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『春の終わりに− Spring Shower − 』
リラ・サファト(w3k421)&藤野・羽月(w3a101)

 お天気お姉さんの予想では――
 今日は終日、朝から快晴。雲ひとつない青空の広がる絶好の洗濯日和だ、と。太鼓判を押した天気予報士の爽やかな笑顔を思い浮かべて、藤野・羽月(w3a101maoh)は吐息をひとつ。むっつりと昇降口のコンクリートに弾ける銀の雫を眺めやる。
 高く澄んだ碧落にぽつりと浮かんだ暗雲はゆるゆると翅翼を広げて空を覆い、午後の授業が終わる頃には立派な雨雲に成長していた。
 低く重たげな灰色の天から投げられた最初の銀糸が、HRでにぎわう教室の窓ガラスをひそやかに叩いたことに気づいた者はそう多くない。――音もなく降り出した雨は、穏やかに午下がりの世界を濡らし、一段と瑞々しさを増した若い緑を鮮やかに輝かせていく。
 日毎、夏の気配を募らせる陽射しに晒され否応なく引き上げられる気温をクールダウンする恵みの雨なのかもしれないけれど。
 かそけき糸を引くように。細かな水滴を投げかける雨天を見上げ、藤野は少し憂鬱な気分で息を吐き出す。
 別に、雨に濡れるのが我慢できない、とか。
   ――確かに濡れた服の感触は、あまり気持ちの良いものではないが‥。
 身体を冷やすのは、健康によろしくない、とか。
   ――魔皇として覚醒してからは、おかげさまで病気や怪我とは無縁の身体だ(覚醒する以前から健康には、自信があったが)。
 そういうことに滅入っていたワケではなく。
 家を出る直前に、なんとなく付けていたTVの向こうでそんな会話が交わされていたということを、ふと思い出しただけ。
 もちろん、朝の天気予報を100%信用していたワケではないし。――例えば、雨が降るかもしれないと言われても、実際にその日の持ち物リストに傘が含まれていたかどうかもかなり怪しい。
 ちょっと思い出しただけ。
 そして、思い出してしまったコトを癪だと感じる自分に気づいて、憮然としている。――突然の雨は《乱れる心》の象徴であるらしい。



* * * * * * *



 気がつけば、いつも視界のどこかにいる人。
 何故、と。尋ねられても、困ってしまうのだけれども。
 例えば、身長が150cmに満たないリラ・サファト(w3k421maoh)にとって、180cmを越える長身がいっそ脅威を感じるほどに大きく見えるのかもしれないし。良く知っている人だから、視線が焦点として的を合わせやすいのかもしれない。――あるいは、他にもっと特別な理由があるのかも。
 クラスメイトだから?
   ――毎日、顔を合わせるし。取り組まなければいけない予習や復習、課題も同じ。
 そう言われれば、幼馴染でもあった。
   ――祖父が開く道場の門下生として、ほぼ毎日、道場のあるリラの家へと通ってくるというのがきっと正しい。
 正直に言ってしまえば、それほど親しい間柄でもないような……。
 とても寡黙な人だから(もちろん、感情がないというワケではないのだろうけど)――やはり、どちらかというとあまり積極的ではないリラとの距離は、出会った頃から少しも埋まっていないような気がする。
 それなのに。
 気がつけば、視線の先にはいつもあの人の姿があった。
 不思議だな…と、思う。
 そう思うのだが。それ以上、深く突き詰めて考えたこともない。
 まるで、触れてはいけない魔法が掛けられたパンドラの箱のようだ。決して、中が気にならないワケではないけれど。まだ、蓋を開けてみる勇気はない。――今はまだ、この距離で十分。

「じゃあね〜♪」
「また明日」
「ねね、見た? 何あれ、社会と英語が同じ日って、ヒサンだよねぇ。――ねえ。×××へ寄ってかない?」
「うん。行く、いく♪」
「あ〜、ゴメン☆ 今月、ピンチなの。やっぱ、試験前だしぃー」
「げ。 雨、降ってるよ。傘持ってねぇっつーの」

 特に息苦しいと感じるわけではないが、学校という枠から解放される安堵だろうか。交わされる言葉も、どこかそわそわと華やいで。
 賑やかな喧騒の中をゆっくりと潜り抜け、下駄箱へ向かう。
 試験の1週間前からはクラブ活動も休みになって、みんな時間を持て余しているようだ。殊勝に試験勉強をする者はごく少数。――かく言うリラも、実際に机に向かうのは、どちらかと言えば夕食が済んでから。
 遊んでいるつもりはないのだけれど。本を読んだり庭でのんびりしている間に、気がつけば時間だけが経っている。
 雨の色に濡れる外の景色に足を止め、傘の有無について思案を巡らせたリラの視界がその人に気づいたのは、偶然だろうか……。
 恨めしげに雨を眺める生徒は、彼だけではなかったのに。


* * * * *


 すい、と。
 横合いから差し出された傘に視界を遮られ、水溜りを飛び越えようと踏み出した藤野は危ういとところで踏みとどまった。――ぶつからずに済んだのは、日頃の鍛錬の成果だろうか。
 開いた傘を掲げ、精一杯、伸ばされた細い腕。顔を見るより、名前を口にするより、先に感覚が理解していたような気がする。
「……リラ…さん…」
 取って付けたように彼女の名前を口にして、それから少しだけ困惑した。
 まったく知らない人ではなくて。
 彼が通う道場主の孫娘で、幼馴染で、同級生で……でも、特別親しい人でもない。――何か約束していただろうか?
 ほんの一瞬、瞬きひとつほどの空白の間に、いろんなコトを考えて。やっぱり、何も判らないまま、藤野はただ頭ひとつ分よりまだ低い位置にある少女の顔をまじまじと見つめる。
 あまり感情を面に表さない、いつもどおりの無表情。それでも、少しだけ驚いたように見開かれた眼に映った自分の姿に、リラはにこりと笑みを浮かべた。――藤野がこんな表情をすること知っているのは、自分だけ。そんな小さな事実が、ただ嬉しい。
「……よかったら、一緒に帰りませんか?」
 そう言うと、彼はまた驚いた顔をする。
 誘われると思っていなかったのだろうか、それとも――
「……………」


 唐突な申し出に、戸惑っているのだろうか。
 何か言いたげに微かに動いた唇が紡いだ言葉は、リラの耳には届かなかった。
 どうせ、このまま家には帰らず、リラの住まいの一郭にある祖父の道場へ直接顔を出すのだろうから。
 帰る方向が同じなのだから、一緒に傘に入って行けばいい。
 そう口を開きかけたリラの視界を、ふぃと見覚えのある人影が横切った。ひとつの傘に仲良く寄り添って歩くふたりは、校内でも噂の――。
「あ」
「……え…っ?」
 思わず上げてしまった小さな声に、藤野もリラの視線を追って眼をあげる。彼の目にも、リラと同じ光景が映ったに違いない。
 一瞬、わずかに動いた唇が紡いだ音は、リラの耳には届かなかったのだけれども。どこか気まずい沈黙が、ふたりの間に舞い降りた。
「……あ、あの…別に、変な意味じゃなくて……その…」
 変な意味って、何だろう。
 相変わらず感情の読めない静かな視線が、なんだか痛い。――変に思われなければいいのだけれど。
「ええ…と。今日も、道場にくるのでしょう?……どうせ目的地は同じなんだし……雨、降ってるから……」
 それ以上でも、以下でもない。
 偽りのない本音であるはずなのに、どうしてこんなに薄っぺらく聞こえるのだろう。居た堪れなくて、胸が痛い。
 ゆっくりと首筋から這い登るのを自覚した血流の、思いがけない熱さに眩暈がした。
 戸惑いながら持ち上げられた手がリラの手から傘を受け取るまでの短い時間が、永遠にも思われて。
「……ありがとう…」
 ぽつり、と。落とされた低い言葉は、ともすれば聞き逃してしまいそうなほど、小さく頼りなかったけれど。
 普段から寡黙に過ぎると思えるほど、言葉の少ない人だから。
 たったひとつ紡がれたその音が、するりと入り込んだ

リラの心に波紋を投じて穏やかならざる漣を立てる。


* * * * *


 なんだか足元が心許ない。
 濡れたアスファルトは多少滑りやすくはなるが、やわらいはずはないのだけれど。
 ふわふわ、ふわふわ。
 気持ちが揺れる。

 嬉しいのか、
 困っているのか、
 少し、落ち込んでいるのかもしれない。
 ひどく緊張もしていたし、
 そのくせ、どこか安堵しているようにも思う。
 いつもは心の奥の自分の場所で大人しく出番を待っているたくさんの小さな自分が、小さな部屋で一斉にお喋りを始めたカンジ。
 ざわざわ、ざわざわ。
 まるでひとりだけ言葉の通じない人たちの喧騒に放り込まれたようで、落ち着かない。
 どうしちゃったんだろう。

 原因は――
 そう、きっと。
 ……きっと…たぶん、隣を歩く……藤野…君…のせい…?

 ひとつの傘をふたりで差して。
 これって、ちょっと……恋人同士みたいに見えるかも……

 すれ違う人の視線とか、
 追い抜いていく他の生徒がちらりとくれる一瞥は、もしかして――

 そうだったら、どうしよう。
 帰る方向が同じだったから、ちょっと誘っただけなのに。
 ―――こま…ら、ない…けど…。でも、藤野君は迷惑に思うかもしれない。

 声、かけない方がよかったのかな……
 なんだか少しだけ悲しくなった。


* * * * *


 どうせ、これから道場<うち>にくるんでしょう――

 そう言って、リラさんは藤野を自分の傘に入れてくれた。
 それは藤野が通う道場主の孫娘として、雨に足止めされている藤野に気を使ってくれたのだろう。
 幼馴染で、同級生で。
 まったく知らない間柄ではない人が途方に暮れている姿…そこまで、進退窮まっていたわけではないが…を、無視できる人ではないから。
 調理実習で作ったお菓子を体育の授業で余計に減った小腹の足しと渡してくれたり、ホワイト・デーでもらったお菓子を分けてくれたり……次のバレンタイン・デーには彼のためにお菓子を作ってくれる。とも、約束してくれたような気がする。
 もちろん、それは特別な意味があるわけではなくて。単に、バレンタイン・デーにもらったプレゼントはいつも姉に没収されるのだとぼやいた(?)自分への同情が大きいのだおろうとも思うけど。
 とても親切な人だから……
 その好意や優しさに甘えてしまう形になっているけれど。――本当は迷惑に思っているのではないだろうか?
「……それでね、お祖母ちゃんったら…」
 今だって、ともすれば黙りがちになる藤野の代わりに、一生懸命、話題を探してくれている。
 学校であったこと。
   ――物理の先生が妙に上機嫌で首から提げたストップウォッチを弄んでいる日は、抜き打ちテストがあるんですよね。
 忙しい、クラブ活動の感想。
   ――今年の一年生は、みんな素直だし練習熱心で、とても可愛いんですよ。私たちも、1年前はあんな風だったのかしら?
 なるべく藤野にもとっつき安い話題を探してくれているのに。
 ああ、とか。
 それは、良かったですね、とか。どう考えても気のない月並みな返事しかできていないのだから。
 それが己の性分なのだと理解っていても、少し歯がゆい。
 彼女には、気など使ってほしくないのに。――何故?と、尋ねられても。多分、困ってしまうのだけれど。
 顔を上げると、傘の外はやわらかな雨模様。
 灰色の空から投げられるとても細かな水滴に濡らされた通学路は、思いがけずとても綺麗で。
 毎日、歩く。見慣れたはずの、その道が。
 少し重みのある冬色から鮮やかに色目を変えた垣根の緑。
 春先には薄桃色の花を咲かせた桜の枝。互いに鮮やかな黄色に純白を競った山吹と雪やなぎの潅木も。
 日増しに濃くなる緑に装われ、すぐそこにある太陽の季節を待っていた。
 零れた銀の雫が、眩しいばかりの緑に弾ける。――優しさの裡に見え隠れした儚さ、弱さが消え失せて、溢れるばかりの生命力が見る者の背中を押すようにさえ。
 ああ、綺麗だな。素直に思う。
 いつもなら、ただ黙々と早足で行き過ぎるだけのこの道が、なんだか特別なものに見えるのは……。
 雨空にふうわりと開いた傘の下、
 肩を並べて一緒に歩く、彼女はとても小柄な人で。
 そのせいだろうか。
 決して、聞いていないワケではないのだけど。曖昧な返事を返すだけの藤野を相手に、取り留めのない会話を紡ぐ少女にちらりと視線を戻し、そして気づいた。
「……あ…」
「え?」
 使わない時は折り畳んで持ち運ぶ携帯用の小さな傘は、ふたりを雨から守るには少しばかりサイズが足りなかったらしい。
 ぽつり、ぽつり…と。
 傾いた傘の露先から落ちる雫は、音もなく制服の袖を濡らして――
「……濡らしてしまいました…」
 傘に入れてもらったばかりに。
 言葉にはしなかったけれども。ほんの少し視線を揺らした藤野の顔は、どこか悄然と自分を責める。
「大丈夫ですよ、これくらい」
 雨の具合や、風のある日には。ひとりで傘を差していたって、濡れてしまう時があるのだから。
「でも」
 それでも、何か言いたげな少年に。その頭ひとつ分よりもっと高いところにある精悍な顔を見上げ、リラはまっすぐその青い眸を見つめた。
「大丈夫ですって。――それに。それを言ったら、藤野君だって濡れていますよ」
 おあいこですね、と。笑顔で指摘されれば、確かにそう。
 微かに動いた唇は、でも、と。まだ、少し納得していないみたいだけれど。

 ああ、でも。
 もしかして、本当は……

「――こんな風に歩くのはイヤですか?」
 女の子と一緒に、相合傘で。
 今時、珍しい少し古風な人(お祖母ちゃん評)だから。――親しい友達に見つかれば、からかわれるかもしれないし。
 何でもないのだ、と。皆に否定して回るなんて、無口な彼には出来ないだろう。

 そう、なんでもないのだ。
 ――なんでもないのは、偽りのない事実であるのに……どうしてだろう、胸が痛い。

 ともすれば沈みがちになる心の機微は、降り止まない雨のせい?
 自らの想い囚われていたせいで、リラの頭は耳が拾った音を言葉だと認識するのに少しばかり時間を要した。
「えっ?」
 問い返されて、藤野は一瞬、視線を泳がせる。
 少し言いにくいことだったのかもしれない。それでも、有耶無耶に誤魔化したりしないのが、彼のいいところ。
 ほんの少し唇を濡らし、そして、ゆっくりと。藤野は紡いだ言葉をもういちど繰り返した。
「イヤではありません」
 リラさんと一緒に歩くのは。
 まっすぐ向けられた言葉に、今度はリラが戸惑う番。
 幼馴染で、クラスメイトで、
 昔から、互いに良く知っている。
 けれど、それほど親しい仲ではない人に……なんと応えればいいのだろう?

 一生懸命、考えて。
 でも、胸に生まれたふうわりと暖かな今の気持ちを上手に言い表す言葉など、何も思いつけなくて。
「……よかった…」
 ただ、それだけ。
「私も。藤野君と一緒に歩くのは楽しいです」
 思わず揺らせた視線の先で、少女はすこしはにかんだような笑みを浮かべて。それでも、彼女の青い瞳は、まっすぐに彼を見ていた。
 リラが紡いだばかりの言葉を、藤野もまた唇に乗せる。そして、心にを満たす優しい気持ちを表情に浮かべた。
「よかった」


* * * * *


 道場までの短い距離を、並んで歩く。
 とりとめのない話をしながら。――話題を探し、口を動かしているのは、やっぱりリラの方が圧倒的に多いのだけれど。
 5月朔日。
 彼が贈った鈴蘭は、ずいぶん長く保ったこと。
 雨に濡れた木々の緑が思いがけず綺麗に見えたり、ふたりで歩く通学路はいつもより少し短く感じられることも。
 少しずつ近くなる道場の屋根と、今が終わってしまう寂しさと。うまく言葉にできない、もどかしさに戸惑いながら。

 雨と傘、偶然から始まった奇跡は、まもなく終わる。
 慈しみと愛情に紡がれる長い長いふたりの物語は、まだ、幕を開けてもいなかった。

= be continues. =
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2005年06月06日

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