると濡れ縁から庭に降りて、『瑠璃子』という札の前に屈みこんで過ごすこと長時間。そうして日が傾いた頃に洗濯物を取り込んで、夕日で金色に染まる縁側から花壇を眺めつつそれをたたむ。
 そんなに一日に何度も見たって変わらないよ、と諌めたのだが、
「瑠璃子さんの芽が出るのを、一番に見つけたいの」
 そう返すリラの顔は実に真剣である。
 リラほどではないものの、羽月のほうも時々朝顔を気にかけていたのだが、三日経ち、一週間経っても芽が出ないとさすがに心配になってくる。何か自分たちの植え方がまずかったのだろうか。
 ある暑い日所用から帰ってくると、例によってリラが真剣なまなざしで花壇を見つめていた。
「まだ芽が出ていないのか……」
 汗を拭きながら、リラの隣に立つ。足元の土には何の変化も見られなかった。種を植えた目印として立てた『瑠璃子』の札の文字は、すでにかすれて消えかけている。
 朝顔というのは芽が出るまでこんなにかかっただろうか。乏しい知識の中で思い出そうとしても、記憶はまるで定かではない。種はそれほど深くは埋めなかったはずだし、水やりは今の朝夕二回で多すぎも少なすぎもしないと思う。
「何がまずいのか、あの花屋に行って聞いてみるか?」
 尋ねると、リラは首を振った。
「心配はいらないと思うの。瑠璃子さんは強いから」
 瑠璃子さんはちゃんと、この下で頑張って芽を伸ばしてるのよ。
 リラの言葉には微塵の疑いも含まれておらず、羽月は肩をすくめる。信じられるものなら信じたい。けれどもし、朝顔の芽がこの先ずっと出てこなかったら、彼女はどれほど落胆するだろう。それが羽月には気がかりだった。
 頬を撫でる風が生ぬるいのに気づいて見上げれば、西のほうの空から暗い色の雲が流れてくるのが見える。
「リラさん、中に入ろう。夕立が来る」

 見る見るうちに空が暗くなり、ぱらぱらと先駆けの音が聞こえてきたかと思うと、あっというまに本降りになった。
 屋根をひっきりなしに打ち続ける雨音がうるさいぐらいだ。家の中が濡れてしまうので雨戸を閉めていると、外に遊びに出ていたらしい猫の茶虎があわてて駆け込んできた。泥足で廊下を歩き回られる前に、リラがあわてて拭くものを取りに行く。ようやく雨戸を全部閉め終えると、遠くから雷が聞こえてきた。
「土砂降りだな……」
 まるで天の水瓶をひっくり返したような、強い雨足だった。雷は今のところ遠いようだが、いつ近づかないとも限らない。あまり長く降り続いて、朝顔の種が水に流されなければいいが……と羽月は思う。
 雨は依然屋根を庭を、花壇を叩き続けている。
(瑠璃子さんは強いから)
 本当にそうであればいい。信じられるものなら信じたい。
 彼女が裏切られるのを見るのはつらい。
 彼女を喜ばせたいと思って呼び込んだ種子を、永遠に芽吹かせないまま眠らせておくのはつらい。それを眺める小さな背中に、自分はいったいどんな言葉をかければいいのか。
「リラさん」
 呼びかけると、なあに? とやわらかい声が返ってくる。
「瑠璃子さんは、大丈夫だろうか」
「だいじょうぶ」
 安心させるように、小さな手が羽月の手を取った。

 耳がおかしくなるかと思われたほど激しかった雨は、やってきたときと同様止むときも唐突だった。
 縁側の雨戸を一枚だけ開けて庭に降りた。雨が降っていたのはほんの十数分ほどだったが、庭はすっかり水びたしだ。あちこちにできた水たまりをよけながら歩く。花壇を見やると、ちらちらと咲いていた露草が軒並みなぎ倒されていた。起こしてやろうとかがみこむと、羽月はふと顔をほころばせた。
 リラが少し遅れて庭に降りてくる。
「リラさん。ほら」
 雨で倒れた木の札のすぐ横から、ちらりと確かに顔を出している、小指の爪ほどの小さな萌芽。
 私が一番に見つけたかったのにとリラはむくれてしまい、機嫌を直してもらうのにはしばらくかかった。
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宮本圭 クリエイターズルームへ
聖獣界ソーン
2005年06月22日

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