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『ライラックの情景 』
リラ・サファト1879)&藤野 羽月(1989)

 その日は朝から爽やかな風が吹いていた。
 空は高く澄みわたり、囁きあうように木々がそよいでいる。
 さえずる小鳥の声に目を覚ましたリラは、いつもと変わらない、穏やかな一日に感謝する。
 視線を動かすと、漆黒の髪が目に入った。
 傍らに眠る羽月の寝顔があまりに無防備で、思わず微笑みがこぼれる。

 目が覚めたら、彼の寝顔が一番に目に入る。
 声をかけて、おはようの挨拶をして。
 どうということのない、ありふれた日常の情景。
 髪を乱す風。
 静かな足音。
 飼い猫の鳴く声。
 そのひとつひとつ、全てが愛しい。
 毎日が違う世界のように、リラの眼には新鮮に映る。
――どんなささいな出来事も、忘れずにずっと覚えていたい。
 大切で、かけがえのない一日が、今日もリラのもとを訪れる。



 朝食をすませ、飼い猫と一緒に縁側で羽を伸ばしていた時だ。
「羽月君。私、少し外へ行ってきます」
 そういって、小柄な少女が庭から顔をのぞかせた。
 台所で食器を片づけているとばかり思っていた羽月は、突然視界に現れた妻――リラ・サファトの姿に眼を見開いた。
 腰まで届くライラックの髪が、その華奢な身体にふんわりとからみついている。
 それは陽光に透け、紫とも桃色ともとれる不思議な色を見せていた。
 よくよく見ると、彼女は出かける支度をしている。
「どこへ行くんだ?」
 問いかける夫――藤野羽月の声に、まだ幼さの残る妻はいたずらっぽく微笑んだ。
「ないしょ、です」
 右手の人差し指をそっと口元に寄せ「帰ってきたら言いますね」と続ける。
 羽月はそのあどけないしぐさに顔をほころばせると、それ以上の詮索をやめた。
 一見儚く、線の細い印象を受けるリラだが、その芯の強さは誰よりも良く知っている。
 彼女がそうと決めたからには、羽月がなんと言おうと帰るまで教えてはくれないのだろう。
 そして羽月は、彼女の言葉がいつでも、誰に対しても誠実であることを知っている。
 ひとりで送り出すことは不安だったが、あまり心配をして、彼女を縛りつけることは良くない。
「気をつけて。リラさ――」
 さん、と続けそうになって、慌てて言い直す。
「気をつけて、リラ」
 慣れない呼びかけに、どうしても声が小さくなる。
 けれどその声は、きちんとリラに届いたようだ。
 嬉しそうに身をひるがえし、羽月を振り返る。
「できるだけ早く、帰りますね」
 羽月は玄関先までついていくと、リラの背中が見えなくなるまで見送った。
 うまく彼女の名前を呼ぶことのできない気恥ずかしさを抱えながら、ふと、気づく。
 今日一日をどうやって過ごそう。
 出かける時はたいていリラと一緒か、リラが家に残っていることが多い。
 普段あまり一人で家に留まることのない羽月は、目の前に置かれた時間の使い道を思いつくことができなかった。
 だがぼんやりと無為に過ごしていても仕方がない。
 羽月は家へ戻ると、ぐるりと部屋を見渡した。



 役割分担を決めているわけではないのだが、普段の家事はリラが担当することが多い。
 掃除、洗濯、料理。
 彼女は誰に言われるでもなく、仕事をみつけてはそつなくこなしていた。
 それはあまりにも自然に、羽月の生活の中に溶け込んでいる。
 何でもないありふれた情景。
 その中に、彼女はひそやかな幸せを見いだしているようだった。

 羽月は庭いっぱいに干された洗濯物を見上げていた。
 彼は家中の洗い物を干していたのだ。
 はたはたと風にそよぐそれらは、一見すると爽やかな景色に映る。
 だが、晴天の陽光は容赦なく彼を照らしていた。
 たすき掛けをした袖で、額ににじんだ汗を拭う。
「これを毎日やっているのか……」
 夕方には、また乾いた洗い物を取り込んで、畳まなくてはならない。
 体力を使う仕事だ。根気もいる。
 リラは毎日それをこなしていたはずなのに、その様子があまりにも自然で、彼女がこんな大変な思いをしているようには感じられなかった。
 けれど、一人でやって、初めてわかる。
 水を吸った衣類は重さを増し、持ち歩く際腕に負担がかかる。
 それらを干すために、かがんだり腕を伸ばしたり、体力も使う。
 洗っては干し、乾かしては畳む。
 リラはどんな家事も、微笑みを絶やさずこなしていた。
 そうすることが、幸せだとでもいうように。
「……たいへんな仕事だ……」
 羽月は家に戻ると、次の作業を探した。
 できることはまだまだあるはずだ。
 リラが戻るまでに、ひとつでも多くの仕事をこなそう。
 羽月はそう思い立つと、たすきを締め直して家の掃除に取りかかった。

 洗濯、掃除、庭の手入れ。
 全ての仕事が終わるころには、太陽は中天に昇っていた。
 慣れないせいもあって随分と時間を使ったし、何より気を使った。
 羽月は簡単に昼食をすませると、掃除の間中、彼の足下を駆け回っていた飼い猫とともに、縁側近くで横になって休むことにした。
 庭からは草の香りが流れてくる。
 風は草木を揺らし、葉の擦れ合う音が心地良く耳に響く。
 丸まった飼い猫の背を撫で、自身も目を閉じた。
 次に目を開けた時、いつもと同じように、あの笑顔が目の前にあると良い――。
 そう思いながら、羽月はまどろみの中へ意識を委ねた。



 ひんやりとした空気が髪を撫でた。
 続いて頬に冷たい感覚。
 眼を開けると、庭じゅうに雨が降り注いでいた。
 周囲の音や色彩を吸い込むように、霞がかった景色が広がっている。
 季節がら降る、じっとりと重たい雨。
 時刻を確認するも、寝入ってからそれほど時間が経っているわけではない。
「あれほど晴れていたというのに……」
 薄曇りの空を見あげ、呟く。
 そこで、羽月はリラがまだ帰っていないことに気づいた。
 そう。リラは傘を持っていない。
 羽月は跳ね起きると、飼い猫に留守を任せ、傘を持って飛び出した。

 家を後にして気づいたのだが、羽月はリラの行き先を知らなかった。
 だが出かけた時の格好から、遠出をする可能性は低い。
 街へ出て、用事を済ませて。
 そうして早めに帰ってこよう。
 たぶん、リラはそう考えていたはずだ。
 羽月は傘をささずに走り続けた。
 雨が降っていることももちろんだが、それ以上に羽月はリラを心配していた。
 いくら彼女がきちんと戻ると約束しても、リラにとって、目に映るすべてが珍しいものばかりだ。
 何かに興味を惹かれて、知っている道をそれてしまうことがあるかもしれない。
 本当はもう用事が済んでいて、どこかで道に迷っているのかもしれない。
 あるいは――。
 雨が体温を奪うほどに、羽月は言い知れない不安に襲われた。
 いつもある姿が、そこにない。
 それだけで、こんなにも重い気持ちが広がっていく。
「リラ……。リラ……!」
 呼びかけながら、彼女が行く場所はどこだろうと考える。
 彼女はきっと、雨が降っても濡れることを気にかけたりはしない。
 雨に濡れた世界さえも、彼女の目には美しく映る。

 すべった草履に足を取られ、転びそうになった。
 羽月は足を止め、顔を伝う雨を拭う。
 そこはちょっとした庭園のような場所だった。
 頃良く咲き始めていたのだろう。
 紫陽花の花の前に、ライラックの髪の少女が、佇んでいた。
「……リラ!」
 羽月は声をあげると、少女の元へ駆け寄っていた。



「羽月君」
 リラは驚いたように顔を上げた。
 羽月の姿を認め、にっこりと微笑む。
 リラは案の定傘を持っていなかったらしく、髪も服も雨に濡れてしまっている。
 けれど彼女はそんなことは気にならないらしい。
「紫陽花を見ていたんです」
 と、眼前の花壇に視線を移してほころんだ。
「風邪をひく」
 羽月が傘を開き、差し出す。
 リラはそれを見やると、「ありがとう」と微笑んだ。
 いつもと変わらない笑顔に安堵する。
 その一方で、何か拭くものも持ってくるべきだったと思うが、今更あとの祭だ。
「寒くはないか」
 声をかけ、ライラックの髪についた水滴を払う。
 リラは小さく頷くと、大丈夫、と答えた。
「羽月君の方がたくさん濡れているみたい」
 言われて自分の姿を見やる。
 確かに、髪は水を被ったように濡れているし、服も水を吸ってずっしりと重たい。
 雨の中を駆け回っていたこともあって、余計に濡れてしまったらしい。
「私のことは良い。それより、用事は済んだのか?」
 問うと、彼女は「はい」と頷いた。
「庭に植える花の種を分けて下さるという方がいたので、その方に会いに行っていたんです」
 本当は種をもらってすぐ帰るつもりだったのだが、帰りの道すがら、この花壇を見つけてすっかり魅入ってしまっていたらしい。
「雨に濡れて、とても綺麗だったから……」
 リラはそう言うと、羽月の手を取った。
「心配をかけてごめんなさい」
 羽月の表情を見て取ったのだろう。
 リラがうかがうように羽月を見上げた。
「……いや。問題ない」
 首を横に振り。微笑む。
 いつもある姿が、ここにある。
 羽月の不安は、それだけで消し飛んでしまっている。
「色々な種をいただいたんです。家に帰ったら、二人で一緒に植えましょう」
 微笑み返すリラと共に、羽月はその場を後にした。



 帰宅後、リラはびしょ濡れの洗濯物を見て羽月に抱きついた。
 洗濯物を取り込むことさえ忘れて、そのまま家を飛び出してきた羽月の気持ちが嬉しかったらしい。
 結局二人で洗濯物を取り込んで、もう一度洗い直して部屋の中で乾かすことにする。
 洗濯物に占拠された部屋を見上げ、顔を見合わせて笑い合う。
 とりとめのない、日常の風景。
 たいせつなひとがいるだけで、それはずっと鮮明に記憶に残る。

 どうということのない、ありふれた情景。
 薄曇りの空。
 雨の降る音。
 遠く呼ぶ声。 
 そのひとつひとつ、全てが愛しい。
 毎日が違う世界のように、リラの眼には新鮮に映る。
――どんなささいな出来事も、忘れずにずっと覚えていたい。
 大切で、かけがえのない一日を、今日もリラは抱きしめる。



Fin.

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聖獣界ソーン
2005年06月20日

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