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『水無月 』
瀬崎・耀司4487


 男の脳裏に、ふと浮かんだのだ。
 “下人が雨やみを待っていた”といった一節が。
 しかし男は平成の世を生きる学者であって、羅生門の下で立ちつくす下人ではなかったし、雨がやむのを待っているわけでもなかった。ただ唐突に、おかしなことに、彼の脳裏をくだんの有名な冒頭がよぎったのである。
 下人は、雨がやんでも、それからどうするかを考えていなかった。男と下人の共通点は、ここにようやく見つかった。しのつく雨がようやくやんだところで、瀬崎耀司という男は、べつに喜ぶつもりもなかったのである。
 それに、彼は雨を、さほど憎んでいるわけでもない。
 日本列島の大部分が、梅雨前線につつまれている季節だった。夏の到来は近い。暑さだけが先走り、雨の中にあっても東京は蒸していた。そのいやらしい暑さも、日が沈んだいまではいくばくか、なりを潜めている。まだ夏は先なのだ。
 ――夏が始まれば、この国を出ようか。<王家の谷>で、新しい動きがあったと聞く。あすこも夏だが。……夏は、人間に、どこまでもつきまとうものだ。
 彼は夏を、それでも、憎んではいない。彼が憎むものは――

「ふむ……」
 しゃん、しゃん、しゃん、しゃん、と音がある。涼やかだが忌々しい音は、湿った通りの向こうから近づいてくるらしい。
「時間通りだ……」
 雨に流れた耀司の囁きからややあって、ひとりの尼僧が、雨をくぐってやってきた。真鍮の錫杖を手にした彼女は、年の頃もわからないほどに謎めいている。紫陽花色の頭巾の中から、月のように白い顔をさらけ出している。雨の中にありながら、彼女は濡れていなかった。
 しかし不可思議であることにかけては、番傘をさす耀司も負けてはいない。彼もまた、年齢不詳の顔だちであった。そのうえ、左右でちがう色の瞳を持っている。
「瀬崎、耀司さまでいらっしゃいますね」
「はい」
 涼やかで美しい声に、低く強い声が応えた。
「嗚呼」
 尼は哀しげに目を伏せ、錫杖を持つ手に力をこめた。
「瀬崎の血とあやまちとは、つづいているのですね」
「……あやまちとは?」
「貴方は、お気づきのはず」
「……さて、皆目見当がつきませんな」
 ふうっ、と耀司は目を細め、口の端を笑みのかたちに吊り上げた。紫陽花色の尼が、何を言わんとしているかは心得ている。だが耀司は、それをあやまちだとは思っていなかった。

 蛇だ。尼は蛇について語っている。

 耀司が克服し、手なずけた、『死』について語っている。

 耀司は、瀬崎家に架せられた呪いを継いで生まれた。
 彼は生まれ持った力を用いてその呪いを退けたばかりか、己の力と変えたのである。

「……では、貴女は、生きることがあやまちだと仰るのですか」
「貴女に憑く神とやらは邪であり、魔です。悪に力を借りるなど――」
「……ではやはり、貴女は、僕に死ねと仰るのですな」
 尼がそこで黙りこむのは、想像がついていた。
 ……嗚呼、この術者もまた、耀司の思惑の裏をかくことは出来なかったのである。
「僕は神と戦い、神の力を得る道を選ばねば、生きることさえ許されなかったのです。その僕に、神と戦うべきではなかったと仰るのですか」
「――その、蛇は! 瀬崎のうちにとどめおくのが、さだめというものにございます!」
 長雨の中に、番傘が舞う。錫杖をふるった尼の背後に、蛇を負う耀司はあらわれて、笑みを孕んだ囁きを放った。
「貴女は、何を恐れているのです」


 さあさあと雨がしのつく街角に、紫陽花の尼僧は立っていた。手には錫杖と鉢、頭にはそのとき頭巾ではなく笠があった。雨の中、彼女は全く身じろぎもせずに立ち尽くし、心中で経をとなえていた。修練を積み、世を学ぶ彼女の鉢にには、主に老人が有り難がって小銭を入れた。
さあさあという雨音に、ちゃりんちゃりんと俗世の音が溶けていく。尼は音のたびに、ゆっくりと、深々と、頭を下げた。小柄な老婆が尼に手を合わせてむにゃむにゃと南無阿弥陀仏を唱えて立ち去り、そのあとに――彼が、やってきた。
 この平成の世に、番傘をさして。
 彼は何も言わず、念仏を唱えることもなく、ほんの気まぐれで鉢の中に34円を放りこんだのである。そのときたまたま懐の中で騒いでいた小銭が、すこしうっとうしかったのだ。
 頭を下げた尼は、顔を上げたとき、はっと息を呑んだのである。
 その番傘の男こそ、蛇をまとう瀬崎耀司であった。禍々しい赤と黒の瞳は、冷めた氷のように俗世を見すえていた。まるでこの世の悪や善をすべて理解し、たいらげてしまっているかのように。
 退魔師としての修行を積んでもいる尼僧は、日本に棲みつく邪や魔に敏感だったし、数々の伝承を知ってもいた。瀬崎という一族が、蛇に憑かれているということも知っていた。瀬崎は生まれると同時に蛇に魂を喰われ、ひどく短命に終わるという。しかし、その、現在の『瀬崎』が――赤と黒の目を持って、38になっても生き長らえているという。
 美しい紫陽花色の尼僧は、その目を真っ向から見つめてしまったのだった。

 そのわずか2日後に、耀司は紫陽花色の尼僧から、呼び出しを受けたのだ。
 だからこうして、夜の雨の中を、待っていたのだある。


「わたくしは――拙僧は。……瀬崎さま、貴方という邪を、この世から祓い落とすことだけを思っております」
 答えをしぼり出した尼僧の背後から、氷の声が投げつけられた。
「嘘を――つくな」

 雨の中、尼僧は振り返る。雨粒が飛び散り、濡れ髪の、冷めた目の耀司が立っていた。耀司はいとも容易く、尼僧の右腕を掴んだ。
「おまえは魅入られたのだろう」
 尼僧の手から、錫杖がはなれた。
「瀬崎耀司という男とともに在りたいと願ったのだろう」
 ぱし、と錫杖が水たまりに落ちる。
「瀬崎耀司とひとつになりたいと考えたのだろう」
 蛇の男は、笑いもしなかった。
「成る程、僧の悟りの道を妨げるとは、確かに『魔』であるのかもしれない」

「だがその魔は、おまえにとっての魔」

「世の魔であると言い切れるか」

「言い切るか」

「おまえの魔を断つことは、果たして、善か」

 紫陽花の尼僧は、声を上げることも出来なかった。瀬崎耀司の背後に、ぶぅわ、と現れた黒い影を見上げてしまったのだ――雨の中で濡れながら輝く、赤と黒の目を覗きこんでしまったのだ。
「望みを叶えてやろう――紫陽花の君よ」
 耀司はようやく微笑し、尼僧を抱き寄せた。きゅう、と両腕にこもるその力に、尼僧はやはり声も立てず、ふるふると身体を震わせた。彼女が見つめつづけるものは、雨の闇に過ぎない。その闇の中で、蛇が、大きく口を開いた。
 あとに残されたのは、紫陽花色の頭巾と、錫杖だけであった。

 雨はやむ気配を見せない。瀬崎耀司は、影を引きずり、番傘を拾い上げた。
 見れば名も知らぬ店の軒先で、紫陽花が重たげに花を咲かせている。雨の夜の中にあるというのに、紫陽花はぼんやりと光を放っているようでもあった。耀司はしばらくその薄紫の色にみとれた。紫と化した紫陽花は近いうちに終わる。紫陽花が死ねば、きっと夏がやってくるのだろう。
 ――ならばこの紫も喰って、瀬崎耀司にしてしまおうか。
 けれども彼は、番傘をさし、頭巾を踏みつけて、その場を後にしたのである。
 紫陽花には毒がある、という豆知識を思いだしたのだ。

 ふたりの行方は、誰も知らない。




<了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
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東京怪談
2005年06月20日

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