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『帰還 』
シュライン・エマ0086)&草間・武彦(0509)



 函館空港というのは、なかなか数奇な運命を背負った場所だ。
 ソビエト連邦からミグ戦闘機が亡命してきたり、ハイジャック事件が起きたり。話題性にはことかかない。
「トドのカレーも売ってるしね‥‥」
 げっそりとするシュライン・エマ。
 怪しい缶詰を手に取る。
 北海道は味覚の宝庫なのに、なんだってこんな変なものが売っているのだろう。
 いや、もしかしたらトドだって美味しいのかもしれないが、食べるのに多少は勇気がいる。
「まあ、カレーだから食えるだろう」
 同行者が適当なことを言う。
 草間武彦だ。
 信じられないことだが、シュラインの夫である。
「‥‥つーか、信じろよ」
 あさっての方向に苦情を申し立てたりして。
「それはいいとして」
「いいのかよ‥‥」
「なんでカレーだと食べられるの?」
 もっともの疑問をシュラインが発する。
「傭兵ってのがいるだろ?」
「ええ」
「あいつらって、どこの戦場に行くときでもたいていはカレー粉をもってくんだ」
 理由は、味を消すためだ。
 カレーというのはかなり強い香辛料を使っている。ほとんどの料理の味を消してしまうほどに。
 戦地では食べられるものはなんだって食べなくては状況になるので、味がどうこうなどと言っている余裕はない。
 だから、とりあえずなんでもカレー味にして飲み込んでしまうのだ。
「傭兵ってお金持ちそうなイメージがあるけど、すごい食生活ね」
 感心するというより呆れてしまう。
「戦場でゼイタクなんか言えないからな。それに傭兵はべつに金持ちじゃないぞ」
「そうなの?」
「日本の肉体労働者より多少給料が良いってくらいだ。マジで」
「あっきれた。命のやりとりをするようなお金じゃないじゃない」
 まったくもってその通りだ。
 たとえば草間とシュラインは反魂者たちと壮絶な死闘を演じたが、もちろん報酬を受け取っている。
 ふたりあわせて二千万円。
 それでも、
「命を張るには安すぎるけどな」
 苦笑を浮かべる怪奇探偵。
 実際、彼は命を落としてもおかしくないほどの怪我を負った。幸い回復術に長けた者の処置が適切で迅速だったので一命はとりとめたが。
 そして、療養のために函館を訪れていたのである。
「じゃあ零ちゃんへのお土産はトドカレーにする?」
 シュラインが訊ねた。
 自力で動けるようになった夫と東京へ帰る。
 手ぶらという訳にもいかないので、空港で土産物など物色しているである。
「わざわざキワモノを買わなくてもいいだろ? ふつうのにしとけよ」
 あまりにも珍しいことに、まともな意見を述べる草間。
「生死の境を彷徨ったせいかしら?」
 内心でやや深刻な疑問を抱くシュラインだったが、じつは草間のチョイスというのは、たいていは常識的でつまらないものが多い。
 奇をてらったものを選ばないのは、ただ単に面倒だからだ。
 自分がつまらないものをもらったら怒るくせに、なかなかわがままな男なのである。
「ふつうってなによ?」
「トラピストバタークッキーでいいだろ」
 箱をいくつか手に取る。
 普通というか、安直というか。
「せめて零ちゃんにはちゃんと選びなさいよ?」
「じゃあいかめし」
「それは森町の名産でしょ。だいたいナマモノなんてもっていけないわよ」
「何日の旅をする気だよ。一時間ちょっとだろうが」
「それでも、よ」
「へいへい」
 ピロートークなどを繰り広げながら土産物屋を物色して歩く。
 どことなくシュラインが嬉しそうなのは、やはり夫の回復が順調だからだ。
 取り残されるのは嫌。
 あんなに恐ろしい思いは、もうしたくない。
「これなんかどうだ?」
 青函トンネルを掘ったときに出た海底の土で焼いたという小さな陶器のイヤリング。
 緑とも蒼ともつかぬ深い色彩が、なんともいえぬ美しさを現出させている。
 この惑星の太古の海を想像させるような。
「へぇ。けっこういいじゃない」
「決まりだな。ふたつくれ」
 後半は店員にかけた言葉だ。
「ふたつ?」
 小首をかしげる妻に、
「ほらよ」
 小さな紙袋が放られる。
「お揃いってのも悪くないだろ? 義姉妹で」
「‥‥バカ」
 夫の不器用な気遣いに、わずかに頬が染まる。
 ざわめきが遠のく。


 かつて、蝦夷地を訪れるというのは冒険以外の何ものでもなかった。
 江戸から津軽に行くだけでもとんでもない道のりで、そこから海の難所である津軽海峡を越え、秘境といっても過言ではないような蝦夷地へ。
 それが、いまは飛行機で片道一時間である。
「文明の勝利に」
 やや皮肉な口調でいって、サービスのアイスコーヒーを掲げてみせる怪奇探偵。
 冷たい飲み物が美味しい季節になった。
「勝利、かしらね」
 シュラインが肩をすくめてみせる。
 便利な道具が増え、地球という星はどんどん狭くなっている。
 人類という名の覇者は、揺るぎなく君臨している。
 しているはずであった。
 だが、進んだ文明など知らないはずの剣豪たちに、現代人たちは翻弄されっぱなしだった。
 たしかに護り手たちは、現代文明は勝利したのかもしれないが、それにはかろうじてという冠詞がつくだろう。
 勝利の女神が持つ秤は、最後の最後までどちらに傾くか判らなかった。
 そういう戦いだった。
 思い出として語るには、まだ記憶が生々しすぎる。
 榎本武揚に向かい弓(シルフィード)を引いたときに震えた手。
 幕末最高の名将が残した感謝の言葉。
 たぶん、一生忘れない。
「‥‥すまなかったな。嫌な仕事をやらせて」
 妻の思いに感応したのか、草間が黒髪を撫でてくれる。
「‥‥ん」
 曖昧に微笑するシュライン。
 まったく、おかしな夫だ。
 動けるようになったとはいっても、まだ完全に負傷が癒えたわけではない。本来なら気遣われるのは草間の方だろう。
 それなのに、嫌な仕事をした妻の心理的負担を減らそうと気を遣っている。
 あるいはこれが怪奇探偵流の美学(かっこつけ)というものなのだろうか。
「武彦さんこそ、あんまり無理しないでよ。まだ本調子じゃないんだから」
 伸ばされた手を自らの腕に抱く。
 指先に伝わる鼓動。
「止まりそうだったんだからね。心臓」
 口に出さぬ言葉。
 普段の草間なら、この体勢になったのを良いことに、胸を揉むくらいのことはするだろうが、さすがにこのときは優しげな瞳で妻の横顔を見つめるだけだった。
 ジャンボ旅客機が駆ける。
 大海を泳ぐ白鯨のように。



  エピローグ

 端然とたたずむ女性。
 寄り添うように歩く男女を見つけ、軽く一礼する。
「いまかえったぞ」
「ただいま。零ちゃん」
 かけられる声。
 パズルのピースが、あるべき場所へと収まるように。
「おかえりなさい。義兄さん。義姉さん」
 極上の笑みを、草間零が浮かべた。
 到着ロビー。
 ありふれた、どこにでもある家族の再会。
 何も知らない人々が行き過ぎてゆく。
 東京は、今日も平和だ。









                     おわり

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東京怪談
2005年06月06日

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