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『華風 』
マリィ・クライス2438)&四宮・灯火(3041)


 蓄音機のホーンが心地良い音量でバイオリンを謳っている。
 
 空模様は圧し掛かるような雲に覆われ、雫が、いつ終わるとも知れず地に注がれる。
それは骨董を扱う「神影」の上にも等しく注がれ、雨音が、小さな調べを連れ立って窓を叩く。
 蓄音機が謳っているのはスプリングソナタ。明るい希望に満ち溢れた、まさに春を称えるに相応しい曲だ。
 神影の中には、主以外の影はない。朝から続く雨のせいだろうかと、主は妖艶な黄金を細ませた。
 主の名はマリィ・クライス。彼女は今、不意に出来た退屈な時を有益なものとして愉しんでいる。
店の奥の一室で、花の香りを漂わせる紅茶を傍に。蓄音機からは流麗な調べ。何より、マリィの手には一冊の書がおさまっている。マリィはその頁に指をかけ、ゆったりとした仕草でカップを口に運ぶ。


 *

私(わたくし)の盲た両の眼は、私というものがこの世に生を受けてからこの方、唯の一度たりとも時の移ろいというものを、そしてそれに併せて巡り変容するのだという四季の景観というものとを、映し得た試しがありません。
代わりに私はこの四肢をもってそれらの気配を、触感を感じ取り、そしてこの鼻をもって時の移ろいを嗅ぎ取る能を得ているのです。
其れに、私は幸運にも、金銭的に恵まれた家に生を受けたので、眼が見えぬという以外にはさほどに困窮するような事にも立ち会わずにすみ、それなりの恵まれた日常を安穏と過ごす事が出来ているのです。
これは、おそらくは、天に坐するという神の戯れなる幸運の賜物と、それに反比する試練とであるのだろうと、私はなにものをも映さぬ眼で空というものを仰ぎ感じるのです。
さて、前述しました通り、私は良家の家の、さらに一人子でありましたから、私の不自由を案じた父母は、広大な敷地を買い取り、私の為にと一棟の屋敷を建ててくだすったのです。
私はその屋敷の一室にて、阿蘭陀やら英吉利やらから船で運び入れた調度品に囲まれ、安穏と日日を過ごしていたのでありました。
さて、私がここに特に記し遺しておこうと思いますのは、その屋敷の内での、ふとした不可思議な出来事なに就いてでございます。

広大な屋敷にて、私は老いた侍女を供に、庭の散策をして居りました。
無論私の眼は、庭の景観をも映す事が出来ません。
然し、私は靴も履かぬこの足裏で、そしてこの鼻で、今という季節を識ったのです。
「足に触れるこの芝の柔らかさと、頬を撫ぜて通って往く風の暖かな事。もう春を迎えたのね」
そう問うと、侍女は私の手をゆったりと引きながら、「エエ、そうでございますよ」と口にします。
「お嬢様は御目が不自由でいらしている分、代わりに素晴らしいものを幾つも御持ちでいらっしゃいますねエ」
感嘆の息を洩らす彼女に、私はウフフと笑ってかぶりを振ってみせました。
「エエ、そうよ。私の目は陽の何たるかをも透しはしないのだけれど、その分、鳥や風や葉擦れの詩が聴こえるわ。私には彼等の詩が秘めた言が解ってしまうのよ」
「マァ、羨ましい。それでは今、そこの枝に一羽の鳥がございます。彼の鳥は一体どのような言を紡いでいるのです?」
そう言って、侍女は私の手を引き、ひんやりとした幹に導いたのです。
それは触れますと、ふうわりと柔らかな香を放ち、それまでは幾らか凪いでいた風が、私の頬に春の知らせを舞わせたのです。
其れは櫻の一片でした。私はそれを指に取り、開けても意味を成さぬ両の眼を薄く開いて鳥の詩に耳を寄せました。
「ホオジロね。可愛らしい声」
幹に触れていた手を幹の上へと伸ばし、鳥の声に指を伸ばす。ホオジロは怖れる様もみせずに詩を紡ぎ、心地良い言を私の耳へと寄せたのです。

 
 *

  
 カタリ

 小さな物音に、マリィはふと目を上げた。
訝しく思い眉根を寄せて、音がした店の方へと視線を向ける。
「……客が来たっていうわけではなさそうだねぇ」
 肩を竦め、傍らに置いたままのカップに手を伸ばす。カップの中に残っていた琥珀色は、もうすっかり冷めていた。

 カタリ コトコトコト
 それは小さな音だった。そう、子供が、ゆっくりと歩いて来る音によく似ている。
 マリィはその音の主を悟り、さきほどまでは活字を追っていた金色を穏やかに緩ませた。
「起きてきたのかい、灯火」
 座っている椅子の肘掛けに頬づえをついて見つめる先には、愛らしい日本人形のような少女が立っている。
少女はマリィの言葉に言葉なく頷き、それから、深い青を浮かべた瞳をマリィの手の中の書へ向けた。
「……御本を読んでいたの……?」
 どうにかすると、窓を叩いている雨音に飲みこまれて消えそうなか細い声。マリィは灯火の問いに微笑を返して頷いた。
「朝からこの雨だろう。客足もまるでないものだしね、ちょいと久しぶりに店の書棚を整理し直してみたのさ。そうしたらこれが見つかってねぇ」
 灯火に向けてひらひらと揺らして見せるその本は、題名も著者名も記されていない、ひどく薄っぺらいものだった。
「曰くのある御本なの……?」
 続けて訊ねる灯火の横を抜け、マリィはカップとポットを用意する。
「雨のせいで少し冷えるね。春ももう過ぎたっていうのにさ」
 イヤになっちまうよ、全く。そうぼやきながらも、マリィはカップ二つに新しい紅茶を注ぎ入れた。
「見てみる限り、そんなに古い品じゃないんだけれどもね。ほら、書き手の名前も、本のタイトルもないだろ? しかも未完のままだってのもあってね、しかも開くと幻が見えるってんで、引き取り手も見つからなくってねぇ」
 再び椅子に腰を下ろし、マリィはそう言って小さく笑う。
「……幻?」
「何でも、見た事もない庭で、そりゃあ見事な桜が見えるって話さね」
「見事な桜……それなのに引き取り手がつかないの……?」
 真っ直ぐな視線を向けてくる灯火に、マリィは目を細ませてカップを口に運ぶ。
「興味を惹かれて持っていくコレクターは確かにいるけれどもね。それにしては著者名もないような品じゃ、持っていても落ち着かないんだって言うんだよ」
「……それで、マリィ様にはその景色、見えたのですか……?」
「残念だけど、一度も見えた試しがないのさ」
「見て、みたいですか……?」
 
 マリィの微笑が、灯火の言葉に、大きく華やかなものになっていく。
 椅子を軋ませて立ちあがり、灯火の傍へと寄って、その艶やかな黒髪を一撫でし、それから窓の外へと目を向ける。
「考えてみたら、私ねぇ、今年は桜を見逃してんだ。花の盛りには、ちょうど仕入れで海渡ってたからさ」
 ひとつ、頼めるかい。そう微笑むと、灯火はほんのりと紅をさしたような赤い頬を動かして、かすかに笑みを浮かべた。
 
 灯火が小さな手を伸ばすのを、マリィは静かに見つめている。
 止まない雨は店の窓を叩き続け、花の散った地をしっとりと鎮めていく。
 蓄音機が奏でていたソナタが曲の終わりを告げ、バイオリンは謳うのを止めた。
 つ、と。灯火の指が活字を追う。――――と、活字は見る間に桜の花びらへと姿を変えて、ふわりふわりと宙を踊り出したのだ。
 足元は、柔らかな芝で覆われた一面の緑。見上げればそこには薄青で染まった春の空が在る。

「――――見事な木だね、灯火」
 春野の中、マリィが笑う。その傍らで、灯火がふわりと目を細ませた。
「……マリィ様、鳥の声が聞こえます……」
 灯火の言葉にマリィは視線を移し、飛び立っていく鳥の姿に目を止める。
「ああ、あれはホオジロだよ」
「……詩を口ずさんでいるように聞こえます……」
 マリィの視線に合わせるように、灯火もまた鳥の姿に目を向けた。
 マリィは微笑を浮かべ、風になびく黒髪を軽く撫でつけながら頷いた。
「――――季節の慶びを詩っているのかもしれないねぇ」

 春の色で染められた花が、流れるように空へと舞い昇っていく。


―― 了 ――
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東京怪談
2005年05月27日

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