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『《光と闇の瞑想曲》 』
千住・瞳子5242)&槻島・綾(2226)

 夜が流れる。
 なめらかな流線に切りとられた硝子の向こう。
 低く足元から這い登る駆動音。等間隔に取り付けられた遮音壁の反射鏡がすれ違いざま、きらりと閃くヘッドライトの白い光。
 きらり、きらり――
 同じリズムで。
 音楽のようだと思う。――実際、千住・瞳子(5242)の中で、それはひとつの旋律として認識されていた。
 絶対音感…と、いう。世界に満ちる音のすべてを正しく五線譜に写し取ることができる能力は、演奏家や作曲家を志す者には得がたい力となる半面、日常生活を送る上では少し困った弊害をもたらす諸刃の剣でもあった。
 世界に溢れる音のすべてが、耳当たりの良い和音ではないのだから。
 例えば、雑踏に満ちる喧騒。車や電車の走行音。ショッピングモールで繰り返し流される調子っ外れのBGM。
 普通の者にはさほど気にならない不協和音が耳にき、ショッピングに集中できなくなったり。逆に、ちょっとしたお喋りでさえ集中して聞いていなければ、言葉ではなく音として聞こえてしまう。――特に気持ちが滅入ったりしているときなどは、厄介だなと憂鬱になる時もあった。
 そういう意味で、
 槻島・綾(2226)とのドライブは、瞳子にとって少し特別な意味を持つものだった。

 まず、第一に気疲れしない。
 雑誌に旅行記などを提供するエッセイストとして活躍する――知名度の方は意識して探せば、書店でも名前を見つけることができるくらいのものだけれども――槻島とは、時折、こうして遠出のできる関係……気の置けない友達といったところか。
 仕事柄、普通の人よりいくらかアンテナが働くのだろう。
 槻島は、“魅力的な場所”を見つけてくるのがとても上手だ。
 公園や史跡といった自然や文化の香りの漂うところばかりではなく。例えば、海に沈む夕日の眺められる高層ビルの屋上だったり、都会の片隅……時代に取り残されたかのような古びた喫茶店だったり。
 共通しているのは、居心地のよい場所だということ。
 もちろん、瞳子から誘うこともあった。瞳子でなければ見つけられない場所や、お気に入りのアーティストの演奏会。リリースされたばかりの新譜など。
 波長が合うとでも言えばいいのか。瞳子が好きだと感じる音は、槻島の耳にも優しく響く。槻島にとって居心地の良い空間は、瞳にとってもくつろげる場所だった。完全に一致していなくても、ストライクゾーンには入っている。
 ひとりでいても悪くはないけど、ふたりでいれば二倍楽しい。
 見たり、聞いたり、何かと向き合っている時も。とりとめのないお喋りも、ふたり並んで、のんびり寛ぎ空を見上げているだけでも。

 出会ってから、そろそろ1年。
 まだ、1年。あるいは、もう1年。――この1年を長いと思うか、短いと感じるかは人それぞれ。親しい友人に問うても、意見の分かれるところだ。
 偶然か、運命か。どちらにしても、この邂逅は善き縁だったと思う。この先、どんな風に変化するのかは、まだまだ未知数だけれども。友人、同士、親友、恋人……例え、どんなカタチになったとしても、きっと笑顔でつきあっていける人。
 一生、大事にしたい人であることは間違いない。


* * * * *


 視界に並ぶテールランプの赤い光に、槻島はアクセルから足を離した。
 やわらかなメタリックカラーで装われた国産のセダンは、心地よいエンジン音を響かせてゆるやかに減速する。――初めて自分の力だけで手に入れた愛車は、槻島にとって特別な思い入れのある宝物だった。このこだわりだけは、瞳子には理解らないだろうけど。
「……少し混んで来ましたね…」
 回転数を落としたエンジンに気がついたのだろう。なんとなく視線を上げてフロントの向こうに連なる赤い光を眺めやり、瞳子は僅かに瞳を細めた。
 首都高速が渋滞するのはいつものことだが、この辺りはまだそれほど込み合う時間帯では無いはずなのに。
「事故かなにかあったのかもしれませんね」
 ひとこと、ふたこと。言葉を交わしているうちに、電光掲示板が渋滞を告げるメッセージを流し出す。
「どうしましょうか?」
「……はい…?」
 瞳子はきょとんと、穏やかな笑みを湛える青年を見上げた。育ちの良さそうなその顔は、掛けている眼鏡のせいか、いつもより少し大人びて見える。
 渋滞にハマリ、「どうしますか?」と、尋ねられても、どうしようもないと思うのだけれど。
 返答に窮した瞳子の表情がおかしくて。すくりと小さな笑みをこぼした槻島は、前方に視線を向けたまま先ほどの問いを噛み砕く。
「高速、降りましょうか?」
「え、でも…」
 来た道と、戻る道。……道がそれたら…戻れないのではないかしら?
 ためらう様子に女の子だな、と思う。
「大丈夫ですよ。地道を通ってもちゃんと帰れます。――少し時間はかかりますが」
 日本は、陸続きですからね。
 さらり、と。なんでもないことのように紡がれた言葉に、虚をつかれて瞳子は思わず息を呑みこんだ。
 するりと識域下に沈んだそれは、ゆっくりと心の流れに乗って戸惑う思考へとたどり着く。そして――
「やだ。もう、槻島さんったら……」
 思わず噴出したその途端、胸に翳った不安が消える。
 不意の渋滞。赤く並んだテールランプ、エンジンの不協和音、落ち着かない焦燥が消え、楽しい気持ちだけがそこに残った。
 突然のハプニングが、どきどきわくわくの冒険に変わる。

 ――この人と一緒なら……

 薄墨の空にぽかんと浮かんだ三日月のところへでも、行けそうだ。
 楽しいドライブは、まだ、終わらない。もっと、もっと楽しいことが起こる予感に、自然と笑みがこぼれる。
「槻島さんに、お任せします」
 明るく返された健康的な瞳子らしい返事に、にこりと笑み返し槻島は指先で方向指示器を跳ね上げた。


* * * * *


 気がつけば、いつの間にやら日も暮れて――
 周囲を山に囲まれた広い駐車場には、槻島の愛車の他に車のすがたはなく。ぽつり、ぽつりと距離を置いて立つ街灯の、申し訳程度の小さな明かりにぼんやりと浮かぶ姿はどこか寂しく心もとない。
 以前、取材で訪れたことがあるという森林公園。
 春に芽吹いた若葉がその色合いを増し、夏の様相に様変わりするこの季節。――だが、その力強ささえ、夜の前には無力であった。
 少し肌寒ささえ感じる風にカーデガンを羽織った腕を抱き寄せて、瞳子はごそごそと愛車のトランクを探る槻島を眺める。
 ずいぶん暗い。
 街を彩るネオンサイン、家々の窓に灯る団欒、街頭の明かりだってここよりは……瞳子の知っている夜は、もっと明るかったのに。
 周囲を見回して、瞳子は小さく喉を鳴らした。
 駐車場を取り囲む山は――すでに視界に山はなく、ただ黒々と質量さえ感じる闇が鎮座している。ひたひたと翅翼を伸ばし、世界を圧し潰してしまうかのように。
「ああ。あった、あった」
 瞳子の不安をよそに、ひとしきりトランクの中を物色していた槻島が取り出したのは、懐中電灯。と、言っても、ペンライトよりひとまわり大きいだけの……どう見ても、あまり頼りにはできなさそう。
 スタイリッシュでコンパクトな懐中電灯は、押し寄せる闇に対してあまりにも無力であるように思われた。
「ちょっと探検してみませんか?」
 そう言って笑う表情が、何やら本当に楽しげで。
 これから始まる冒険に胸躍らせる少年がそこにいた。――男の人は、いつまでたっても子どもでいられる。
 そう言ったのは、誰だっけ?
「……でも…」
 やっぱり、少しだけ不安。
 勇気を持って足を踏み出すには、瞳子の前に広がる闇はあまりにも深く、そして、重かった。
「大丈夫ですよ。ほら、ちゃんと懐中電灯だってありますし」
 ためらう瞳子に槻島は明るく笑い、懐中電灯を指の先でくるりと回す。

 ――カチ…ッ

 微かな音がいつもより大きく響くのも、周囲を取り巻く闇のせいだろうか。
 知覚の9割を視力に頼っている分、その視力が働かない場所では他の感覚が鋭くなるのだと聞いたことがあったけど。
 それが真実なのだと、身を持って知ったような気がした。

 ――カチ……カチ…

 見上げれば満天の星の下、スイッチをいじる音だけが暗がりに虚しく響く。
「あれれ? おかしいなぁ…」
 こういう時でも、槻島の声はそれほど慌てているようには聞こえないのだ。どこかのんびりとした調子に、瞳子も槻島の手元を覗き込む。――覗き込んだところで、瞳子に懐中電灯が直せるわけではないのだが。
「壊れたのかしら?」
「う〜ん。まだ、1度も使ってないんですけどねぇ」
 おかしいなぁ。と、首をひねる槻島に。ふと思いついて、聞いてみる。――職業柄、人一倍、防犯や防災にうるさいあの人は、いつもどうしていたのだったか……。
「この懐中電灯、いつから車に入れていらっしゃいました?」
「ええ…と」
 尋ねられ、今度は槻島が首をひねる番。
 去年、の…キャンプは雨で順延……結局、流れてしまった。
 おととしは、スキーに行ったけど。そういえば、最後に懐中電灯を使ったのはいつだっけ?
「……かなり前、かな…」
「電池切れかもしれないですね」
 使わなくても電池は毎年変えないと。
 そう言った瞳子に、槻島は不思議そうな顔をする。――普段は瞳子には手も足もでないような難しいことを知っていたりするくせに、本当に単純なコトを知らないのだ。この人は。
「防災の日とか、点検するときに変えません?」
 そう言うと、少し困った顔をする。
「……うちではそういうコトは人に任せっきりだったもので…」
 恥ずかしそうに目を泳がせて。ぼそぼそと言葉を捜す姿が、なんだか年上には見えなくて、笑ってしまった。
「いや、まいったなぁ」
 夜の底に、笑顔の花が咲く。
 無意識に肩に入れていた力が抜けるのを見て、槻島は懐中電灯をジャケットのポケットに滑り込ませた。
「ちょっとだけ歩いてみませんか?」
 さすがに展望台までは歩けないけど。
「ええ?!」
 冒険への誘いに返された声はやはり驚いた風ではあったけど、先ほどの不安を宿した響きではなく。
「あの端っこくらいまでなら懐中電灯なしでも大丈夫でしょう。――今夜は晴れているから、空も明るい」
 そう言って空を見上げる槻島に、つられて顔を上げれば満天の星。
 濃紺のベルベットに、スワロフスキーを撒いたかのような。ひとつだけでは見落としてしまいそうな小さな光が、いくつも……数え切れないほど集まって、淡く輝く乳白色の光の帯を天空に描く。
「……天の川…って、本当に川みたい」
 瀬があって、淀みがあって、
 緩やかに蛇行して流れているようにさえ――
 裂かれた恋人たちは、きっと途方に暮れただろう。――自力で愛しい恋人のもとへとたどり着くには、この河は壮大すぎた。
「それじゃあ、行きましょうか?」
 言われるまま、笑顔で差し出された手をとって。
 おそるおそる、一歩を踏み出す。


* * * * *


 闇と静寂は、必ずしも同義ではない。
 電気を消しても、夜が完全な闇にはならないように。
 視覚による認知力が落ちる分、他の感覚がより敏感に周囲を測り出すせいだろうか。暗がりの奥は、いっそうるさいほどの音に満ちていた。
 風に揺れる木々のざわめき、
 落ち葉を踏む小動物の軽い足音、
 虫の音、
 夜に鳴く鳥
 深い森の中から闇を伝わるかそけき音は、だが、一時も止むことはない。見上げれば、星のきらめきさえ旋律になりそうで。
 “F分の1のゆらぎ”現象。――単調なリズムと不規則なリズム。どちらも不快な感じを与えるが、これが半々に混じると不思議と快く感じるのだという。
 風が吹いたり、やんだり。
 波が寄せたり、返したり……自然界にあるものは、一見規則的に動いているように見えて、実際には少しずつ不規則な動き、“ゆらぎ”を持っている。
 天体の動きから、人の鼓動に至るまで。
 あらゆる場所に生まれる“ゆらぎ”――そして、不思議なことに人間の心拍のリズム、目玉の動き、脳波のα波の周波数これらのゆらぎは、皆、“F分の1のゆらぎ”なのだそうだ。
 例えば、ヒーリングの効果が高いとされるモーツアルトの楽曲には、この“F分の1のゆらぎ”が多く見られるのだという。
 大学の講義で聞いたときには、単純にそういうものか…と漠然と受け止めていたものを、実感として肌で感じる。不協和音やシャープやフラットばかりの譜面が、奏でてみると自然な響きになるように。
「今年は、世界物理年だそうですよ」
 闇を伝わる旋律を感じ取ることに夢中になっていたせいで。傍らで星空を見上げる槻島がふと思い出したように呟いた言葉を、あやうく聞き逃すところだった。
「なんですか、それ?」
 物理とは高校を卒業して以来、縁がない。
 どちらかといえば、苦手な科目だったから。
「アインシュタインが三つの革命的な論文を世界に発表してから、今年でちょうど百年目にあたるんだそうです」
 光電効果の理論、ブラウン運動の理論。そして、特殊相対性理論。槻島がすらすらと口にした単語は、やはり瞳子には理解不能。――アインシュタインと相対性理論くらいは聞いたことがあるような気もするけれど。
 1905年は、現代物理学にとって、まさに“奇跡の年”だった。
 当時、まったく畑違いの特許局の職員であったアルバート・アインシュタインによって立て続けに発表された5つの論文。
 
 ・「光の発生と変脱」(3月)−光量子の論文−
 ・「分子の大きさの新しい決定法」(4月)−ブラウン運動の論文−
 ・「熱の分子論から要求される静止液体中の懸濁粒子の運動」(5月)
  −ブラウン運動の2つ目の論文−
 ・「運動物体の電気力学」(6月)−特殊相対論の論文−
 ・「物体の慣性はそのエネルギーに関係するか」(9月)−E=mc 2を導出した論文−

 いずれもが20世紀物理学を創った研究であり、その後の世界に少なくない影響をもたらした。その偉大な業績と人類への貢献を讃え、2005年は「世界物理年」とすることが決まったのだという。
「4月19日には、光のリレー・プロジェクトという一般参加者向けのイベントもあったそうですよ」
「光のリレー?」
 光と光をつないで、地球を一周。
 オーストリアから始まって、ブルガリア、ハンガリー、スロバキア、ラトビア、ポーランド、中国、ドミニカ共和国、クェート、ルーマニア、シンガポール、台湾、アメリカ。そして、日本もそれに名前をつらねた。

 ――マンハッタン計画の中心人物…すなわち、核兵器の産みの親。

 ――そして、核廃絶運動の最初の一声を上げた人。

 アインシュタインは日本にも、ゆかりが深い。
「なんだか、楽しそうですね、それ」
 難しいことは判らないけれど。
 振り分けられた時間が来たら、2分間だけ部屋の明かりを消して、次へとつなぐ。それくらい単純なら、瞳子にも理解できるし、参加してみたかった。
 そんな楽しい企画があるなら、もっと早くに教えてくれればよかったのに。
 楽しげに笑う瞳子の声に、槻島も笑う。小難しい話をひねってしまったかと心配したけれど、楽しんでくれているようだ。

 新しい夜の楽しみ方。
 ひとりで夜の声に耳を傾けるのも良いけれど、
 月の影、星の光だけど頼りに、ふたりで歩くのも悪くない。――この人となら。転んでも、きっと笑顔で起き上がれるだろうから。


=おわり=
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
津田茜 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年06月13日

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