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『anniversary 』
槻島・綾2226)&千住・瞳子(5242)

──── 大切な記念日を、あなたに 。

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 とある休日の朝早く、千住瞳子は、愛車で迎えに来てくれた槻島綾と共に南へ向かっていた。国道に乗り高層ビル居並ぶ湾岸部を走り抜け、昼前に到着した目的地はY市南東部、風光明媚と謳われている広大な日本庭園である。明治の豪商によって整備・開園されたというこの庭園は、元よりあった自然の山水をそのまま活かし、京都・鎌倉といった歴史ある都から古建築を移築・園内に配して、重要文化財を含むそれを一般公開していることで有名だった。
 正門から入ると、まず目に飛び込んできたのが芝の緑に大きな池。周りを彩るのは名残に盛るサツキの朱、水面に軌跡を残し泳いでいくのは鴨か何かの水鳥だろう。池の彼方にはこんもりとした小山があり、関東最古だという三重塔が頂上近くに聳えているのが見てとれた。背後がやや曇りがちなのは玉に瑕だが、車中の狭い視界に目を慣らしていた二人にとっては圧倒されるほどのその一望。暫し見惚れた後に顔を見合わせると。
「良い所ですね」
「そうですね」
 にこり、微笑む綾はどうやらここを気に入ってくれたらしい。本日のプランナーである瞳子はほっと胸を撫で下ろす。
 そう、今回の遠出には趣旨があるのだ。綾の誕生日祝いという、大事な大事な目的が。
 皐月も終わり、さて水無月を迎えた先週のこと。瞳子は綾より『そういえば僕、先月誕生日だったのですよね』という衝撃(?)の告白を受けた。如何な流れで辿り着いたのかは失念したが、兎も角も祝い損ねたことを瞳子は深く悔い、勢いこう宣言してしまったのだ。
『綾さん、お祝い、しましょう ──── いえ、させてください !』
 そんな訳でこちら、日頃はコンサートの情報集めくらいにしか使わないネットやら情報誌やらを駆使して買い込んで、瞳子は本日のために計画を練った。どこに行こうどうやって回ろう、何を食べて何をお祝いとしよう。必死に頭を捻ったのは何よりも綾を祝うため。彼に喜んで欲しいというその一念、なかなかどうして、瞳子にとっては大命題だったものだから。
 今日の第一印象の綾の笑顔に、安堵の吐息を漏らしたのも無理はない。
 そして、それほどに大切な日だったのだとは、改めて意識するまでもない。
 じゃあ、との掛け声で二人は池を時計回りに巡りだす。途中在った朱塗りの橋を渡り、池に突き出た東屋からまた山水の眺めを愉しむ。綾は一つ一つの景色をじっくり賞美しているらしく、何時にもまして歩調が緩やかだ。時折立ち止まっては四本の指でフレームなどを作り、瞳子さんここは素晴らしいですよと笑みを深める。そうですね、と応じる瞳子は傍らで彼と同じものを見、同じ様に感嘆の溜息を零し、しかしそれと同じ分だけ横を行く綾を見つめていた。
 彼と出逢ってからの数ヶ月。廿余りの人生の中では確かに短くも、歩む足取りの愛しさは何よりも重みをもつこの歳月を、今更ながら瞳子は甘く噛み締める。
 彼の存在と自分の心が響きあう音を、そこから生まれる心の色を、瞳子は既に認めていた。その名を明確な言葉で固定したことはないけれど、如何に名付けるべきかはもう、他ならぬ自身が薄々気付いてしまっているのだろう。彼の一挙手一投足が心に未知の花を咲かす。その花々は、瞳子が今まで持ち得なかった鮮やかな色彩を──正直に言ってしまえば美しいだけではなく悲しみや戸惑いの色もあるけれど、どれもが温かく切ない色をしていて、瞳子の心を絞り染めに染めていくのだ。
 そしてそういう色を、想いを、人は気付かぬ内に視線へ滲ませているに違いない。
「瞳子さん?」
 綾がこちらを見た。その、やや上方からの角度。瞳子は一瞬目を細め、しかし次の刹那にはありったけの微笑みを浮かべると。
「綾さん、この先に京都から移築されたお寺の本堂があるそうですよ。パンフレットの……ええと、ここに載ってます」
 指した小さな点を覗き込む彼の顔が、体温が近い。頬がひりりと痺れる様。
「三重塔と同じく廃寺から……へえ興味深いな、ええ、では早速」
「はい、行きましょう」
 歩き出すため離れた距離をほんの少し惜しみつつ、瞳子は、二人は再び道を行く。先導する爪先までもが喜んでいる幸福感にくすぐったくなる。
 ────と。その時不意に、瞳子は鼻先に冷たさを感じた。
「………え?」
 反射的に空を見上げて驚いた。何時の間にやら曇天の薄墨色が濃くなり、その上ぽつりぽつりと雫の落下まで視える。ま、まさか、とそれだけでも頬が引きつったというのに。
「ああ、やはり降ってきましたね」
 綾が事も無げに折り畳み傘を取り出したのを見て一気に青褪めた。
「……昨日の夕刊では、晴れだって」
「おや、今日の朝の天気予報では所により一時雨だと……」
 言いさす綾の語尾に被せるように「ゲコ」という鳴き声が聞こえた。思わず振り向いてしまった瞳子の足元には慈雨を喜ぶ緑色のナマモノがちょこんといて。
「@w:あおえspきゃおいえkwsjおあl;しああ!!!!」
 瞳子は日本語が崩壊するほどの絶叫を、情けなくも張り上げた。

「……本当に、すいません」
「いえいえ。ほら、折角のお茶が冷めてしまいますよ?」
 恐縮すること頻りの瞳子は、綾に薦められて漸く抹茶の碗に口をつける。ちらと上目で窺えば、向かいの彼は安心させるように微笑んでくれていて余計に申し訳なくなった。以前にもこんなことがあったような気もするが……いや止めておこう、あれもある意味良い思い出なのだが恥ずかしさの方が勝る。
 蛙に驚いて悲鳴をあげた瞳子を綾が落ち着かせ、とにかく雨宿りにと連れ立って来たのは畔の茶店だった。中は案外空いていて、瞳子たちの他には老夫婦や家族連れが数組居るだけだ。
「しかし困りましたね。僕も傘を一本しか持っていないし……」
 綾がうーんと唸る。そう、雨が降り出した現在それこそ目下の大問題。瞳子は益々もって身を小さく縮めた。
「ご、ごめんなさい、私がうっかりしてたばかりに」
「いえそんな。僕が待ち合わせよりも早く訪ねてしまいましたからね、こちらこそ」
 確かに、綾は今朝予定より十数分早めに千住家へ到着した。道路が空いてて、なんて笑った綾は責任を感じてくれているのかもしれないが、その、違うのだ。瞳子が今朝、最新の予報を確認する暇もなかったのは、ひとえに己が準備に手間取っていたせいなのだから。
 瞳子の今日の井出達は常とは少々趣を異にしていた。三日前、一番上の姉から若草色のバッグを借りた。一昨日、ファッション雑誌と睨めっこしながら新しいスカートを買った。昨夜、滅多に履かないパールホワイトのパンプスを磨いた。そして今朝は、それに見合うようにと必死に化粧を施していて。結果、他に何かをする余裕がなかったという顛末だ。
 ────しかし。瞳子は再び綾を見る。同じく抹茶を両手でいただいている彼は、果たして何も気付いていないのだろうか。それとも、気付いて何も言わないだけなのだろうか。別に気付いてほしくてやったことでも咎めているわけでもないのだが、何と言うのかその……フクザツ。
「それにしても、どうしましょうか。この後も園内を回る予定なのですよね?」
 碗を置いた綾が何時も通りに訊く。瞳子は深く考えることを放棄した。
「あ、はい。そうです。今私たちがいるのは外苑で、この奥に内苑というのがあって」
「ではやはり、傘は要りますね。……それか」
 綾が手にした一本の折り畳み傘をまじまじと見つめる。それから瞳子と見比べるように視線を配って──どういうことだろうと瞳子が疑問符を頭の上に浮かべた時。
「それじゃあお祖父さん、行きましょうか」
「ああ祖母さん、行こうかの」
 隣りのテーブルに座っていた老夫婦が仲睦まじく語らいながら腰を上げた。そろそろ七十は越そうかという老境の様だが、洒落た服装と雰囲気が二人をぐっと若く見せている。右手に傘を持つ老人は、左手の肘に老婦人の腕を絡ませると。
「久しぶりに相相傘かの、祖母さん」
「いやですわお祖父さん、”らぶ”と”らぶ”で”愛愛傘”ですよう」
「おう、こりゃあ一本取られたなあ。ははははは」
「ふふふふふ」
 呆気に取られる瞳子と綾の眼前で一つの傘に収まった老夫婦は、小雨の中を軽やかな足取りで歩いていった。暫し言葉をなくしていた二人だが、やがて双方盛大に視線を逸らせるや。
「あ、あの、やっぱり止むまで、ええ、僕の傘は一人用で小さいですし……ではなくて、いえその、待ちましょうか」
「は、はい、そうですね、入れてもらうのも……じゃなくて、私持ってませんから止むまで、はい、ここで」
 ────実はこの時、お互いに自分を「意気地なし!」と心中罵倒していたとか何とか。

 結局この雨宿りのおかげで予定外の時間を食ってしまった。
 当初の計画では昼過ぎにここを発ち、車でちょっと行ったところにある美味しい伊料理店で少し遅めのランチを頂く予定だったのだが……何てことだろう、園内の折り返し地点に着いた時点で既にランチタイムが終わっていた。計画は綻ぶしお腹は空くし、道がぬかるんでいるせいでパンプスの爪先が汚れているし履きなれていないせいで足が痛いし……全くもう、と瞳子はこっそり溜息をついた。
 まあ唯一の救いは綾が愉しんでくれていることなのだが……というか、何時の間にやら先導してくれているのだけれど。
「じゃあそろそろ車に戻って……そうですね、途中でお蕎麦屋さんを見つけたんですよ。そこに行きましょうか、走れば五分もかからない」
「……あの、綾さん」
「それにしても綺麗な庭園でしたね。ありがとうございます、瞳子さん。ところでお昼をいただいた後はどちらへ?」
「あ、はい。東京方面へ戻った所に小さな美術館があって、カフェも併設されているそうなので、そこへ」
「いいですね。では行きましょうか」
 前を行く綾の背についていく形の瞳子。確かに、いつも二人で出かける時はこういう役割分担だし、それを不満に思うこともない。何より綾の嬉しそうな顔を見れるのは瞳子として大変喜ばしい。
 だが、今日は”お祝い”なのだ。瞳子が綾を祝う、それが瞳子にとっては重要命題であるのに。これじゃあ、いつもと同じではないか。
 瞳子の思いを知ってか知らずか、昼食もその後も綾の仕切りで行程は進んだ。瞳子の出る幕などほとんどなくて、美術館へ向かう途中、赤信号で停止した所でついに、瞳子は膝の上で握り締めた拳が震えるのを止められなくなった。
「……綾さん」
「はい?」
 綾は上機嫌の声で返してくる。そのせいだったのだろうか、瞳子の中で何かがプチンと千切れる音がした。
「綾さん、もっと……任せてくれないんですか」
「え?」
「偶には私に、任せてくれても良いじゃないですかっ」
 プップー。瞳子が声を荒げると同時に後続車から警笛が鳴らされた。見れば何時の間にか信号はススメに変わっており、綾は慌ててアクセルを踏む。しかしすっかり頭に血が上ってしまった瞳子はそんなことお構いなしに、最早涙目となった双眸で助手席から運転席へと身を乗り出しての抗議を続けた。
「だって、だって今日は私が綾さんを祝う日で……でも私、傘を忘れるしお昼も何も言えなかったし、それで綾さんばっかり……!」
「と、瞳子さん、どうか落ち着いて! 何よりこの圧し掛かるような体勢はキミも僕も危ないっ」
「そりゃあ綾さんに比べたら私はまだまだ子供ですし、教えてもらうのも助けてもらうのも私ばかりで、思えば最初からそうで、今日も結局蛙見て悲鳴上げちゃうし綾さんきっと恥ずかしい子だって思ってるし……ってああもう私、何言ってるんだろ!」
 車が急に左折のウインカーを出した。突っ込んだ先はコンビニの駐車場。急停車した衝撃に、瞳子の体が些か乱暴に助手席へと引き戻される。────そして、ハンドルに突っ伏した綾の深くて長く濃い溜息。
「瞳子さん」
 綾が静かに言った。漸く理性を取り戻した瞳子は途端顔を真っ赤にし、「ごめんなさい!」と慌てて謝る。肩を竦めた上目遣い。窺っていたら、しかし、続いた言葉は予想とは違っていて。
「今日は僕の、お祝いなのですよね?」
 ぽん、と頭上に置かれた掌の温みに驚きを隠せない。頭を撫でられているのだと自覚すら出来ず瞬きを繰り返す瞳子に、綾はマシュマロみたいに柔らかく微笑みかけた。
「瞳子さん、僕のお願いを一つ、聞いて貰えませんか?」

 一緒にしてほしいことがある、と言う綾の”お願い”を瞳子が断れるはずもなく、車は美術館ではない何処かへ進路を取った。到着を告げられたのは、太陽が海に沈んでいく間際の時刻。降り立ったのは、先刻の庭園とは違う意味で開けたその場所。
「ここは……」
 瞳子は呆気に取られて呟く。
 頭上に広がるは暮れ間近天空。恨めしき雨の墨色は最早まばらで、朱・橙・紫・群青と変わっていく空のグラデーションが雲の切れ間から覗いている。そんな宵空を背負って、一際黒々と、そして堂々と浮かび上がる巨大な影が在った。大きくて硬質な、円形の建造物。やがて、その黒き円の中心から放射状の光が放たれだす。同心円に広がっていく緑の光、その様、まるで夜空に咲く花か火か。ぽかんと呆けている瞳子の横で、何時の間にか並び立っていた綾が「あれに」と指を────巨大な観覧車を指してこう言った。
「あれに、一緒に乗ってくれませんか? これが僕の”お願い”ですよ、瞳子さん?」
 悪戯っぽく片目を瞑った綾に、如何に鈍い瞳子と言えども一切合財総てを了解する。この誘いは他ならぬ自分を宥めるためだと、彼の優しくてわかり易い気遣いなのだと、瞳子は申し訳ないような有難いような、でもやはり子供扱いされるのは恥ずかしいような、そんな複雑な思いを抱きつつ。
「……じゃあ、今度は私が、綾さんを連れて行きますから」
「はい、お願いします」
 差し出された手に驚いたら、冗談ですよ、なんておどけて引っ込められる。瞳子は朱色の頬隠すように”くるり”踵を返すと、綾の二歩先をずんずんと歩き出した。────そして彼は、微笑いながらゆっくりついてくるのだから、もう。
「ああ、そうだ瞳子さん。朝からずっと言いそびれていたのですけれど、そういう服装も似合いますね、とても」
「……ありがとう、ございます」
 臨海部に建つアミューズメントパーク、そのシンボルともいえる大観覧車は次々に緑の花を咲かせていく。ほんの少し火照った瞳子の頬は、海原から直接吹き付けてくる風でさえ冷ましてくれなかった。

 ────……と、大変良い雰囲気で観覧車に乗ったまでは良かったのだ、が。

「お願いします綾さん何か喋り続けていてください気を紛らわしてっ」
「ええっ、そんなことを急に言われても……」
 瞳子は忘れていたのだ、自分が蛙同様高所が大の苦手だということに。この足の鉄板の下には何も無い、ごうんごうん唸る機械音は上昇の印、五感総てが瞳子の恐怖心を煽り、向かいの綾がすっかり困り果てているのもお構いなしに、顔面蒼白縦線入りとなった瞳子は一人身を硬く強張らせていた。だからどうしてこういうときにこういうことに、と思う余裕すら残念ながら、ない。
「ええと、ああそうだ、足元を見るから余計に怖いのですよ。ですから窓の外を、」
「無理ですっ! ああごめんなさい綾さん、もう私自分が情けなくって……!」
 膝の上で祈る形に組んだ両手を見つめたまま瞳子は顔を上げることすら侭ならない。
 そんな瞳子を綾は如何に見つめていたのか、暫しの後に突然。
「ほら、瞳子さん」
 些か強引な力強さで瞳子の手を取る。びくり、と肩を震わす様に顔を上げれば、彼は穏やかな表情で夜闇に染まる窓の向こうを促していて。
「高みから臨む景色は美しいものですよ? ね?」
 優しく語尾を押されては、振り払って顔を伏せることなど出来はしない。瞳子は恐る恐る窓の外、恐らく湾内を見下ろす視点で眼下を覗き込む。────そして、怖気とは違う意味で息を呑んだ。
「……綺麗」
 知らず零れ落ちた言葉はまこと本心からのものだった。漆黒の海面に観覧車のイルミネーションが映り込み、海か空かと紛うそこに咲いていくのは緑の華。黒の中でその蛍光色は一層きらめきを増し、また遠く彼方を眺めれば、地平線が闇の中に埋没して滑らかな黒だけが広がっている。
 光と闇と、動と静。人の作った綺羅が自然の厳かな静寂の中に何故か、とてもよく映えていて。
「怖くないでしょう?」
「……はい」
 景色と、綾を見ながら答える。愁眉を開いた瞳子に満足したのか、綾は更に笑みを深めて。
「ねえ瞳子さん、美しい景色にはそれだけで力があるのですよ。僕は様々な景色と出会い、色々な景色に心を奪われて、時には絶景に圧倒されて声さえ出なかったこともある。だからかな、旅行記を主に仕事にしているのは。僕が忘れられない光景を、他の誰かにも伝えたくて──いや、伝わらないにしても誰かに言いたくて」
 だから。饒舌に言葉を接いでいく綾の鼻先が、ほんの少しだけ距離を縮めた気がする。外には華の緑、目の前には綾の翠。くらり、と眩暈がしたのは何のせいか。けれど彼から、その一匙翠を孕んだ眼差しからは決して目を逸らさずに。握り締められた指先も、その骨の形すら感じられる触れ合いを、決して解こうとはせずに。
「だから、瞳子さん。キミが、僕のエッセイを好きだと言ってくれた時、僕が美しいと思ったものにキミが響いてくれた時、本当に嬉しかった。他ならぬキミと同じものを美しいと思えたことに、他ならぬキミが美しいと思ってくれたことにね、瞳子さん、僕は誰かに、感謝すらしたのですよ」
「そんな……そんな、私こそ、私が好きなものを書いたのが綾さんで、良かったって、あのうまく言えないんですけど、綾さんが、貴方が私の……私の」
「貴女の?」
「……私の、大事なっ……」
 ガタンッ。無粋な衝撃は突然襲ってきた。やおらゴンドラが止まり、二人は額を窓にしたたかぶつける。お互い殴打の痕を押さえているところに「緊急停止です。しばらくお待ちください」のアナウンス。いいところで、と思ってしまってから瞳子は自分で自分に驚いた。────ついでに、綾と自分との自己領域侵入済みの至近距離にも。
「あ………」
 握られたままの手に二人の視線と瞳子の体温が集中する。
「こ、これは失礼っ」
 ぱっと綾の手が離される。残されたのは、どうにも引っ込みの付かない瞳子の手。二人きりの二人の間に、実に、微妙に、何とも言えない空気が流れ出す。唇がむず痒くなる感じが場を取り繕う言葉さえ奪ってしまって、その無言がお互いの存在を痛覚として肌に意識させるほどになって。
 その気まずさはゴンドラが動き出してからも変わらず、結局そのあと二人は碌々言葉を交わすこともないまま地上へと降り立つ羽目に陥ってしまったのだった。

 パーク内のレストランで夕食を摂り、幾つかのアトラクションを通り過ぎて駐車場に戻れば「そろそろ」という時刻。車内にラジオが流れていたのは、ひとえに、観覧車より引き摺り続けている”空気”のため。普段の二人ならば会話に夢中で他の音など要らないのに、雑音に頼らざるを得なかったのはこの心地良い、わけではないけれど、重苦しい、ともちょっと違う沈黙のためだ。
 形容しがたいもどかしさを持て余し、瞳子は何とはなく窓の外を眺めていることしか出来ない。綾は何を思っているのだろうか、探ろうにもそちらを向くのが憚られて、結局道中二人の視線が交わることはなかった。

「着きましたよ」
 停止の僅かな振動、サイドブレーキのかかる音。自宅前の家の並びは静かなもので、故に車内のラジオが場違いな程喧しく聞こえて。
 綾が、スイッチを切る。瞳子は、まだ動こうとしない。
「今日は、ありがとうございました」
 綾が前を向いたまま言った。瞳子は逆に視線を落とし、自分の親指の爪を見ながら答える。
「いいえ、そんな。綾さんが喜んでくれたのなら、いいんです」
「楽しかったですよ。まあ雨に降られはしましたが、楽しい一日でした。また、一緒に何処か行きましょうね」
「はい。ええ、勿論。二人で、行きましょう」
「そうですね、二人で」
 と、不意に綾の影が瞳子を覆う。圧し掛かるように伸ばされた上半身に、瞳子は瞬時呼吸を止めた。だが、綾の指先は瞳子を素通りして、助手席扉のロックを外したのみ。
「おやすみなさい、瞳子さん」
 耳元で囁かれて、心臓が破れるかと思った。けれどその意味するところにはたと気付いて、違う意味で苦しくなった。
 今までだって何度もあった帰宅の場面だ。何もこれが今生の別れではないし、先刻次の約束を重ねたばかり。なのに、何故だろう。今日は殊更、別れが胸に満ち満ちてくる。もう少し、あと少し、と必死に話題を探そうとしている自分がいて、それが自身の”寂しさ”を生々しく浮き彫りにしていく様で。
「…………」
 綾の体は、まだ完全には運転席に戻っていない。少し手を伸ばせば肘に触れられる、少し首を傾げればその頬に唇すらを寄せられてしまうそんな距離。扉は開いている、しかし綾がすぐそこにいる。顔は見えない、いや見られない。呼吸が苦しい。綾さん、呼びかけることも出来ない。瞳子はどうしようもなくて、どうすればいいのかもわからなくて、どうしたいのか明確り言葉にしてしまうのを何処か恐れて(それでいてそうしたくもあって)(けれどそこに踏み出すことは怖くて)。
「……おやすみなさい、ありがとうございました」
 早口で告げると名残を振り捨て車外に出た。後ろ手に閉めて、なのに、そのままそこで足を止めた。どうして? だって、動きたくない。右手を握る、先刻彼の指先と絡んでいて手を。自分のより幾分か大きく、幾らか硬かったその皮膚。足が根を張った様に、凍ってしまった様に微動だにしない。喉元に競りあがってくるのは言葉なのか想いなのか、愛しさなのか悲しみなのか。
 わからない、わかっているけれど、わからない。瞳子はきつく目を閉じた。
 すると、もう一つの扉が開く音がした。
「…………」
 歩み寄ってくる革靴の足音に耳を澄ます。鼓動が徐々に走り出していく。背中に近付く存在。体中の細胞がその温みを思い出して緊張する。振り向くべきか、それとも振り払うべきか。考える、いや違う、考えるフリをしているだけ。後ろからあの手で手首を掴まれる。身体を反転させられる、振り向かされる、彼へ。彼へと。

「瞳子さん、僕は」

 そして包み込まれる。両腕で、苦しいほどに。

「あやさ、」

 言葉が途中で途切れたのは、紡ぎかけた唇に体温を受けたからだ。
 瞠目する、思考も動きも、何もかもが停止する。嘘、と思った。けれど嘘ではなかった。
 だってこんな、輪郭さえぼやけるほど近くに彼の、閉じた瞼が。それを縁取る睫が。
 温度を上げた頬に、彼の、鼻先が。
「……愛しいのです、キミが」
 唇を離した彼が聞き取れないくらいの声で言う。抱き締め直しながら、耳朶に移動した囁きが直接鼓膜を震わす。
「これから、美しいと思う景色を見る時にはいつも、キミに傍に、居てほしい」
 体が震えた。泣くかと思った。そして彼の瞳の中に花が見えた。先刻の、そして自分の心を染める翠の花が。

 ────ああ、なんて、なんて、綺麗な景色。

 きつく抱き締められて初めて知った。人の鼓動とはこれほどまでに他人に響くものなのかと。ならば今、皮膚を骨を震わす早鐘の様な命の音は、彼が自分に捧げてくれる想いの丈、その熱さ、切なさの総てを表してくれているのだろうかと。
「綾さん、どきどきして……ますよ?」
 上擦った声でそう言ってみれば。
「……僕だってそんなに、余裕があったわけではないのですよ。キミが、何時までも家に入らないものだから」
 らしくないたどたどしさが可愛くて、瞳子は両腕でそっと綾の背中を抱いた。
 私もです、と答えたら、ありがとう、と小さな声。よかった、と続いたのに今更ながら頬を染めると。
「キミより先に言えて……僕の方がその、年上なのですし」
「そんなこと考えてたんですか?」
「すいません、結構……気にするのです。嫌ですか?」
「……いいえ。そういうところも、あの、好き、ですよ?」
「……ありがとうございます」
 くつくつと湧き上がってきた愛しさそのままに笑みを漏らす。少しだけ緩んだ腕の中、見れば彼も同じ様に笑っていた。
 同じ空の下で同じ場所で、同じ喜びを分かち合えるその奇跡。彼を祝うべき日が二人の記念日になったのだと、瞳子は幸せそうに微笑みながらふと思った。


************** **

そうして、大切な記念日を、あなたと ──── 。


 了


PCシチュエーションノベル(ツイン) -
辻内弥里 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年06月13日

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