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『蝸牛の午後 』
リラ・サファト1879)&藤野 羽月(1989)

 ぱらぱらという雨だれの響きに思考を引き戻されて、書物から顔を上げた。
 畳敷きの私室と廊下とを隔てる障子は一分の隙もなく閉まっていたが、それでも庭先からのまばらなその音ははっきり聞き取ることができた。昼頃から雲行きが怪しいとは思っていたが、やはり降ってきたかと藤野羽月は内心ひそかにため息をつく。
 雨の日はどうも気分が重くなる。
 洗濯物は干したままだったろうか。妻のリラは今では家事にもそれなりに慣れたようだが、元来がおっとりした性格なので、急ぐということがどうも苦手なふしがあった。洗濯物を濡らすまいと思うあまり、気が急いて転んでしまう彼女の姿をつい想像してしまい、少しだけ口元をほころばせる。いかにも彼女のやりそうなことだったからだ。
「手伝ってやらないとな」
 誰に言うでもなく呟いて立ち上がり、するりと音もなく障子を開く。朝方は天気が良かったので雨戸は閉めておらず、軒下から見上げる空は、すでに本降りの様相を呈し始めていた。意外と雨足が強く、庭土は暗い色に染まっている。
 濡れ縁から庭に降りようとして、干してあったはずの布団や洗濯物が廊下に並んでいるのに気づいた。
 二つ折りに積んだ布団の上では、茶虎の猫がのんきに丸くなっている。布団に触れてみると、まるで湿っていない。たぶん、降りそうなのに気づいて早めに取り込んだのだろう。
 リラも成長したものだと微笑ましく思い、猫の毛並みを撫でてやりながら羽月は周囲を見回した。
 さて、これを取り込んだ本人はどこに行ったのだろう?
 ともかく雨戸を閉めようと思っているところへ、ばしゃばしゃ水を跳ね上げる足音が近づいてくるのが聞こえてきた。なんだ? と眉を寄せていると、雨の中から現れた雨合羽が、羽月の目の前の濡れ縁に飛びついた。
「羽月さん、雨だね!」
 雨合羽は、もとい、雨合羽姿のリラは、弾むような声でそう言った。
「リラさん。どうしたんだ? 冷たいだろう、早く上がって……」
「それより羽月さん、私、いいもの見つけたの。ね、ちょっと来て」
「いいもの? ま、待ってリラさん、今雨戸を」
 目を輝かせたリラは羽月の手を引っ張り、つられて裸足のまま濡れた庭に下ろされそうになって羽月は慌てる。
 彼女が何を見つけたのかは知らないが、無邪気なリラがこう言い出したら付き合うしかないのはわかっていた。きらきらと目を輝かせて急かす妻をなだめすかして大急ぎで雨戸を閉め、羽月は玄関に回って履物と傘を取ってきた。
「こっちなの」
 家の裏手に回るリラのあとを、蛇の目傘をさして追う。
 雨足は相変わらず強く、早くも庭のあちこちがぬかるみつつあるのだが、リラはまったく気にしている様子はない。相変わらず水しぶきを元気に上げながら歩く姿は元気そのものだ。頭上の傘に打ち付ける雨だれの音を聞きながら羽月は、こんな雨の日には、本当なら家でじっとしていたいものだが……と思う。口さがない一部の知人は、「じじむさい」と評するかもしれないが。
「ほら、あれ」
 足を止めたリラの指す先に目をやる。
 家の裏に植えられた木の枝の上を、のったりとゆるやかにで進んでいるそれは。
「……蝸牛か」
「かたつむり?」
「雨の季節によく見る生き物なんだよ」
 へえー、と感心したような声を上げて、リラがかたつむりを覗き込んだ。葉の上からまばらに垂れてくる雫を気にする様子もなく、かたつむりは一心に枝を這っていた。そうっと指先でつつくと、慌てたように触角を引っ込める。
「あはは、面白いね」
「初めて見たのか? 蝸牛」
「うん」
 大きな殻を背負ったまま、蝸牛は枝伝いにのんびりと進んでいる。
「よく見つけたな」
「うん。あのね、お昼ご飯のとき羽月さん、午後から雨が降りそうだなって言ったよね?」
 そういえばそんなことを言ったような気がする。
「だから私、雨合羽を出してきて、濡れるといけないからお布団と洗濯物を取り込んで、お庭で待ってたんだよ」
「雨が降るのを?」
「雨が降るのを」
 怪しい雲行きを見上げながら、降らなければいいがと思っていた羽月には、それは意外な言葉だった。
「ほら、見て羽月さん。あそこ」
 今度はなんだろうと羽月が視線を移せば、軒下に張られた蜘蛛の巣を小さな水滴が飾っている。ずぶ濡れの雨合羽のフードの下で、どこか幼さを残す面が羽月を見て笑った。宝物でも見つけたように。
「きれいだねえ」
「そうだな」
 どこにでもある蜘蛛の巣なのにと、羽月は目を細める。家の中でじっと雨がやんでいるのを待っていたら、たぶんこんなものはずっと見られなかっただろう。
「見て見て、羽月さん」
 雨粒が合羽を叩くのも水たまりから飛沫がはねるのも、リラには楽しくてたまらないらしい。葉や屋根からぽたぽたと雫が落ちるのさえ興味津々の顔で眺めながら、ぱしゃぱしゃと水を蹴ったり、ときには飛び跳ねたりしながら裏庭を歩き回っている。まるで小さな子供のようだ。
 そういえばソーンに来る前の彼女は、ほとんど雨の降らないところに住んでいたのだと聞いたことがあった。
 別の世界からソーンに流れ着いたのは羽月も同じだが、それぞれが元いた世界はずいぶんと違っているようだった。羽月のいたところは毎年夏の前になると雨ばかりが続いて、じめじめした空気に気分まで重くなったものだった。ただでさえ雨にはいい思い出がなく、見ていると落ち着かない気分にさせられる。ずっと雨など降らなければいいのに……と思ったことさえあった。
 まったく逆に、雨が降ればいいのにと思ったことが、彼女にもあったのだろうか。

「あっ」
 声が上がって、羽月は一瞬ぼんやりしていた己に気づいた。一体何事かと声のしたほうに向かうと、リラが水たまりの真ん中でしりもちをついていた。つまずいた拍子に片方脱げたらしい靴が、水たまりの中に逆さまに転がっている。
「少しはしゃぎすぎたな、リラさん」
「ごめんなさい」
「謝ることはないけど」
 靴を取ってみると、中は泥水を吸ってたっぷりと濡れていた。
「仕方ないな。ほら」
 背を向けて屈みこみ、ここにおぶされ、と言外に示すと、戸惑うような気配が伝わってくる。
「羽月さんが汚れちゃうよ」
「気にしなくていいから。そうだ、傘、さしていてくれ」
 遠慮がちに、慣れた重みが背におぶさってきた。蛇の目が頭上にさしかけられたのを感じて、ゆっくり立ち上がる。相変わらず雨粒がぱらぱらと傘を打っているが、さっきよりも幾分小降りになっているようだ。肩に落ちかかってきたリラの紫の髪ひと房から、湿った雨の匂いに混じって甘い香りがした。
「ね、羽月さん」
「ん?」
「今の私たちって、かたつむりみたいだねえ」
 首をめぐらせて肩越しに振り向くと、この上なく幸福そうな笑顔と視線がぶつかった。
 かなわないなとかすかに苦笑する。
「リラさん。せっかくだから、このまま庭を一回りしよう」
 確かに蝸牛のようにのんびりとした歩みにはなるだろうが、二人で歩くなら雨の午後もそう悪くない。
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宮本圭 クリエイターズルームへ
聖獣界ソーン
2005年05月30日

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