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『寄り道 』
尾神・七重2557


 使い慣れた傘を伝い流れる雨の一雫を確かめて、尾神七重は暗紅色の視線を持ち上げ、空を仰いだ。
 六月の幾日かが過ぎ、七重の住む東京も長雨の季節を迎えている。見上げれば、気鬱になりそうな、重々しい灰色の雲が広がっている。
 七重はその空を眺めて小さく肩を竦めると、家路へ着くために渡る信号に視線を向けた。信号は赤い色を点滅させ、静かに降る雨がそれを包むように白く煙っている。
 人の通りは決して多くはない。車の数も、いつもよりは少なく感じられる。それも雨の影響だろうかと考えて、七重はゆっくりと足を進めた。歩道よりも少し低めになっているためか、車道にはいくらか水が溜まっている。七重はそれを避けつつも、ふと、眉をつりあげて振り向いた。
――――誰かが、いや、あるいは何かが、後ろで小さな声をあげたような気がしたのだ。
 振り向いてみても、そこには誰の姿もない。いや、そもそも……
「……人間の声じゃ、なかった……」
 呟き、足を止める。信号は再び点滅を始め、制服姿の少女達が足早に走りぬけていく。
 七重は小さなため息を洩らした後に、横断歩道を渡りかけていた踵を返し、さっきまで立っていた場所に戻っていった。

 雨はほんの少し勢いを強めてきたようだ。傘を叩く雨音が音量を高め、その下にいる七重は思わず眉根にしわを寄せる。
「声が、消えてしまう」
 そうごちてから足を進め、道路脇に伸びているツツジの花の近くで身を屈めた。声は、確かにツツジの下で聞こえたような気がしたのだ。
 覗き見てみると、そこには子猫が一匹、ぐったりと横たわっていた。腹こそ小さく動いてはいるものの、呼吸は荒く、なによりも足の辺りがひどく傷ついている。
 七重は慌てて傘を置くと、自身の制服や体が濡れていくのも厭わずに、両手を伸ばして子猫を抱き上げた。
「車にひかれたんだね……? 今すぐ病院に連れていってあげるから」
 だから少し待っていて。そう続けながらハンカチで子猫をくるみ、見慣れたはずの景色を見渡し、動物病院の看板を探す。
「確かこの近くにあったはずなんだ」
 子猫をしっかりと抱きしめて、傘を脇に挟むように持ち上げる。雨は弱まる様子もなく、容赦なく傘や七重を打ちつける。
 急ぎ、足を進めようとした、その時。ふと、消え入りそうな声が七重の耳をくすぐった。
その途端、七重の視界は大きく歪み、次の時には見た事のない家の風景が広がった。

 そこにいたのは、七重と同じ年頃の少女。少女は快活そうな顔立ちに満面の笑みをたたえ、七重の方に手を差し伸べた。
『今日からはおまえもうちの子だよ!』
 少女はそう言って、七重を――否、子猫を抱き上げる。子猫は、そうされると全身が温かくなるような、そんな気持ちで覆われた。
 あたたかなミルク、用意された心地良い寝床。まだ歩く事に不慣れな足で母猫の傍まで近寄ると、母猫は一声ないて子猫の体を舐め、喉を鳴らした。

――――ああ、そうか。これはきみの記憶なんだね。

 頷くと、七重の視界はふつと途切れ、そして次にはまた違う風景が広がった。

 そこは家の庭だった。あまり広くはない、ごく一般的な家庭の庭といったところだろうか。
植えられたハーブが風にそよぎ、小さな蝶がゆらゆらと踊っている。
 子猫はそれを追いかけて跳ねまわり、知らず、門の外へと出てしまった。しかし子猫はそれと気付かずに、見た事のない景色に心を躍らせる。
――――そっちに行っちゃだめだよ
七重はそう呼びかけたが、子猫はちらと振り向いただけで、再び未知の冒険へと視線を向けた。

 再び視界がふつりと途切れる。そして次に広がった光景に、七重は思わず目を瞑る。
 雨が降っていた。子猫は、身だけでなく心までも冷たくするような雨雲を見上げつつ、ふらりと道路に足を向けた。
――――危ない!
七重がそう声を張り上げた時、一台のトラックが、滑るように子猫の体をはねあげた。

 ふつり。視界は暗転し、そして七重の意識は再び七重の体の中へと戻された。
 雨は相変わらず傘を打ちつけ、子猫は七重の腕の中、小さな命を懸命に動かしている。
 七重は今自分の前に広げられてきた光景に思いを馳せながら、そっと子猫の頭を撫でた。
「――――うん、分かった。僕が、きみのご主人を連れてきてあげるから」
 微笑しつつそうささやくと、子猫は緑色のビー玉のような瞳をくるりと細め、返事を返すようにニャアと一声ないたのだった。

 病室の外で、少女はしゃくりあげながら、何度も何度も頭をさげる。
「もう見つからないって思ってました。あ、ありがとうございますッ」
 泣き腫らした目で七重を見上げ何度も礼を述べる少女に、七重は困ったような笑みを浮かべた。
「いえ、僕はなにも……」
 かぶりを振って微笑する七重に、少女の腕の中の子猫が小さな声を一声あげる。
七重はそれに応じるように首を傾げ、ふんわりとやわらかく整えられた毛並をそっと撫でた。
「冒険もいいけど、今度からはほどほどにしようね」
 ささやくと、子猫は緑色の目をくるくると動かし、気持ちよさそうに喉を鳴らす。
その表情を確かめた後に、七重は少女に頭をさげて、病院を後にした。

 病院の外に出ると、あれほど強く降っていた雨も、もうすっかり止んでいた。
 雲間からは陽射しが顔を覗かせて、雨粒で光る街並をそっと照らしだしている。
 頬を撫でて過ぎる風は涼やかで、澄んだ空気の匂いがそこかしこに広がっている。
 七重はそれを胸一杯に吸い込むと、傘をたたんで歩みを進めた。

 夏は、もう、すぐそこまで来ている。

 
―― 了 ――
PCシチュエーションノベル(シングル) -
エム・リー クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年06月06日

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