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『マニュアル要らず 』
威吹・玲璽1973)&黒鳳・―(2764)

Side:R

 ちょいとお待ち。その声を聞いて俺は思わず肩を竦めた。その態度は何だと笑う相手には、何でもないと誤魔化しておいたが、本当はナンデモナイどころの騒ぎじゃねえ。
 …あのババアが俺を呼び止めてイイコトがあった例なんぞ、ただの一度もねえっつうの。
 案の定、ババアが俺に寄越したのは、映画の鑑賞券と屋内プールの割引券だった。
 「…これを俺にどうしろと?」
 「焼いて喰えるもんなら、喰っても構わないがね?」
 そう言って相手は楽しげに笑う。笑いながら俺の肩越しに手招きして誰かを呼ぶから、反射的に俺は振り返る。ババアに呼ばれ、やってきたのは黒鳳だった。何だか妙に怖い顔をして、こっちを睨み付けている。
 「何だお前。ンな険しい顔してよ」
 本当は、その理由も分かっていたが、敢えてそう尋ねてやる。俺の顔がニヤニヤしてたんだろう、クロは目を吊り上げて俺をねめつけた。
 「玲璽には用なんかない。黙ってろ」
 「はいはい」
 俺は肩を竦め、喧嘩腰のクロを遣り過ごす。まともに相手をすればそのまんま喧嘩になるだけ、しかもこの雇い主の前でじゃ、最後には二人揃って怒られ、挙句、面倒な用事を押し付けられんのがオチだ。そんな俺の態度を見透かしたような目で笑い、ババアが口を開く。
 「いやね。玲璽が映画とプールに行きたいそうなんだが、寂しい事に一緒に行ってくれる相手がいないのさね。黒鳳、一緒に行っておやり」
 「はぁ!?」
 俺と黒鳳が同時に叫ぶ。同時に互いの方を見て目が合う、そして同時にぷいっと反対方向に顔を背けた。
 「だからなんで俺がクロと一緒に映画に行かにゃならねえんだよ。つうか、何時何処で俺が映画とプールに行きたいって言ったんだよ!?」
 「おや。違ったのかい?お前の目がそう語ってると思ってたんだがねぇ」
 くすくすと相手が笑う。この表情は、明らかに何か企んでいる時の表情だ。普通の奴なら、いい加減にしろの一喝で済む話だが、今回ばかりは相手が悪過ぎる。ババアの手が、受け取りあぐねていた俺の胸元にチケットを押し付ける。反射的に受け取り、俺は奴の顔を見た。
 「どっちにしろ、明日からお前達二人は休みだよ。どうせ、寝て過ごすだけなら出掛けておいで。ここでごろごろされても、他の従業員の目の毒だからねぇ」
 だったら休暇なんぞ寄越さなきゃいいだろうが。と言いたかったが、それは敢えて言わなかった。溜息交じりに、分かったよと返事を返すと、ババアが満足げに黙って頷く。とりあえず、その場を立ち去ろうと歩き出した俺の背中に、ババアが声を掛けた。
 「ああ、それと。明日、取引相手と食事をする予定だったんだけどね、行けなくなったから。かと言って折角予約したのにキャンセルするのも勿体無いからね。お前達、代わりに行っておいで」
 「………」
 俺は返事もしないでただ片手をひらりと振り、了承の合図とする。取引先云々って話も胡散臭いところだ。大体、あのババアが仕事相手とわざわざ予約までして一緒に飯なんざ食うかね。だがまぁ、これ以上ツッコんでも、どうせ暖簾に腕押し、糠に釘。豆腐に鎹、猫に小判…は意味が違うか。明日の事を思うととてつもなく疲れた気分になり、多少よろよろしながら店の方へと歩いて行く。だが、心の隅っこには、明日の事を楽しみにしている俺も確かに居て、自分で自分が不可思議だった。

side:H

 その日、店の裏手で話し声がするので何とはなしにそっちへ歩いていってみると、玲璽とあの方が話をしていた。玲璽は相変らず、あの方に反抗的みたいだ。ったく、なんで玲璽はいつもいつも、あの方に逆らう事しか考えてないんだろう。あの方の偉大さが、玲璽如きでは理解できないのだろうか。そんな事を考えて、玲璽の背中をぼんやり眺めていたら、玲璽と向かい合うあの方と目があった。びくりと身を竦ませる俺に向かってにっこり微笑み、あのお方が俺を手招く。立ち聞きを咎められたかと一瞬背筋が冷えたが、あの方の目は怒ってはいない。であれば、何も怖れる事はない。俺は胸を張って玲璽とあの方の傍へと歩み寄った。
 「何だお前。ンな険しい顔してよ」
 玲璽の顔がニヤニヤとやらしい笑みを浮かべる。顔を強張らせていた自覚なんか俺にはなかったが、そうなってしまった理由は分かる。玲璽が、見分不相応にもあの方と親しげに言葉を交わしていたからだ。それを、俺が自覚する前に玲璽に見透かされて、俺は当然と言うべきか、むっとして唇を尖らせる。玲璽には用なんかない、そう吐き捨てると玲璽の奴「ハイハイ」なんて気のない返事を寄越しやがった。そんな様子を、あの方は可笑しそうに見ている。そんなあの方の様子を見るのは俺としてはやぶさかでは無いが、続いてあの方の口から出てきた言葉にはさすがにびっくりした。
 「いやね。玲璽が映画とプールに行きたいそうなんだが、寂しい事に一緒に行ってくれる相手がいないのさね。黒鳳、一緒に行っておやり」
 「はぁ!?」
 思わず俺は叫ぶ。叫んだ後で、映画ってなんだろうと思って玲璽の方を見た。が、玲璽の表情にはただの驚きだけで疑問の欠片も浮かんでいない。分かっていないのは俺だけか、と思うと悔しくて、俺はぷいとそっぽを向いた。なんやかんやと言い合っている玲璽とあの方をぼんやり眺めつつ、俺はまだ映画ってなんだっけ、とかプールに行って何をするんだ?とか色々考えていた。玲璽があの方に食い下がっているのは、その事についてではなさそうだ。どうやら、俺にはまだまだ知らない事がたくさんあるようだと気付いて、ちょっとだけ俺は俺が情けなかった。ほら、とあの方が何かを俺に手渡す。それは紙切れで、中を開くとどこかの店の住所と名前が書いてあった。これは?とあの方の方を見ると、あの方はにっこりと微笑み、ひとつ頷く。
 「これはお前が持っておいき。あの男に渡すと、失くすのが精々だからね」
 それだけ言って、あの方はその場を立ち去っていく。一足先に玲璽も歩いて行ってしまっていたから、この場には俺だけが取り残された。俺はもう一度、そのメモを眺める。良く分からなかったが、それを大事に懐に仕舞い、俺もその場を立ち去った。

 後になって、映画とは何かを思い出した。が、映画を映画館に観に行った事はない。何でも、初めて体験する事は楽しいし嬉しい。そんな気持ちが表情に現れていたんだろうか、映画館で隣同士に座った玲璽が、俺の方を見てにやにやと笑った。
 「何だクロ、えらいご機嫌じゃねぇか。そんなに俺と映画に来れたのが嬉しかったか?」
 そんな言葉で俺を揶揄うから、俺は思わず、
 「馬鹿な事を言うな。お前と一緒だからじゃない、初めてだから嬉しいだけだ」
 と、正直に言ってしまった。それを聞いた玲璽の目が驚きで見開かれる、ついで、大声でゲラゲラと笑い始めた。
 「初めてぇ!?嘘ッ、信じらんねぇ!お前、どこの田舎モンだよ!」
 「う、煩いッ!」
 激昂して俺は怒鳴り返す。そうこうするうち、何かアナウンスがあって明かりがフッと消え、場内は足元に仄かな電灯が灯るのみの、中途半端な暗闇になった。本能的なものか、視界の奪われた俺は思わず身体を強張らせる。そんな中、玲璽の呑気な声が聞こえてきた。
 「ったく、毎回毎回お前には笑わせて貰うわ、マジで。他にもあるだろ?ん?車を見て、目に見えない馬が引いてるのだと思ってたとか…」
 「そこまで馬鹿じゃない!」
 緊張していたのも忘れて怒鳴り返した俺だったが、周りから突き刺さるような視線を浴びて慌てて黙り込む。どうやら、映画ってのは黙って静かに見るものらしい。隣の玲璽も神妙な様子で口を噤んだ、この鈍い男でも視線の痛さに気付いたぐらいだから、よっぽどな事を俺達は仕出かしたらしい。俺も玲璽も、黙って居住まいを正し、正面の大きなスクリーンを眺めた。
 映画が始まった。登場人物は数人の男と女、その中でも、一人の男と一人の女がメインらしい。拳銃も乱闘も喧騒もない。静かに話は進んでいく。殴り合いも撃ち合いもなく、時折混ざる女の泣き声も、さめざめと静かなものだ。メインの男と女は、何かと言うとくだらない事で喧嘩をしては衝突している。それでも、相手が現われそうな場所を選んでやって来て、それで遭遇するとまた同じ事を繰り返している。厭なら会わないように画策すればいいのにと考えたが、そんな二人が、ふと誰かに似ているような気がして俺は首を捻った。
 いつしか、男と女は互いに惹かれ合っていた事に気付いて恋に落ち、結ばれる。展開が唐突なような気もした、だが悪くはない。ふと気付くと、他の観客達は互いに寄り添いあって映画を観ているじゃないか。どうやら、こう言う類いの映画には、男女一組で来るのがお約束らしい。恐らく、奴らはそれぞれに恋人同士なのだろう。俺達も実は男女一組であった事を思い出し、俺は横目で玲璽を見た。玲璽は、どんな顔をして、この甘い映画を見ているんだろう。
 「………」
 ガツ!頭で考えるより先に身体が動いていた。俺の拳が、隣で居眠りこいてやがる玲璽の頬にヒットした。玲璽は声もなく驚いて目を覚まし、きょろきょろと辺りを見渡す。殴ったのは俺だと知ると何か言いたそうにしたが、山場に差し掛かっていたらしい映画を楽しんでいた他の人達の視線がチクチクと刺さり、玲璽は残念そうに座席に座り直し、腕を組んだ。
 その後も、何回も同じ事を繰り返した。玲璽は、一体何しにここへ来たんだ?

Side:R

 押し付けられた映画の鑑賞券には、その題目までは記されていなかった。深く気にせずその映画館へとクロを伴ってやって来たはいいが、デカデカと掲げられた看板を見て俺は、思わず脱力してその場にしゃがみ込みたくなった。
 その映画館が、ここいらで一番でっかい箱な事は別にいい。俺達を追い越して次々に入場していく、他の観客が何故か殆ど二人組で、しかも男女のペアだって事もいい。公開中のその映画が、今のブームを反映してか、韓国映画な事もまぁいいさ。
 …だがな。内容が恋愛モンってのは…どうなのよ、俺。
 クロは、そんな映画の内容なんぞに特に注意を払う訳でもなく、俺を置いてさっさと中へ入っていこうとする。その足取りが妙に軽いように見えて、俺は首を傾げる。映画館は指定席で、俺達の席は、近からず遠からずの一番ベストな位置だ。クロと並んで座った俺は隣のアイツの顔を覗き見る。その顔は何やら嬉しそうに綻んでいるから、俺は思わず、
 「何だクロ、えらいご機嫌じゃねぇか。そんなに俺と映画に来れたのが嬉しかったか?」
 なんつって。そんな俺の可愛らしい冗談に、クロは本気になって食って掛かる。しかもなんだって?映画観んのが初めてだぁ?
 思わず笑い飛ばした俺だったが、同時に、その理由も何とはなしに察する事が出来た。詳しい事は知らないが、黒鳳の常識知らずなところや並外れて際立つ戦闘能力や身体能力が、あいつの人生が一般的でなかった事を俺に教えてくれる。俺は咄嗟に、クロを揶揄って真意をうやむやにした。騒いだ所為で、周囲からの視線がすげぇ痛かったが、あいつが昔の事を思い出して凹むよりはいいさ。
 だが。やっぱり、この俺に恋愛物と言うチョイスは…間違ってるだろ、絶対。惚れた腫れただの、ヒトサマの恋模様なんかどうでもいいじゃねぇか。ったく、この世は物好きばっかりだぜ。そんな事を考えながら観てたんで、当然俺は映画そのものの興味を失う、だがその他にする事など勿論あり得なく…そんな中で俺が出来る事といえば、ただひとつ。
 寝る事だけだっつーの。
 ずっと黙ってる事も敗因だろうな。俺はそんなお喋りな方じゃねぇけど、やる事なくてつまんなくておまけに黙ってれば、誰だって寝るって。目を閉じると聞こえてくる韓国語が、ちょっと風変わりな子守唄に聞こえてくる。ウトウト心地良い眠気に誘われていると、不意に目の前を眩い星が散った。
 「!?」
 飲み込んだ吐息が喉に引っ掛かり、声が出ない。目だけ瞬いていると、次第に頬の辺りがじんわりと熱くなる。まさか俺…、殴られた?!
 隣の黒鳳を見ると、何だか怖い目で俺を睨んでいた。ぷい、とそっぽを向いてスクリーンを凝視する。どうやら俺が寝こけていた事が気に入らなかったらしい。いびきでも掻いてたか?とちょっと思ったが、まさかな。
 殴られた頬を手で擦りながら、俺は黒鳳の方を横目で伺う。クロは映画に熱中しているようだ。こう言う映画に夢中になるってあたり、クロもやっぱり女って事か。可愛い所もあるじゃねぇか、と俺は思ったかもしれない。
 …俺が居眠りする度、ゲンコで殴ったりしなきゃな。

 屋内プールも、映画館と同じで、ここいらの所謂デートスポットと言う奴だ。俺にもクロにも縁のない場所だが、それでもこうして一緒に来ているっつうのも何だかなぁ。恐らく、他の奴らの目には俺達もそう言う仲だと思われてんだろうな。…この事は、クロには黙っておこう。喧嘩のタネになるだけだ。
 更衣室から出てきた黒鳳は、一気に周囲の注目を集めていた。さして際どい水着でもないが黒鳳のプロポーションは際立っていて、そこいらで自慢げにボディを披露している女どもを軒並み翳ませている。尤も、周りの奴らはそれ以上に、クロの左腕を彩る刺青が気になっているようだ。そう言えば俺も、こうして意識して見たのは初めてだ。クロの左肩から肘辺りに掛けてある、結構デカい鳥の図柄。所謂和彫りとは趣を異にするが、昨今流行りのトライバルタトゥともチト違う。似てはいるがな。
 不意に、俺の中に湧き上がる、奇妙な感情があった。何だろう。もやっとするよな、胸の真ん中に、もそもその何かを突っ込まれて掻き回されているよな感覚。それは、他人の視線を一身に集めているクロに向けられたものなのか、それとも、どう言う類いかであれ、クロを見詰めている奴らに向けられたものなのか。それはある種の不安に形を変え、人の目があるとは言え、開けてはいるが隠れる場所の多いこの場に、無防備な格好のクロを放置している事の危険さを俺に思い出させた。俺は大股でクロに歩み寄り、その腕を掴んで引き寄せる。驚いた顔でクロが俺を見上げ、すぐにきつい目で俺を睨み付けた。
 「なんだ。じろじろ見てる方が悪いんだろう。思い知らせてやって何が悪い」
 え?…ああ、何だ。クロの奴、俺が咎めたんだと勘違いしたんだな。と言うか、一般市民を殴ろうとしていたのか、お前。
 「あのなぁ…お前が殴ったら、大抵の人間は即死しちまうだろうがよ」
 「それのどこが拙い」
 拙いんだよ。一応、ここは法治国家・日本なんだから。黒鳳の論理は酔天周辺では立派に通用するが、ここは違うんだっつうの。
 「いいから、お前は頭冷やしてろ」
 そう言うと俺は、掴んだ腕を力任せに引っ張り、黒鳳をプールに突き落とす。派手な水飛沫が上がって、クロの赤い髪が海藻みたいにゆらりと揺れた。飛び込まないでください!とかって監視員が怒鳴っているのが聞こえたが、そんなの無視無視。
 水の中で浮きながらクロが、何やら俺に向かって怒鳴っている。ひとしきり騒いだ後、ぷいとそっぽを向いて向こうへと泳ぎ出した。どこで覚えたか、クロの泳ぎは達者だ。凛々しい黒鳳の泳ぎは、人魚のそれと言うよりはどちらかと言うと海神のそれだ。
 …海神は、確か男だったような気もしたがな。

Side:H

 …プールだ。
 久し振りだな。大陸にいた頃、訓練で息が切れて沈むかと思う程、散々泳がされた覚えがある。最近は全然泳いでいなかったが、多分身体が覚えているから大丈夫だろう。
 更衣室で着替えてプールサイドに出て行くと、何か周囲がざわめくような気配がした。途端、俺の身体は総毛立つ。乱雑なこの空気に混じって俺に向けられる視線の幾つかに、ちくりと棘が刺さるような感覚のものがある。悪意、或いは殺意、と言う程のものじゃない。だが、巧妙に隠されたそれの気配なら、棘程度にまで抑えられるかもしれない。
 俺は不意に思い出した。俺は、こんなところでのんびりしてていい人間じゃない。
 自然と俺の歩みは速くなる。無意識で玲璽の姿を捜していた。…何故?玲璽が居たって、何の役にも立たない。幾ら玲璽が腕が立つと言っても、相手はプロ中のプロだ。敵う筈がない。下手に立ち向かおうものなら、確実に命を落とす。
 …俺は、玲璽の事を案じているのか……?
 立ち止まり、俺はゆっくりと周囲を見渡した。素肌に、長い毛先が擦れて擽ったい。もう一度視界を巡らせようとして、俺はひときわキツい視線をこの身に受けた。自然と、俺はそちらを向く。そこに居たのは一人の女だ。見覚えはない。だが、あの組織は完全な縦社会、横の繋がりは殆どないから、俺が顔を知らない始末屋が居たっておかしくも何ともない。が、この女は違うだろう。肌の露出の方が断然多い水着を着て、俺を視線で殺す勢いで睨み付けているが、その目には殺意の欠片もない。あるのはただ、…良く分からない。俺には縁のない類いの感情のようだ。俺の身体を、頭の天辺から足先までじろりとねめつけ、はんと鼻を鳴らす。その態度がカチンと来たから、俺は殴り付けてやろうと思って一歩踏み出した。
 「!?」
 がくん、と身体が引っ張られ、俺は後ろにずっこけ掛ける。見ると、いつの間にそこに居たのか、玲璽が俺の腕を引っ張って険しい目で睨み付けている。…ばれたのか。
 「なんだ。じろじろ見てる方が悪いんだろう。思い知らせてやって何が悪い」
 俺がそう言うと、玲璽は呆れたような顔で大袈裟に溜息をつく。
 「あのなぁ…お前が殴ったら、大抵の人間は即死しちまうだろうがよ」
 「それのどこが拙い」
 拙いに決まってるだろ、そんなような顔で玲璽は俺を眺め下ろして来る。その視線に、何か言い返そうと思ったら…プールに突き落とされた。
 「なにするんだよ!」
 水飛沫の中、一回底まで沈んで俺は浮き上がり、頭だけ出して玲璽に怒鳴り付ける。玲璽はと言うと、素知らぬ顔でそっぽなんか向いてやがる。
 「聞いてるのか、玲璽!俺は荷物じゃないぞ!」
 何を言っても、玲璽はとぼけた顔で頬を指で引っ掻いてるだけだ。ムカついたから、俺はそのまま向こうに向かって泳ぎ出す。身体に纏わりつく水の感覚は気持ちいい。母親の胎内で羊水って水の中で、赤ん坊はみんな泳いでいたから、水の中では人は安堵を覚える、とか何とか聞いたような気がする。俺は、母親の事なんか覚えてないが、それでもやっぱり水の中は心地いいと感じるって事は、こんな俺でも、母親の腹ン中で大きくなった、って事か。
 いつしか俺は、さっき苛立った事も何もかも、綺麗さっぱり忘れていた。

Side:H&R

 玲璽と黒鳳が、二人並んで呆然と立ち竦んでいる。場所は銀座の一等地。主が、自分の代わりに行って来いと教えた店は、門構えからして高級そう、入っていく客達も正真正銘の紳士淑女、平たく言えば、玲璽も黒鳳も全く縁のないような、本格的に最高級のレストランであったのだ。
 「…おい、本当にこの店なんだろうな?」
 黒鳳が主から受け取っていたメモ書きを、玲璽は穴が開くほどに見詰める。だが、何度見ても、その住所も店名もこの店で間違いがない。二人の横を一台の高級外車が滑り込んできて停車し、着飾った男女が降りてくる。二人を胡散臭そうな目で見るので、ついうっかりいつもの癖で睨み付けて怯えさせてしまったが、そんな目で見られなくとも、自分達が場違いである事は百も承知だ。
 「マジかよ、あのババア…どう言うつもりだ、クソッ」
 「だからババアと言うなと言ってるだろう。…なんだ玲璽。知らない店で怖気付いたのか?」
 黒鳳が鼻で笑う。反射的に玲璽は黒鳳を睨みつけた。
 「てめ、誰に向かって口聞いてんだよ。常識知らずのお前と一緒にするなっつうの」
 「それは今は関係ないだろう。俺はこんな店、怖くも何ともないぞ?」
 そう言うと黒鳳は、胸を張って堂々と店の入り口を潜ろうとする。ギャルソンに迎え入れられる直前、玲璽の方に視線を寄越して勝ち誇ったように笑う。片眉を高々と上げた玲璽も急いでその後を追い、黒鳳と共に店内へと入っていった。
 二人が案内された席は、店内でも一番いい場所だ。恐らく、特別な上客だけが座る事を許される席なのだろう。他の客達はその意味を分かっているから、極めてラフな格好の、こう言う場に如何にも馴染んでいなさそうな玲璽と黒鳳の二人に訝しげな視線を向ける。従業員達は教育が行き届いているのか、そんな素振りは一辺も見せないが、内心では同じ事を思っているに違いない。
 席に着いた玲璽に、まずはとワインリストが手渡される。傍に控えるのは当然ソムリエ。平然を装って玲璽がリストを開くが、その途端、玲璽の目が見開かれる。
 『……読めねぇ…』
 リストは、全てフランス語で書いてあったのだ。
 ワインに赤と白とロゼがある事ぐらいは分かる。このリストが、ワインリストである事も(それは手渡したソムリエがそう説明したからだが)肉には赤で魚には白、とかその程度の事も聞いた気がする。が、だからと言って、この横文字がずらりと並んだリストの中から的確なものを選べる筈もない。
 「………」
 「どうした、玲璽」
 「…いや。考えているだけだ」
 とは言ってみたものの、この、言語と言うよりは模様に近い文字の羅列を幾ら眺めていたって分からないものは分からない。ええい、儘よ!と玲璽は、胸を張って幾つかの文字の列を指差した。
 ソムリエの表情が、一瞬固まったような気がした。が、今となっては後に退けない。ソムリエも、客に恥を掻かす訳にはいかない。互いの利害が一致し、ソムリエは畏まりましたと恭しく頭を下げ、リストと己を下げた。玲璽が、身体の中に溜まった緊張を溜息と一緒に吐き出した。
 どんな店であろうとも、分からない時は分からないと言って良い事、ソムリエはプロなのだからこちらの味の好みを伝えて任せてもいいし、ひとつひとつ説明を受けたっていい事。それらの事を知らなかった、玲璽と黒鳳が敗因なのだろう。
 …後々、料理と一緒に運ばれて来たワインは、年代が違うだけで実は全部同じ種類のものだった。

 出された料理は全部食べたが、食べた気がちっともしないのは何故だ。真っ白のテーブルクロス、その上にずらりと並べられた銀のカトラリー。グラスも大小取り混ぜて幾つもあって何が何だか分からなかった、と言うのが正直な二人の感想だった。喧嘩腰、強がりで入った高級店だったが、食事を終えて出てくる頃、玲璽と黒鳳は、厳しい戦線を生き抜いてきた、戦友同士のような気分になっていた。
 「…くそ、…あのクソババア、覚えてやがれ…」
 玲璽の苛立ちは、自然と主へと向けられる。精神的に疲れ果て、脱力していた黒鳳だったが、その言葉には敏感に反応して玲璽を睨み付けた。
 「だから、ババア等と失礼な事を…」
 「ババアはババアだっつうの。絶対、今日の事は嫌がらせに決まってるぜ?」
 「…そう、だったのか」
 黒鳳が一瞬、戸惑ったような表情を浮かべた。
 「…そうか、…嫌がらせだったのか……」
 俺は楽しかったのにな、そんな呟きが聞こえたような気がしたが、その小声は風に紛れてしまった。
 「と言うか、玲璽に対してだけの嫌がらせだったんじゃないのか?俺は、あの方に嫌がらせされるような覚えはないぞ」
 「それはどう言う意味だよ!」
 寝静まった夜の街に、いつもの怒鳴り声が響き渡る。それは、酔天の近くに辿り着くまで、延々と繰り返されていたと言う事だ。


 次の日、二日目の休日の日。玲璽も黒鳳も、昨日の疲れが出たか、死んだように一日中眠り続けていたと言う…。


おわり。


☆ライターより
 いつもありがとうございます!碧川桜でございます。
 今回は、いつもよりも妙に長文(普段の碧川比)になってしまいまして…(汗) ダラダラとした印象がなければいいなと思っていますが、如何だったでしょうか?
 ではでは、またお会いでき…って次はグループ3ですね(笑) もう少々お待ちくださいませ♪
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
碧川桜 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年05月27日

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