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『『リラ冷えの街で ― もうひとつのライラックの花の物語 ― 』 』
槻島・綾2226



 気になる人がいる。
 毎週日曜日、開店と同時に俺がバイトする喫茶店に来て、そして閉店まで店に居座っている彼女。
 何をする訳でも無い。ただただ彼女は店の入り口近くの席に座って、何杯もコーヒーを注文して、無為に時間を過ごしている。
 無為?
 それは俺の勝手な主観であって、彼女には何か意味があるのだろうか? それをするにも…。
 とても哀しげで、まるでお通夜の席のような顔で席に座っている彼女。
 声をかけたいのだけど、生憎ここは俺のバイト場で、元来照れ屋の俺に彼女に声をかけられる訳も無く、そもそも何を言えばいいのか。
 だから俺は彼女を見ている事しかかなわない………
 もどかしい想い。
 届けたくっても届かない、俺の恋心。



 ―――――――――――――
【?T】



 北海道の札幌に行ったのはライラック祭りと時計台を中心にして、札幌の街の旅行記を書くためだった。
 そこで出会った人たちの事や、見た風景、聞いた話、抱いた想いなどを僕は僕の目の前に居る彼女にひとつひとつ思い出しながらもう一度伝えた。
 エッセイには書いた事も書いていない事も彼女はとても興味深そうに聞いてくれて、きっと僕もそうやって彼女が僕の話す言葉をとても楽しそうに聞いてくれるのが嬉しくって、それで先ほど会ったばかりにもかかわらずに色々と喋ったのだと想う。
 先ほどまでは音楽で満ちていた僕と彼女の空間を、今は僕は僕の言葉で満たしている。
 そういえば彼も、今は彼と彼女が居る空間をこんな風に満たしているのだろうか?
 脳裏に浮かんだのは懐かしい人たちの顔。
 気の優しい喫茶店のマスターと、彼が経営している喫茶店のアルバイトの大学生、それから毎週日曜日に来る女性客。
 僕が触れ合った人たち。彼らから聞いた話。僕が見た話。
 彼と彼女がどうなったのか僕は知らない。
 彼と彼女が出した答えを聞く前にこちらに戻ってきたから。
 だから僕は彼と彼女の話を今、僕の目の前で僕が紡ぐ言葉に耳を傾けてくれている彼女には話さない。
 それはきっと僕は彼と彼女が出した答えをわかっているから。
 だから今は僕はそれを話さずに、彼女がきっと好きそうな…若い彼と彼女の物語を見守りながらマスターが話してくれたマスターと奥さんの物語を口にする。そう、ちょうど今、僕の目の前に居る彼女のような黒髪黒瞳の可愛らしいライラックの花の妖精が結び合わせたマスターと奥さんの恋物語を。



 ―――――――――――――
【?U】


「小樽の硝子工芸ですか?」
 僕は眼鏡のブリッジを人差し指であげながら目の前に座っている編集長に問う。
「ええ、そう。ほら、先月号で綾君に書いてもらった長浜のガラス文化、それのね、評判が偉くいいのよ。やっぱり女性は綺麗なモノが好きだからね。もちろん、黒壁ガラス館などで綾君が見たモノを紡いだ文章が良いからこそなんだけど」
「編集長。おだてても何も出ませんよ?」
「あら、本当の事よ。それでね、二番煎じ、という訳でも無いのだけど、硝子工芸第二段の企画として、小樽の旅行記を綾君にお願いしたいと想って」
 僕は眼鏡をかけ直して手にしている企画書に視線を落とす。
「良い企画ですね」
「でしょう。受けてもらえるかしら?」
「はい。僕でよかったら」
 長浜の時の企画は僕の持ち込み企画だった。それが読者に気に入られて、このように次に繋がったのはやはり素直に嬉しい。
「こちらから頼んでおいてあれだけど、でも綾君、スケジュールは大丈夫かしら?」
 小首を傾げる彼女に僕は外した眼鏡をケースにしまいながら頷いた。
「ええ、大丈夫です。実はプライベートで北海道に行く予定があって、空けてあった時間がありますから」
「そう。では、お願いします」
「はい」
 にこりと微笑んだ編集長に僕も微笑んで、ぬるくなったコーヒーを飲み干すと、立ち上がった。
「それでは今日はこれで失礼します」
「はい。では詳しい旅行記の構成は綾君に任せますので、第一校の締め切り厳守、お願いしますね」
「はい」
 編集社を出ると春ももう終わりかけの風が僕の頬を撫でていった。
 その風に懐かしいライラックの花の香りがしたような気がしたのは果たして僕の気のせいだろうか?



 ―――――――――――――
【?V】


 わずかばかりの飛行機の旅を終えて僕は北海道に到着した。
 それから数日を僕は小樽とその周辺の都市で過ごして、旅行記の取材をする。
 その間にも幾度か僕は彼女と携帯電話で話す機会があった。
 どうやら彼女は今日から大学の休みを利用して一人旅をするらしい。行き先は教えてはくれなかった。まだ秘密なのだそうだ。お土産で僕をびっくりさせたいらしい。
 だけど実は僕の方もそれとまったく同じ理由で今回の旅行記の場所が北海道である事は彼女に秘密にしてある。彼女が見たがったあのライラックの花の写真を携帯電話の写真で撮って、それを彼女にメールで送るまでは。
 残念なのは実物のライラックの花を彼女に見せてあげられない事と、それを見た彼女の顔が見えない事。吹く風に揺れるライラックの花の香りまではメールでは届けられない。
 だからこそ、せめて今咲くライラックの花の写真を彼女に一秒でも早く見せてあげたいと想う。
「いつか一緒に連れて来てあげられればそれが一番いいんだけど」
 そう、一緒に。
 時折、綺麗なモノを見たり、綺麗な音楽を聴いたり、綺麗な話を聞くと、彼女の顔が自然に思い浮かぶ。
 忘れられないあの嬉しそうな顔。
 ただそれだけで僕の胸に広がるこの温かみを僕は何と呼ぼう?
 僕は眼鏡を外して視線を落としていた旅行記のメモからバスの車窓の向こうへと視線を移した。
 後ろへと流れていく窓の向こうの風景はいつしかはじめて見る北海道の風景からどこか懐かしいモノへと変わっている。
 僕は前に見たその風景を見て、顔が自然に緩むのを感じた。
「懐かしいな」
 前にここを取材してからは一度もここへは足を運んではいない。
 車内に流れるバスの案内放送を耳にしながら僕は降車ボタンを押した。
 


 +++


 札幌の時計台の前は多くの旅行客で賑わっていた。
 幾人かの旅行客の写真を撮って、それから僕は目当てだった時計台の写真を前と同じアングルでデジタルカメラで撮った。
 もちろん彼女に帰ったら見せるために。
 旅行記で書いた場所や、言葉だけでしか彼女に伝えられなかった場所。そういう場所をもう一度見て回って写真に撮って、頭の中で映像を文章に変換する。ここには来られない彼女を想像の中だけでもこの場所に連れて来てあげられるように。
 彼女にあの時に語らなかったもうひとつのライラックの花の物語を伝える時に一緒に。
 そう。今回の旅の目的はそれだった。
 当初の予定とは少し違ってしまったけど、僕はあの若い彼と彼女の物語の終わりと始まりを聞くためにここに来たのだ。
 偶然に出逢った二人。その二人の織り成した物語。見届けなかった結末を見るために。
 それを聞いて、彼女に伝えるために。
 彼らの選択した道の先にあるモノを僕は彼女にきっと見せたいのだ。ちゃんと見せたいからこそ僕はあの時に、僕ら二人の間にあったあの空間をその物語で埋めなかった。
 埋めるには先を知らないその話はあまりにも未熟で、尊く脆いから。
 僕が見たかったのは咲き綻ぶ花のような彼女の表情だったから。
 見せたかったのは、二人がその道の先に見た、感情(ひかり)だから。
 ―――そう、きっと僕はもうあの時に無意識にそれを見て、感じていた。



 ―――――――――――――
【?W】


 夕方少し前に僕はあの喫茶店に着いた。
「おや、これはまた懐かしい人が顔を出した」
 マスターはそう人好きのする笑みを浮かべた。
「こんにちは、槻島さん」
「ああ。こんにちは。お久しぶりです。それで今年はライラックの木はどうだったんですか?」
 僕のその言葉に樹木のお医者様は優しく微笑んだ。
「ええ、大丈夫。元気ですよ、あの木は」
「そうですか、それは良かった。マスターも安心なされたでしょう?」
「うん。そうだね、あの木は私と妻の大切な想い出の場所でもあり、また多くの恋人たちを見守ってきた木だからね」
 彼はどこか遠くを見るような目でライラックの木がある方を見つめた。それからマスターは視線を僕の顔に向けると、どことなく意味深げな表情をした。例えるのならそれは僕が推理小説を読んでいて、だけどマスターの方はそのトリックも犯人ももう読んで知っていて、それを言いたくってうずうずしているようなそんな感じの表情だ。
「何です、マスター。その表情は?」
「秘密です」
 子どものように笑う彼。
 樹木のお医者様までくすくすと何だか楽しそうな顔で笑っていた。
「僕ひとりだけ、わかっていないという感じですね。何だろう? 教えてくれませんか?」
 意外と子どもっぽいマスターよりかはきっと大人なはずの樹木のお医者様にそう問うと、ごまかすようににこりと微笑まれた。
 ダメだ。こちらも随分と手強い。
 僕は肩を竦める。
「まあ、綾君。コーヒーでもどうだい?」
「はい、いただきます」
「じゃあ、待ってて。とびきりのコーヒーを煎れてくるから」
「はい」
 僕は席に着いて、改めてあの日以来の店の中を見回した。
 どこか時が進むスピードが遅くなったような店の中の風景も、店内にたゆたうコーヒーの香りも本当にあの日のままで、だけどここに来るまでに見た街の中の光景はどこかやっぱり移ろいゆく時の流れを僕に感じさせていたから、だからそれが心に心地良かった。
「だからきっと彼女も毎週日曜日、ここへ来ていたのでしょうね」
 銀色の髪の下にある顔にとても優しい笑みを浮かべた樹木のお医者様に僕はこくりと頷く。
 どこか、樹木のお医者様はそう言った事にとても透明な表情を浮かべた。誰、かをひょっとしたら思い出していたのかもしれない。過去に別れてしまった誰か。その人を想う。その事に安堵と躊躇いを覚えながら。
 だって今をこの人は生きて、いるのだから。今を一緒に誰かと生きながらも、過去に別れてしまった人の事も同じように大切に想う。忘れられない………その感情に戸惑う。優しいから。恋しくて忘れられなくって、だけど手を伸ばせば今を一緒に生きている人を悲しませる。
「だけど僕は想うんです。過去を尊ぶ事も懐かしく想う事も決して悪い事ではない。過去に触れて涙流す事で癒されて、それで今を生きて前に行ける事もあるから。大切なのはその人にとって何が大切なのかをちゃんと見極める目と想い、勇気。色んな強さ。そして周りの優しさ」
「そうですね。そうだと想います。過去を一緒に生きた人と今を一緒に生きている人。どちらも大切で愛おしいからこそ、きっとそういう事が大切なんだと想います。自分が大切に想う人を守るためにこそ」
「はい」
 僕らは頷きあい、微笑みあう。
 香って来るコーヒーの香りに鼻腔をくすぐられて、僕はそちらを向く。
「はい、コーヒー。ちゃんと綾君好みの味に煎れておいたんだけど、どうかな?」
 にこやかに笑う彼の前で僕はコーヒーを啜る。それはとても美味しく、喉から胸に落ちた温かみが心地良かった。
 僕はコーヒーカップの温かさを確認するように子どもみたいにカップを両手で持って微笑む。
「はい、すごく美味しいです。マスター。ありがとうございました」
「うん。それでさっきから二人で何を話していたんだい?」
 僕らは顔を見合わせて、それでマスターに口にする。
「彼女の事です」
 そしたらマスターは何故だか残念そうに目を瞬かせた。
「何だ、話しちゃったのかい、お嬢さんの事」
「お嬢さん?」
 今度はお互いに目を瞬かせた。
「マスター。そちらのお嬢さんではなく」
「え? あ、ああ」
 ぱちん、とマスターは額を片手で叩いた。
「さっきから何なんです?」
「だからまだ秘密です」
 無意味にいい笑みでそう言うマスターに僕は肩を竦めて、溜息を吐く。
「それで彼女って?」
「槻島さんがいらしたあの日の事ですよ」
「ああ、その彼女」
 マスターはぱちんと手を叩いて、それから席から立ち上がると、カウンターの方へと行って、そうして戻ってきた彼の手には一通の封筒があった。
「その封筒は?」
「読んでいいよ、綾君」
 僕は鞄から取り出した眼鏡ケースから眼鏡を出して、それをかけると、封筒から取り出した手紙に視線を落とした。
 文面に目を通した瞬間に僕の脳裏に初めてこの喫茶店に来て、そして彼と彼女に出逢った時の事が鮮やかに蘇った。


 
 ―――――――――――――
【?X】


 リラ冷え。ちょうど僕はその言葉を飾るに相応しいライラックの花がある風景を探していた。
 旅館の仲居さんや、観光協会の人、そういう人たちにどこかとても綺麗なライラックの花が咲く場所を知らないか、と聞いて回り、教えられたら場所に行ってみたのだけど、どこも僕の中にあるリラ冷えという言葉の響きと風景が噛みあう場所ではなかった。
 若干の疲れと諦めを感じながら僕はそういえばまだ昼食を摂っていなかったことを思い出して、一軒の喫茶店に入った。
 午後2時を回った店内は人もまばらで席も空いていた。
 僕はその中から入り口近くの席を選んで座ろうとする。
「あ、すみません。その席は」
 ん? 慌てたバイトらしき男の子に僕は小首を傾げる。予約席であったろうか?
「あ、あの、いえ、大丈夫です、その席でも。すみません」
「予約席ではなかったの?」
「あ、や、そういう訳では………」
「すみませんね、お客さん。もしもよかったら他の席に座っていただけますか? そこはほぼ予約席でして」
 言いよどむ彼に助けの手を差し伸べたのはどうやらこの店のマスターらしかった。
 後ろに肩に妖精を乗せたとても綺麗な人を連れて現れたマスターはバイトの彼の肩をぽんと叩くと、頭を下げる彼に微笑んだ。
「悪かったね、お店を任せてしまって。忙しくなかったかい?」
「あ、はい。大丈夫です。ひとりでやれました。それよりもライラックの木は今年も健康だったんですか?」
「ああ、うん。大丈夫。健康そのものだったそうだ」
 マスターは綺麗な人を見て、その人も穏やかに微笑みながら頷いた。
 その彼らに僕は問い掛ける。
「すみません。この辺りにもライラックの花が咲いている場所があるんですか?」
 僕がそう問うと、綺麗な人の肩に乗っている妖精が嬉しそうに頷いた。
「はい、あるんでしよ。ここから歩いて10分ほどの所にあるんでし。すっごく綺麗なんでしよ♪」
「そうなんですか。あの、もしもよかったら僕もそこに案内してもらえませんか? 実は僕は」
 そうして僕は自分が旅行記を書いていて、リラ冷えという言葉に合うライラックの花が咲いている風景を探している事を告げた。
「ああ、なるほど。だったらもう少し時間を置いた方がいい。あそこのライラックの花はね、本当に夕暮れ時が一番綺麗なんだ。それまではここで過ごすといいよ。まずは何にしますか、お客さん?」



 +++


 ミートソースがかかった美味しいオムライスを食べ終えてから僕は二杯目のコーヒーを注文した。
 コーヒーが来るまで眼鏡をかけて、旅行記のメモに目を通す。
 そうしていると、隣の席の妖精が覗き込んできた。何でも彼女は樹木のお医者様をしているその綺麗な人の助手さんだそうだ。
「美味しかったでしか、オムライス?」
「ええ、美味しかったですよ。玉子ふわふわで」
 メモから彼女に視線を向けて、僕は口を綻ばせる。
「玉子はふわふわが一番でしよね。それがミートソースとケチャップライスによく合うんでし♪」
 顔をくしゃっとさせるスノードロップの花の妖精に僕も微笑む。
「うん、そうだね」
 どうやらこのスノードロップの花の妖精は随分と食いしん坊のようだ。だからコーヒーについてきた一口ケーキをあげると案の定彼女はとても喜んで、それを口一杯に頬張っていた。
「すみません。お邪魔をしてしまって」
「いえ、お気になさらずに」
 僕は顔を横に振って、それから眼鏡を外すと、樹木のお医者様に提案した。
「もしもよろしかったら少しお話を聞かせてもらってもいいですか? 樹木の治療法って知らないので興味深くって」
「ああ、それいいね。私も聞きたい。そういえばいつもライラックの木の事しか聞いてはいなかったから」
 自分の分のコーヒーを持ってこちらへやって来たマスターがほやっと笑う。
 それから樹木のお医者様はくすっと笑って、快諾してくれた。
 マスターはカウンターの方で洗ったグラスを拭いているバイトの子も手招きで呼ぶ。
「君もこっちに来てお話を聞くといい」
「あの、でもグラスがまだ…」
「それは後でもいいじゃない。ね。これも大切な人生経験だよ。ちょうど良い事に今はお客さんもいないし。15時までにはまだ10分早いけど、もう今日は上がってもいいよ」
 マスターはほやっと笑って押し通して、バイト君を自分の横に座らせる。
 僕と樹木のお医者様は見合わせた顔に苦笑を浮かべあった。
 どうもマスターとはこういう人らしい。
 それから僕らはコーヒーを飲みながら樹木のお医者様の話に耳を傾ける。木の治療法や土壌の汚染度を測るカナリアのような木の事、それから木にも感情があって、人に対して色んな事を想っている事。樹木のお医者様が見てきた人と木の物語。そういうたくさんの興味深い話を僕は心地良く聞いていた。
 店内のスピーカーから静かに流れる有線放送のジャズに重なって広がっていた樹木のお医者様の声。だけどその声がふと途切れる。
 その隙間を縫うようにからーんと店内に流れた扉につけられた鐘の音。
 新に店に入ってきた髪の長い女性の客。
 小さな声をあげるバイトの彼。
 それからの彼はちょっと、面白かった。目でその女性を追いかけて、それで店の入り口近くに座った彼女を見て、言葉が詰るような表情を浮かべる。何となく彼のその表情を見て、ああ、彼は彼女に恋をしているのだな、と想った。
 初々しい若者の恋。
 多分きっとそれは登校途中の電車の中の恋と同じ感覚なのだろう。今日こそは今日こそはと想いながら結局言えないままに高校3年間終わってしまうような。
 だけどバイト中ではなお更にそれも難しいか。いくらこのマスターでも。
 僕はこっそりと席から立ち上がってカウンターへと向かっていくマスターの背中を見ながら肩を竦める。
 マスターはグラスに水を注いで、熱いお絞りと一緒にそれをトレーの上に乗せて彼女の所へと歩いていく。
「いらっしゃいませ。ご注文はいつもと一緒でよろしいですか?」
「あ、はい」
 彼女はとても小さな声で言う。
「今日は遅かったんですね。何かあったんじゃないかって心配していました」
 そう言ってマスターはちらりとバイトの彼を見た。なるほど、彼の恋心はバレバレらしい。
「ええ、もう今日で………やめようかな、って想いまして…」
「ここへ来るのを?」
 こくりと彼女は頷く。
 バイトの彼は俯いてしまう。
「そうか。それは残念だね」
「あの、すみません。今まで色々と…その、ずっと、お店に居座り続けてしまったりして。迷惑でしたよね」
「いえ。時間は必要ですからね」
「え、その…」
 躊躇う彼女にマスターはほやっと笑って、
「ちょっと待てて。コーヒーを煎れてくるから」
「はい」
 マスターはそこに居る人数分のコーヒーを煎れて戻ってきて、僕らの前に温かい湯気を上らせるコーヒーカップを置いた。伝票にはそれは記載されなかった。
 それから僕らと彼女の座る席の間にある席に座ると、コーヒーを飲みながらマスターは口を開いた。
「やっぱり若い人たちの恋物語はいいねー。時たま老人の胸をきゅっと切なくするようなモノもあるけど、やっぱり見ていて心地いい。ああ、ライラックの花の花言葉は確かそういうような花言葉でしたよね」
 マスターは樹木のお医者様を見て、樹木のお医者様も頷く。
「はい。ライラック全般の花言葉は、愛の芽生え・愛の最初の感情・青春の喜び・若き日の思い出・初恋の感動・無邪気・若さ・友情です」
「所縁の日は5月2日、5月11日、5月12日、6月26日になるんでしよ♪」
 僕はちょっと驚く。5月2日は僕の誕生日だから。
 ひとり肩を竦めて、コーヒーを啜って、それから僕は穏やかな顔で話すマスターに視線を向ける。
「君たちも大切な人ができたらライラックの花を一緒に見に行くといい」
 それからマスターは僕を見た。
「これから綾君を連れて行く約束をしているライラックの木はね、私と妻を結び付けてくれたんですよ。ラッキーライラックの花の伝説。泣いている妻に黒髪黒瞳の可愛いらしいライラックの花の妖精が教えてくれた話」
 マスターは席から立ち上がった。
「ちょうどいい時間だから行こうか。店はもう今日は閉店にして」
 そしてマスターは彼女にも微笑みかける。
「君も一緒に来て、聞いてくれないかい?」
 彼女はほんの少し戸惑ったようだけど、こくりとマスターに頷いた。
 それから僕らはマスターについてライラックの木の所へと行った。



 ―――――――――――――
【?Y】


 夕暮れ時のライラックの木は確かにとても綺麗だった。
 リラ冷え。その言葉の響きを言葉にして紡ぐ僕の文章とその光景が頭の中で静かに噛みあう。
 マスターは静かに夕暮れ時の橙色の光りが溢れる中で語ってくれた。
 フランスに料理修行に行く事を付き合いだしたばかりの奥さんに告げて大喧嘩となって、怒っていなくなってしまった奥さんをここで見つけて、そしてプロポーズをした想い出を。
「このライラックの木の下で、妻は私と会う前にライラックの花の妖精と会っていたんだそうです。そして私の心変わりを恐れていた彼女に5つに花びらが裂けたライラックの花を見つけてくれたそうです。5つに裂けたライラックの花を飲むとね、愛する人が心変わりしないからと」
 マスターはワイシャツの胸ポケットを手で触れた。そこに何かとても大切そうな何かがあるように。
「いい話ですね」
「ありがとう、綾君」
 にこりと微笑んだマスターに僕も微笑みながら頷く。
 それからマスターの視線の先を追って、僕も彼女の方を見た。
 彼女は泣いていて、その涙を手で拭っていた。
 バイトの彼はそんな彼女をただ辛そうに見ているだけ。慰めたいのだけど、きっと彼女の迷惑にならないだろうかとか、そういう方向に気遣いが行ってしまって何もできずに空回っているのだろう。触れ合うための一歩が歩めない、彼。
 だから僕は彼の代わりに取り出したハンカチを彼女に手渡す。
「これをどうぞ」
「…でも」
「遠慮しなくともいいですよ」
「………すみません」
「いえ」
 彼女はハンカチで涙を拭いながら口を開いた。
「ここのライラック、前に一緒に彼と見に来た事があったんです。それが初デートで、その時に二人で食べたお昼ご飯がマスターのオムライスでした。それからもあたしたち、よくマスターのオムライスを食べに来て、待ち合わせ場所もマスターの喫茶店で、その後にまたライラックの花を見たいね、とか言いながらここに来たりもして。でもダメだったんです。彼に他に好きな人ができてしまって、それであたしたち別れてしまって」それから彼女は彼女自身がそのまま消えてしまうような泣き笑いの表情を浮かべた。「だけどあたし、まだ好きだから。彼の事、まだ好きで、それであたし、マスターの喫茶店にいつもデートしていた日曜日に行ってしまっていたんです。朝から閉店までずっと。そしたらいつか、彼もあのお店に来てくれるんじゃないかって。あたしがそんな風に想ったように。なんかダメですよね。馬鹿みたい。マスターのお店、時間がすごくゆっくりと流れているようで、だからまだあそこに居れば、二人一緒に居た時間が緩やかにそこでは流れているようなそんな気がしたから」
 マスターはぽんぽんと彼女の頭を優しく撫でた。
「またおいで。私のお店に来られるようになったら、また。その時には美味しいコーヒーとオムライスをご馳走してあげよう。それから一緒に想い出を語りましょう。今度は君がずっと私の店に来ていた時の想い出を。今はそれが辛いかもしれないけど、いつかきっとそれを笑って話せる時が来るから」
 静かな静かな夕暮れ時の世界にただ彼女が泣く声が響いていた。



 ―――――――――――――
【ラスト】


 泣いていた彼女は樹木のお医者様とスノードロップの花の妖精が送って行く事になった。
 そこでその三人とはお別れとなって、そして僕は期せずして今日、樹木のお医者様に出会った。
「そういえばあのスノードロップの花の妖精は今日は連れて来ていらっしゃらないのですか?」
 手紙から顔をあげて小首を傾げると、二人はなんだかそっくりの悪戯っ子のような表情を浮かべる。
「散歩中です。でもそろそろと電車の時間があるから、呼びに行かないといけませんね」
 立ち上がろうとした樹木のお医者様をマスターは手で止めた。
「ああ、待って。私が行くよ」
 マスターの穏やかな笑みに樹木のお医者様は何を見たのだろうか? くすりと微笑んで、席に座った。
 それからマスターは店を出て行く。
 樹木のお医者様は僕を見て、静かに微笑んでいて、それから僕が手にしている手紙に視線を向けた。
「お二人は良かったですね。幸せになれて」
 その言葉に僕も微笑んで、頷く。
「はい」
 そう。あの日、あの後の彼のがんばりと彼とマスターの優しさがきっと彼女の心を包んだのだろう。



 あの日、あれから彼はラッキーライラックの花を探し始めた。
 泣いている彼女に自分は何もできなかったから、と。
 だから次の日に僕にハンカチを返しに来る事になっている彼女にそれを渡せるようにと。
 僕はそんな彼の想いを眩しく想い、彼を手伝った。
 僕と彼、マスターの三人でラッキーライラックの花を探したのだけど、でも残念な事にそれを見つけられなかったのだ。
「珍しいからこそ何だろうけど、でもこれだけ咲いていても見つからないもんなんだね」
 それでもまだ目を凝らして、懐中電灯に照らした花を見つめる僕に彼は首を横に振った。
「すみません。もういいです。その、ラッキーライラックはなかったけど、でもその、それでも何とか頑張ってみたいと想います」
 そう言った彼の肩をマスターはぽんと叩き、それからワイシャツの胸ポケットから取り出したペンダントを彼の手の平に置いた。
「マスター、これは?」
「さっき話しただろう? 妻がライラックの花の妖精にラッキーライラックをもらった話。その花をね、妻はペンダントにして、お守りに持っていたんです。それを君にあげよう。君から明日、彼女に渡すといい」
 マスターにそう言われた彼はやはり当然の如く慌てるけど、でもマスターは優しく微笑んで顔を横に振って、そして彼は深々とマスターに頭を下げた。



 僕は仕事の都合で次の日に彼女が店に現れるまでここに居られなかったから、それからの事は知らなかった。
 だけど何となく想像はできた。
 きっと彼女は彼の想いを受け入れるのだろうと。
 彼は優しい子だから。
 そして手紙に書かれていたのは、僕が予想していた通りの彼と彼女の物語の続きだった。
 彼はペンダントを彼女に渡して告白して、それからゆっくりと二人の時間を過ごしていって、そうして今年の5月末に結婚をするそうだ。ライラックの花が綺麗に咲いている教会で。
 その結婚式の招待状に添えられていたのがこの手紙と、そしてラッキーライラックのペンダント。
「よかったですね、本当に」
「ええ」
 僕らが頷きあっていると、マスターと妖精が帰ってきた。
「こんにちは、妖精さん。お久しぶり」
「わわ、綾さんでし! お久しぶりでし♪」
 なぜか彼女まで両手で口を隠しながら嬉しそうに笑っている。
 僕は本当にただただ小首を傾げるばかり。
 そんな僕の肩にマスターはぽんと何やらとても嬉しそうに手を置いた。
「綾君、ライラックの花がとても綺麗に咲いているよ。見てくるといい。今が一番良い時間だ」
 そうだ。僕がここに来たのはそれが一番の理由。
「はい。それではちょっと行ってきますね」
 僕はデジタルカメラを持って、ライラックの木の所へと行く。
 あの日見たような世界のように綺麗で優しく柔らかな橙色の光りが溢れる世界の中を歩きながら僕は取り出した携帯電話のメモリーから彼女の番号を呼び出して、通話ボタンを押す。
 それからすぐに繋がって、挨拶。
『こんばんは』
「こんばんは」
『今回の旅行記の取材、そういえばどこに行っているんですか?』
「どこだと想いますか? 実はね――――」
 携帯電話で喋りながら僕は目の前の視界に入った美しく咲き誇るライラックの花を見て、
 それからそのライラックの木の下に見た風景に言葉を失う。
 ライラックの花をとても綺麗だと想った瞬間に浮かんだ彼女の顔。そしてそのまま見た風景の中に今まさに一緒にその風景を見たいと願った彼女が居たのだから。
 その事に本当に驚いて、そしてその後はただただ嬉しかった。
 会話の止まった僕らは照れたようにライラックの花の下で久しぶりに会う。
 それから手を繋いで一緒にライラックの花を見上げて、僕は彼女に語らなかったもうひとつのライラックの花の物語を語るために口を開いた。
 確かに繋いだ手に彼女の温度と感触を感じながら。


 ― fin ―



 ++ライターより++


 こんにちは、槻島綾さま。
 はじめまして。
 このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。


 今回はご依頼ありがとうございました。^^
 いかがでしたでしょうか? 綾さんサイドからの物語は?
 綾さんが見た、そして彼女がマスターからもらったラッキーライラックのペンダントにはこのようなもう一つのライラックのお話があったのです。^^
 あ、ちなみにハンカチは大事にマスターが取っておいてくれたので、ちゃんとこの後に彼女と一緒に喫茶店に戻った綾さんににこにこと笑いながら返されました。


 本当に今回はこのように綾さんのお話を書く機会を与えてくださってありがとうございます。^^
 とても嬉しかったです。^^
 綾さんと彼女の物語。本当に良い方向へと行って、お二人が幸せになられるのを願っておりますね。^^


 それでは今回はこの辺で失礼させていただきますね。
 ご依頼、本当にありがとうございました。
 失礼します。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
草摩一護 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年05月30日

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