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『閉塞世界の雨は遙けく 』
丘星・斗子2726)&東雲・飛鳥(2736)

 遙か遠くの蒼穹がすっかりとその色を失い、クロォムの雲が昏く、天と地を分けるカァテンのように下がっていた。
 さらさらと、霧雨のふる六月である。
 その中を傘も差さず、丘星斗子はひとり、寺へ向かう石畳を歩いていた。霧雨がしっとりと重く服に纏わり付き、黒衣がその重さを増す。薄着だったが寒くは無い、あたたかな雨だった。この空のように冷たく重い斗子のこころを、やさしく撫でるような。
 今日は、両親の月命日であった。未だ斗子のなかにわだかまり続けている、幾年過ぎようと忘れ得ぬ、大切なひとを亡くしたいたみ。それに突き動かされるように、斗子は今日も両親の墓参りをする。……自らを慰めようとしているのではない。風化してしまうのを、恐れているわけでもない。飛び疲れた小鳥が梢に止まるようなごく自然な気持ちで、父と母の元へ帰りたがっているのであろう。一歩一歩と進める足を雨が包み込み、斗子をゆるりと迎え入れた。
「……斗子さん?」
 ふと、声がした。
 もう聞きなれてしまった、高くも無く低くも無いおだやかな声。振り向かずとも誰かは解ったけれど、太陽を追う向日葵のように斗子はゆっくりと振り向いた。
「東雲さん、」
 呼びかけると、紺色の傘を差した青年がにこりと笑いかけた。そして、はた、と目を見開く。菜の花色の長い髪をさらりと靡かせ、器用に処々の水溜りを避けてこちらへ駆け寄ってきた。
「風邪を引きますよ。……傘も差さないで、」
 すこし困った顔をしながら、差していた傘を斗子のほうへ傾けた。斗子は東雲を見上げる。頬にかかる金の髪が影を落とし、このうす暗い曇り陽の元でも縹色の瞳は猶うつくしい。うつく、しい―――――そう思い始めたのは、何時からだっただろうか。そして、この瞳を覗き込んだ自分のこころに、底が見えぬほどのふかい安心が浮かぶのは。
「……あたたかい雨、でしたから。」
「そう云う問題じゃあ無いでしょうに。」
 云って、東雲は笑う。この雨のようにおだやかな微笑。
 それをみて斗子は瞬きよりもすこしだけ長い間、目を閉じた。この貌を、この空気を、彼がつくる世界の悉くを、意識の奥にとどめておきたいと思ったからだ。
 自分のこころの奥が、自分のものでないように、高鳴る。
 ―――――あぁ、
 これは私のつくるべき世界ではないのだ、と斗子は思った。私の世界には誰も居ない。誰も、居なかった。もう触れることの叶わぬ、父と母のやさしい笑みしか存在し得なかった世界に、けれど今、彼の世界がふかく根付こうとしている。
 それが、怖い。
 知らず知らずのうちに築いてきたもの、毎日黒衣で身を包み、黒衣でこころを包み、内側だけに開いた窓ですべてを見ていた斗子の意識が。

 彼のことばひとつ、
『すてきな本を読まれますね?』
 微笑みひとつ、
『今日は貴女の好きそうな本が入ったんですよ、』
 仕草ひとつ、
『あぁ、ほら、こんな処に枯葉が付いて―――――』
 それだけで、容易くほろほろと崩れてゆく。

 それが―――――怖い。

 斗子は東雲に見えぬよう、手のひらを握り締めた。整えた爪がゆるく膚を刺す。
 この痛みで目が醒めれば良いと、希みながら。

+        +        +        +

「今日は如何したんです、」
 斗子を見付けて傘をさしてやったは良いが、彼女が喋らない所為で(何時もことば少なではあるが)東雲はすこしばかり考え込んでしまった。けれど気の聞いたことばは浮かばず、結局差し障りの無さそうな問いかけに落ち着く。
「え?」
「こんな場所で。住職さんにでも用が?」
 ここから先は寺へ向かうしか無い路だ。斗子のように日本文化を愛好する者なら寺に赴く用も在るかも知れないが、それにしても若い女性がゆく場所では無い。そう思って東雲は訊ねたが、斗子はすこし答えあぐねるような貌をした。
「……墓参り、です。」
 雨が、わずかに強くなる。
「…………。」
 何時もと変わらぬ無表情で斗子は云ったが、彼女の瞳の奥深くにある感情を湛えた湖には、哀しみの紺碧が広がっている。永くを生きた自分にしか解らないであろう、極々ちいさなものだけれど。
「そう、ですか。じゃあ私は、失礼しますけれど……これを。傘、差さないと―――――風邪引きますから。」
 既に濡れてしまっている斗子に、傘を差し出す。けれど彼女はゆっくりと首を振って、どうぞ、と云う。
「構いません。宜しければ、ご一緒に。」
「……いえ、そんな。私が行って良い場所じゃあ無い、」
 我ながら、狼狽が滲んだ声である。それに斗子は何も返さず、つと足先を墓所へ向けて歩き出した。折りしも雨は強さを増し、彼女の黒衣をいっそう重く濡らしてゆく。彼女が、行ってしまう。そうして去ろうとする彼女を、捕まえること。それが、とても

 ―――――とても?
      とても、何だ。
      何か、堪え切れない、衝動。

(鬼の、血―――――)
 斗子を見る自分の瞳には、何が宿って見えるのだろう。……獣のように醜く穢い、捕食者としての獰猛なひかりか。いや、それとも。それとも、
「―――――ッ、」
 如何しようも無く、東雲は斗子の後を追いかけた。自分のそれより低く小さな頭に、手を伸ばして傘を差す。そうすると彼女は振り向き、かすかに微笑だけを零した。
 彼女は何時も、多くは語らぬ。だがその瞳で以ってたくさんの感情をあらわすことを、東雲は知っている。年相応な、奥深く目まぐるしく、女性らしい華やかな感情を持っていることを、知っている。それを―――――いとおしいと、そう思うこころを、東雲は既に自らの裡に見出してしまっていた。
 なにもかも灰色に塗り潰された世界で、だけれど斗子だけは孤高のように可憐のように、そして虚構のようにうつくしく眼にうつる。日常から彼女が欠けることを、思うだけでも堪えられぬ。
 けれど、だからこそ。うつくしく崇高な魂を求め続けている、東雲のなかの鬼は云うのだ。

 喰え、と。

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 東雲の差してくれた傘から幽かなあたたかさを感じる。背を向けているからと斗子は俯いて、気付かれないくらいに小さなため息をついた。……何故彼を墓参りへ誘ったのだろう。父と母が眠る場所へ他人を連れてゆくなど、有り得ないことだ。これまで誰にも、こころの裡をここまで開いたことは無かったのに。
 斗子は顔を上げた。小路の先に、両親の眠る黒御影の墓石が佇んでいる。常ならば黒衣を纏い、ひとりきりで訪れていた場所。スカァトの裾を払い、石段をひとつ、ふたつと登る。ふわりと石の匂いがした。東雲は若干躊躇している様子だったが、斗子の後について石段を登ってきた。石段を靴が踏む音。斗子以外の人間が、父と母の眠るこの場所へ訪れる、音。
 雨は、先刻より強くなったようだ。透明な膜のように音も無くあたりを包み、東雲と斗子とを世界から切り離す。雨のふる音すらも静かで、まるでここが何処からも繋がっていない、ただひとつ、世界から孤立している場所のように思えた。
「……斗子さん、」
「父と母、です。私がまだちいさい頃に、事故で、」
 彼になら、と。
 そう思える斗子のこころに浮かんでいるのは、安堵か、戸惑いか。
「けれど、憶えています。忘れない。……とても立派な、両親でした。」
 云った声は、震えては居なかったろうか。斗子はゆっくりと瞬きをしてから、振り返った。東雲と眼が合う。彼の瞳の縹色が、雨に遮られて淡くぼやけた。
「こんな事を話すのは……初めてですね、東雲さん。」
 東雲は肯いて、微笑む。
「えぇ。大事な、話です。……私が聞いても?」
 はい、と斗子も肯く。貴方に。貴方に聞いて、欲しいのです―――――
「私のこの服は……、黒い服ばかりを選ぶのは、未だ両親の喪に服しているからです。父と母のことを、ずっと忘れないように。こころに―――――留めて置きたいのです。」
 引き摺っているのではなく、忘れないために。時間は短くとも、斗子を精一杯愛してくれた二人が居たことを、ずっとこころに刻んでおきたいのだ。
 東雲は何も云わず、ただ斗子の眼を見つめる。雨の隙間に吹いた風がほそい金糸を揺らした。
 その眼を見て、斗子のこころにゆったりと、確かに浮かぶものがあった。

 ―――――なにも解らなくとも意識の奥、東雲を見る自分の想いだけは確か。
 いまの斗子には、迷うことすら、戸惑うことすら、
 哀しみすらも甘美だと、そう思えた。

+        +        +        +

 ふと吹いた風が斗子の黒衣を、やわり、はためかせる。
 煽られ、さらりと散る髪の毛を押さえて立つ姿に、東雲は眼を細めた。
 常日頃身に纏っていた黒衣の意味。瞳の奥に揺湯っていた哀しみの理由。丘星斗子というひとを取り巻いていたものの一つひとつが、少しだけ解ったような気がした。そして、知れば知るほど彼女に惹かれてゆく、ことも―――――
 人と鬼、どちらがだろうか。解らない。けれど自分のなかの鬼が、鬼の血が、ふつり脈打ち始めるのを東雲は確かに感覚していた。人間として生きている東雲飛鳥は、丘星斗子という人間を愛したいと、そう思っている筈なのに。
 彼女を見つめ続けることが出来ず、東雲は眼を伏せた。
 斗子は聡明なひとだ。この自分の貌を、彼女に見せることはしたくない。……きっと醜い貌をしている。

 さらさら。

 音も無く、雨は降り続ける。外界から隔絶されたこの場所で、東雲は途方に暮れた。こころの底から恋うている相手が目の前にいると云うのに、何故―――――、何故ここまで、遠いのだろう。
 それが哀しくてなにかことばを探そうとするが、いまの自分の中にはとても穢いものしか無いような気がして、東雲は傘を握った手を更に強く握り締めた。いま何を言っても、何をしても、それは斗子には見せられない。けれどことばは、意思は、あとからあとから、東雲のこころを突き上げる。恋い慕うことばが、牡丹雪のように重くふり積もってゆく。けして外に出すことの叶わぬ、ことのはの切れ端。

「―――――東雲さん。」

 思い悩んだ時間は、果たして刹那のことだったろうか。随分長く黙っていた気がしたが、雲雀に似たその声で以って、斗子が東雲の名を呼んだ。昏い帳を破るひかりのような声に、東雲は思わず顔を上げてしまった。
「……唐突な話をして御免なさい。貴方に、聞いて欲しかったんです。行き成りこんな話をされて、ご迷惑でしたね。」
「そんなこと、」
 そんなこと有りません、と東雲は慌てて手を振った。慌て過ぎて傘を持つ手まで一緒に振ってしまったので、溜まっていた水滴が乾きかけていた斗子の黒衣に、ふたたび模様を描いた。
「わッ、」
 御免なさい済みません、とさらに慌て、東雲は自分のハンカチをあわあわと取り出して斗子のスカァトに付いた水滴を拭った。斗子はしばし呆気にとられていたが、やがて彼女には珍しく、声を上げてくすくすと笑い出した。
「東雲さん、東雲さんてば。」
「な、何ですか。済みません、うちできちんと乾かしますから、」
「良いんですよ、そんなの。今までだって濡れていたじゃ有りませんか。……東雲さん、慌てるひとね。ふふ、可笑しい、」
 斗子はまだハンカチを持ったままあたふたしている東雲の手を取り、笑う。白くやわらかな手。何時もは見られぬ笑みを湛えた目許ははなやかで、東雲はまた斗子を見つめてしまっていた。

 それに気付いたとき、きらりと、東雲の意識のなかの何かが煌いた気がした。
 いままで気付くことの無かった、光明。

 斗子は東雲の手を離すとくるりと踵を返し、雨をうけて光る黒御影の墓石に向き直った。横目でちら、と東雲を見遣る。
「さぁ、お参りをして帰りましょう。読みたい本が有るんです、探して頂けますか?」
「……あ、え、はい。勿論!」

 さらさら。

 音も無く振るあたたかい雨に、六月のひかりが沁みこんでゆく。
 長雨は止む気配を見せなかったけれど、ふたりが閉じこもっていた世界は手探りでその暗闇を抜けようとしていた。
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
青水リョウ クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年06月14日

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