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『▲刀真と瑠宇の引っ越し大騒動記〜Second〜▼ 』
夜崎・刀真4425)&龍神・瑠宇(4431)


 朝の日差しに煌く水流へ手の器を作ってすくい、心地良い冷たさのそれを顔で弾けさせた。3回ほど同じ動作を繰り返した夜崎・刀真は首にかけていたタオルで水滴を拭う。天に広がる透き通った青空と同様に気分が晴れ晴れとしていた。
 小鳥のさえずりを聞きながら、木立の多い公園の水飲み場で軽く屈伸をする。体調も良好で普段の1.5倍は体が軽い気がした。絶好調というやつだ。
「おい、瑠宇。そろそろ起きて準備しろ」
 木陰に積まれたダンボールを揺らす。客観的に見ればゴミの山でしかない塊がモゾモゾと動き、言葉を成していない可愛らしい声が発せられた。正面のダンボールが口を開く。寝ボケまなこをこする少女――龍神・瑠宇が顔を出した。小さく唇を開閉してアクビをしている。
「おはよぉ〜、トーマ〜。どっかおでかけするの〜?」
「昨日言っただろ。ここを出る、てな」
「あ〜、そっかぁ〜。瑠宇、もっといたかったなぁ〜」
 寝床をなくして1ヶ月、周辺地域住民の刺さる視線を浴びつつ公園の片隅で過ごしてきた。水道も完備されている場は便利ではあったが、ふと我に返った時に辛くなる。反対に、いつも楽観的で無邪気な瑠宇はキャンプ気分で楽しんでいたのだろう。彼女は満更でもない様子で家があろうとなかろうと元気一杯だった。苦労をするのは刀真1人だ。
 そんな日々とも今日で別れを告げることになる。ついに移転する住居が決まったのだ。近場で家賃も手頃、あとは入金を済ませれば決定する。
 雨からダンボールハウスの天井を守ってくれた青いビニールシートを畳んだ。瑠宇と共にダンボールも潰していく。1ヶ月も寝床にすると愛着が湧くものだ。それなりに雨風をしのいでくれた家を撤去するのは感慨深かった。
「行くのか、アンタら」
「ああ、色々と世話になった」
 薄汚れたツナギを着たヒゲの男が歯を磨いている。公園のホームレスを統率している存在だ。途方もなく彷徨っていた自分達に東京での野宿の仕方を教えてくれたのが彼だった。ダンボールやビニールシートを用意してくれ、ハウス作りのノウハウも懇切丁寧に指導してもらった。社会の落伍者の如く扱われている彼らも話してみれば悪い人間ではないと分かる。
「おんや、瑠宇ちゃん行っちまうんかい。おりゃぁ寂しくなるのぉ」
「俺タチャ〜、ずっと瑠宇ちゃん親衛隊でいるからな〜」
「んだんだ、またいつでも遊びに来てくんろ」
 自然と他の住人が集まってくる。刀真としては再び野宿生活へ戻るのは勘弁してもらいたかった。百歩譲って遊びに来るぐらいは良しとしよう。短い期間で瑠宇はすっかり彼らのアイドルになって崇拝されていた。また遊ぼうね〜、と満面の笑みをして彼女は1人ずつ握手をする。アイラブ瑠宇、と書いてあるハチマキをした男が涙ながらに一言二言交わした。
 長く生きていると変わった縁もあるものだ。軽く挨拶回りをして出入り口へ足を向けた。名残惜しそうな表情の瑠宇がパッと明るくなる。
 花道があった。出入り口の両側に整列したホームレスの皆が摘んできたらしいタンポポや菜の花を腕につけてアーチを作っている。見当たらない者が幾人もいると思えばこの準備をしていたようだ。励ましや応援の言葉を投げかけられながら2人は通っていく。振り返ると公園で暮らすホームレスによる盛大な拍手が湧き起こった。
「これは手土産だ、賞味期限が1時間しか切れてねぇ上物。頑張れよ、あんちゃん」
 ツナギの男に礼を言い、コンビニハンバーグ弁当を受け取る。瑠宇にはアルミ缶集めで得たと思われるささやかなお金で買った菓子が与えられた。最近の小学生ほども所持金に余裕がないはずなのに良くしてくれる心の広さに感謝した。
 立ち止まる瑠宇の手を引いて刀真は踵を返した。互いの姿が見えなくなるまで応援の声が聞こえてきた。
「また会えるよね〜♪」
「ああ、会えるさ。いつでも、な」
 死ぬわけではない、それぞれの生活が違う場所で始まるだけだ。
 新しい家が待っている。その前に、臨時の清掃バイトで稼いだ入金のための金を受け取りに行かなくてはならない。刀真と瑠宇は真っ直ぐにバイト先へ向かったのだった。


「どういうことだ、これは?」
 オフィスが集中したビルの一室が事務所になっている――なっているはずだった。事務机や資料、電話にテレビ、仕事の主役である清掃道具が所狭しに置いてあった室内が、ドアを開けるとありとあらゆる物がなくなっていて解放感に溢れていた。窮屈に感じていた部屋が大きく感じる。別の階に引っ越しでもしたのだろうか。万が一そうだとしても短期バイトとはいえ自分に伝言があってもいい。
「トーマ〜、こんなの見つけたよ〜♪」
 通路で待っていた瑠宇が紙切れを持って浮遊してくる。ドアの前に落ちていたらしい。上部に付いたテープの粘着力が弱まっていて剥がれたのだろう。
「4月1日は過ぎたよなぁ」
 刀真は表情を強張らせて紙を凝視する。そこにはこう書かれていた、一身上の都合により夜逃げします、と。バイト代はもらえず、踏み倒されたことになる。つまり大家への入金もできない、できないと住めない、公園に逆戻りしなくてはならない。
 どこへ向かったのかを示す手掛かりがないか室内の隅々を探し歩く。角や柱、窓枠やドアをくまなく調べる。
「なーんにもないね〜♪ お引っ越ししたのかなぁ〜。そしたら瑠宇達と一緒だね〜♪」
 さすが清掃を担っているだけあってチリ1つ見当たらなかった。瑠宇は自分の状況が分かっていないようで、同じ、ということに舞い上がってピョンピョン跳ねている。刀真も笑い声を上げる、彼女とは違う乾いた笑いを。
 かつてないぐらいに茫然自失して膝をついた。入金の期限は夕方までだ。無理を言ってバイト代の入る今日この日まで先延ばしにしてもらっていた。予定していた収入がなくなったとすれば諦めるほかにない。
 鬱々とした気分を払うように首を振る。弱気になってはダメだ。確かにここのバイト代は霧消した、責任者らもおそらく遠くへ逃げているだろう。しかし金を作る方法は他にもある。180年を生きてきた英知を活かし、金策をするのだ。
 野宿はもう十分に満喫した。仙界に関わりがなくとも尸解仙だ、せめて人並みの生活がしたい。強風に煽られることのない家でゆっくりと眠りたい。切実なる想いの一心で刀真は立ち上がった。
「行くぞ、瑠宇!」
「うん♪」


 仕事を探す、といえば求人情報誌だ。コンビニの雑誌コーナーで刀真はページをめくっている。一般的な普通のバイトではタイムリミットに間に合わない。多少はキツくとも時給の高いものがいい。条件に合いそうな情報を目で追っていく。隣の瑠宇もマネをするように同じ雑誌を見て唸っている。
 望ましい額がもらえるバイトとなるとどれもこれもが怪しげだった。やたらと安全をうたった治験のバイトや都市伝説としか思えない死体洗いなどばかりだ。おまけに数日間の拘束が必須とされているので即対象外になる。
 服の裾を引っ張られて見ると瑠宇が雑誌の1箇所を指差していた。
「500万円ももらえるんだって〜。そしたらトーマ、お金持ちだね〜♪」
「それ、マグロ漁船だろ。最低1年間は帰ってこれないんだぞ」
「じゃあ瑠宇も行く〜♪」
「いや、そういう問題じゃなくてだな」
 思わず頭痛がして頭を押さえる。金を作ろうと思い立ってから大した時間も経っていないのに早くも八方塞がりとなってしまった。だいたいどこかの正社員になったとしても容易に稼げる額ではないのだからバイトでは不可能なのだ。バイトで解決するのなら短期間でも集中的に働いて溜めなくてはならない。だからこそここ数日はせっせと働いてきたのだ。それがまさかバイト先の夜逃げという形で裏切られるとは考えもしなかった。
「いや、待てよ。そうか、バイト先か!」
 音を鳴らして雑誌を閉じ、瑠宇の首根っこを掴んでコンビニを出る。見慣れた景色を駆けた。人混みを縫うように走り、通れそうにない場所は縮地を駆使する。驚きの目を向けてくる人々も気にせず猛烈な勢いで進む。
 なぜ気がつかなかったのか不思議なぐらいだ。刀真はメインとして働いている喫茶店のバイト店員でもある。バイト歴は長く、ベテランとされている位置付けだ。必然として店長とも付き合いは長くなる。他のどの店員よりもずっと信頼されているだろう。バイト代の前借りをさせてもらえるに違いない。また臨時の短期バイトを入れて鬼のように働けば3ヶ月で返せる。
 そんな明るい未来は暗い店内によって崩された。入り口に掛けられたCLOSEDのプレート。ガラス越しに覗いてみると人の気配すらなかった。そして思い出す、今日は休業すると知らされていたことを。いつもシフトの入っている土曜日だというのに自分がバイトに出ていないのがなによりもの証拠だ。
 落ちこむのはまだ早い。バイト繋がりで借りればいい。慕ってくれている後輩の顔が浮かんだ。この際、先輩としてのくだらないプライドは捨てることにした。袖に潜めていた手帳を取り出し、公衆電話へ入る。電話代10円も惜しいところだが状況が状況だ、躊躇していられない。コインを投入し、慎重にボタンを押していった。
 まさか不在ということはないよな、と本日の悪い流れから考えてしまう。
 コール音が静かに鳴り響く。回数が増えるごとに鼓動を早まらせる。
 もしもし、という応答があった時には安堵の溜め息が漏れた。
「俺だ、夜崎だ」
「ああ、先輩ッスかー。休みの日になんて珍しいッスねー。いまなにしてんスか? 僕は沖縄来てるんですけどー」
「物は相談だが、実は――沖縄……?」
「はい、バカンス中ってやつです。こっちはもう夏を先取りって感じッスよー。で、なんか用ッスか?」
 終わった、そう思った。
 いや特に用事ってほどでもない邪魔したな、と一方的に早口に言って受話器を下ろす。バイトもダメ、ツテをあたってもダメ。思いつく手段はあと1つだった。
 再び受話器を手にしてボタンを押す。今度はすぐに通話が繋がった。
「あー、入居予定の夜崎ですが」
「あら、待ってたわよ。お金は用意できたの?」
 やや老いた感じの女の声が聞こえてくる。引っ越すアパートの大家だ。
「それが、入金をもう少し待ってもらえませんか。1週間、いや3日でも――」
「あのねー、夜崎さん。台所に風呂も付いて家賃も安い部屋なのよ、アナタ以外にもキャンセルされたら入れてくれっていう人が何人もいるの」
「そこをなんとか」
「ダメ」
 ブツリ、と通話が切れる。単調で虚しい気分にさせる音がリピート再生された。
 自分が尸解仙であるというアイデンティティが普段より倍に薄れていく気がした。


 あちこちを駆け回り、クレープの屋台脇に設置されたベンチへ座る頃には昼になっていた。気力は消費していてもせめて体力は回復しておこうと賞味期限の切れた弁当を自棄食いする。瑠宇はクレープを食べていた。ねだられて強引に買わされたのだ。所持金は増えるどころか減る一方だった。
 背もたれに寄りかかり、ひたすらに茫然とする。向かい側に並ぶ店の前を様々な人間が行き交っていた。誰も彼もが裕福そうに見えてくる。20代そこそこの青年や高校生らしき少女も自分よりは金を持っているのではないか。1人が自動ドアを通って看板の立てられた建物へ入っていく。銀行だ。
 銀行に借金をするにしても審査を受けなくてはならないだろう。日数を要する上に、フリーター同然の身に多額の金を貸してくれるとも思えない。
 視線を移動していく。刀真の双眸に控えめな看板が映った。
 クレープの生クリームで口の周りを汚した瑠宇をつれてほとんど無意識で歩く。
 2階へ続く狭い階段を上った。突き当たりにあったドアノブを回す。
 いらっしゃいませー、というにこやかな口調と表情で受け付けの男が出てきた。
「少し金を貸してほしいんだが大丈夫か?」
「はいはいはい、問題ありませんよ。はい、この通り」
 デスクへ無雑作に札束が積まれていく。かつて見たこともないほどの金額だ。築き上げられた1万円札のピラミッドを前に唖然として生唾を飲みこむ。アパートどころかマンションにも住めそうだ。審査もなにもなく軽々とこれだけの金を出されて急に恐くなった。どんなに凶暴な野獣や辛い修行を前にしても微動だにしなかった脚が小刻みに震える。
 スマン、と振り切るようにして刀真は瑠宇を抱えてサラ金を出た。やはりここは手を出してはいけない領域なのだ。公園のホームレスにサラ金に借りて企業の社長から転がり落ちることになったという昔話を聞いた。借金を返すために借金をするという地獄が待っている。それと比べれば野宿生活の方がマシだ。
 肩を上下させて呼吸する。逃げてきたはいいものの金を工面する方法は尽き果てた。深く息をして刀真は最終手段を選択することにした。気の進まない足取りでとある店を目指す。
 周囲の建物と比較して割りと小さなところだった。年季物ののれんをくぐって引き戸を開ける。ややホコリっぽい据えた匂いが漂っていた。店内は木造の古いタンスや時計、電話といった物が乱雑に置かれている。
「おや、アンタかい。今日はどうしたんだ」
「刀剣類を買ってくれ」
 過去にもちょくちょく金に困っては売りにきたことがあった。メガネを掛けたこの年老いた男の店主とは、いまではちょっとした顔見知りだ。
 袖に持った刀剣を次々に出していく。老人は、いつ見ても不思議な特技じゃな、と感嘆の声を上げた。どれどれ、と鑑定用のレンズを出した彼が1つ1つ手に取っていく。
 中には苦難を共にした思い出の得物もいくつかあった。尸解仙となる前から使っていた愛用の物もあるぐらいだ。月日を経て価値が上がっていてもおかしくはない。
「ほい、じゃあこれね」
 間もなくして店主が取り出したのは千円札3枚だった。
「待ってくれ! いくらなんでもこれはあんまりじゃないか?」
「これでもマケた方なんだよ。こんな物騒なもん持ってたら違法所持になるからね、誰も買わんのさ。嫌ならいいよ、全部持って帰ってくれて」
 完全にこちらの心を見透かされているようだった。もしかしたらこの老人は自分よりも格上の仙人なのではないだろうか。少しでも多くの金が必要だと読まれているのではないか。疑惑は絶えなかった。
 刀真は伸ばした手を刀剣の横へ移動させ、千円札を握り締めて大事にしまった。どちらにしても少しでも多くの金を要する。まいどー、という声を背で聞きながら質屋を出た。
「トーマ、泣いてる〜? ポンポン痛いの〜?」
「大丈夫、大丈夫だ、心配するな。金になど俺は負けないぞ」
 まるで自分に言い聞かせるようにした。刀剣を繰り出して活躍する自身の場面を掻き消して歩く。
 しかし当てらしい当てはもはや皆無だ。万策が尽きる、とは正にこのことを言うのだろう。頼りない歩調で街を彷徨っていく。人間の世界で生きるという厳しさを痛感した。アパートへの引っ越しに今回は縁がなかったと思うしかないのかもしれない。
 歩いていると長蛇の列ができているのが見えた。老いも若いも男も女も種々様々の人間が並んでいる。妙に気になって最後列にいたスーツ姿の男へ訊く。
「占いですよ」
「占い?」
「ええ、ここの占い、最近話題になってるんですけどね。本当によく当たるんです。私なんて先物買いで大儲けさせてもらって300坪の家を建てましたからね。今度は会社を起こそうと思って、ここに来たんです」
 興味がますます湧いてくる。顔を見ておく程度はしておいてもいいだろう。こういったことで有名になる者は人間を超越した能力を有していることも多い。もし才能のある者ならば託してみるのも1つの手だ。
 暇だよ〜、と退屈そうにする瑠宇をなだめつつ刀真が並ぶこと1時間、やっとのことで自分の番が回ってきた。濃い紫の小屋ともテントともとれる占い場へ入っていく。
 異国の服装を思わせる黒いローブを着た女がいた。対面のイスに促されて座る。
 僅かに歪みが感じられた。確かに彼女は特殊な力を持っているようだ。占い料の千円は痛いが、試してみる価値はある。少なくとも自分で行う占術よりは頼りになりそうだった。
「今日の夕方までに金がいるんだ。どうしたらいい?」
 女は妖しく微笑んで水晶玉へ手をかざした。中央のあたりを見つめ、1人でなにかを納得している。もちろん刀真には一向になにも見えてこない。
 彼女は言う。
「馬が見えます」


 イメージしていたよりも若い層の者や男女のカップルも多くいた。動物園や遊園地にでも来たかのようだ。ごった返す人々にぶつかりながら場内を行く。微かに聞こえる喝采と断続的に打ち鳴らされるひづめの響き。
 刀真と瑠宇は競馬場に来ていた。占い師によると、思う通りに賭ければ莫大な財産を生むらしい。どの馬が来る、というような具体的な話ではないので半信半疑だった。だが家を建てたという男の話が頭に残っている。家でなくてもアパートに住むための資金があればいい。それぐらいならば、と思えてきて結局来てしまった。
「トーマ、お馬さんが一杯いるよ〜♪」
「そうだな。それよりあんまりちょろちょろするなよ、迷子になるぞ」
 売店で買った競馬新聞を穴が空くほど見つめる。今日は大きいレースがあるらしく、18頭もの馬名が記されていた。どれも1着に来そうであり、来なさそうでもある。未経験ゆえ、考えたところで分かるわけもない。こういう時は消去法だ。新聞に書かれた予想屋の情報を頼りに手堅い馬へ絞っていく。
「1番と7番は論外だな。あとは、これとこれも――」
 拾った赤鉛筆でバツ印をつけていく。
 予想範囲を半分ほどまで収縮していると後ろから瑠宇に抱きつかれた。競馬新聞が巻き添えを食ってクシャクシャに折られる。
「瑠宇もやりた〜い♪」
「しょうがないな。ほら、これで好きな馬に賭けてきていいぞ」
 100円玉を1枚渡す。彼女は瞳を輝かせて小さな手で掴むと、やった〜、と跳ねてパドックの方へ走っていった。これでゆっくりと予想できる。ここからが悩みどころなのだ。芝よりもダートが得意と書かれてはいても、良好な成績や人気を考えに入れるとどんな知恵を駆使しても混乱してしまう。
 そんなこんなで刀真は3番にマル印をつけた。よし、と決意する。3番単勝1点買いだ。
「あ〜、3番かい、兄ちゃん。そりゃ素人のやることだわな〜」
 新聞を覗き見るようにした肌の浅黒い小さな中年男が傍にいた。すっかり短くなったタバコをしつこくも吸っている。風貌や雰囲気からしてもベテランの匂いを漂わせた人だった。
「悪いことは言わねぇ、5番のクロハチイーグルにしとけ」
「しかし、クロハチイーグルは体重が減りすぎてる。確かに成績はいいかもしれんが、2400メートルを走り切れるかどうかという不安があるだろ」
 5番は初めの方で除外した馬だった。どう考えても3番が妥当なのだ。しかし長い物には巻かれよという言葉もある。生きている時間が彼の何倍はあっても、競馬に関しては立場が逆だ。
 タバコの煙を大きく吸いこみ、吐き出した男が唇の片端をつり上げてニヤリと笑む。
「馬にはそれぞれ適正の体重があるんだ。クロハチイーグルの今回の体重はズバリ能力を最大限に引き出せるものだな。競馬歴25年の俺が言うんだから間違いねぇよ」
 力強い自信が彼から感じられた。ハズレるわけがないという確固たるなにかが双眸に映っている。
 占いの結果で出た、自分の思う通りに、というのは案外深い言葉だった。自分で決めていない馬へ託していいものか、それともアドバイスを受けてそうだと納得したら思う通りに賭けていることになるのか。
 決心の色を眼に宿し、男へ向き直った。
「アンタを信じる。5番のクロハチイーグルに単勝で1点買いだ」
「いい眼をしてやがる。兄ちゃん、立派な勝負師になれるぜ」
 差し出された手を握り返し、刀真は微笑する。
 レース開始が近いこともあって馬券売り場には人が集まっていた。ベテラン男のあとを追い、最短と思われる列へ並ぶ。
「いくら賭けるつもりだ?」
「とりあえず5千円だな」
「バッカ、あり金全部賭けろ。いいか、勝てる時に勝っとけ。それが勝負師ってもんだ」
 彼の発言には妙な説得力があった。ふーむ、と考えを巡らせる。全財産を失うのは想像するのもおぞましい状況だ。ただし5千円で当たったとしてもせいぜい5万円にしかならない。素人の自分が小さく賭けていてもいずれは文無しになってしまうだろう。
 順番がやってきた。受け付けの女が応対してくる。
 単勝5番に、と言って刀真は袖に手を伸ばした。
「あり金全部だ」
 万が一の時のために蓄えていた金だった。これでハズレれば正真正銘の文無しだ。代わりに、当たれば数十万円にはなる。
 野宿なら2・3ヶ月は暮らしていける金と引き換えに1枚の馬券が渡された。5番クロハチイーグルの名が大きく印字されている。このちっぽけな紙に自分の人生がかかっていた。
「トーマ、こっちこっち〜♪」
 レース場のゴール横にあたる特等席で瑠宇が手を振っている。深刻な気持ちの刀真とは打って変わって彼女は祭り騒ぎだ。基本的にイベントが好きなのだろう。苦笑をして横に立つと瑠宇が肩車のポジションに飛んできた。巨大なモニターが設置されているので無理をして肉眼で見なくてもいいのだが彼女らしいといえば彼女らしい。
 ファンファーレが奏でられる。いよいよレースの始まりだ。馬券を持つ手に力が入って汗ばんでくる。
 ゲートが開いた。誰かのラジオから発せられる実況の声。
『各馬一斉にスタートしました。先頭に飛び出たのは3番オワリノモチカネ――』
 まとまった馬の群れが次第にほぐれていく。1番手に来たのは刀真が初めに予想していた馬だった。賭けている馬は中央で争うように並んで走っている。
「おい、話が違うぞ。あんなところにいて本当に勝てるのか?」
「まぁ見てろ。俺の競馬歴25年を侮るなよ、勝負は第4コーナーからだ」
 口元を歪めて中年男がモニターを見据える。
 周囲の歓声に紛れて心臓の鼓動がハッキリと耳に響いた。当たらなかったら野宿、ホームレス暮らしに舞い戻る。地域住民の冷たく刺さる視線を背に受けながら生活しなくてはならない。男の言うように最後の最後まで我慢をしようと思った。まだ負けると決まったわけではない。
 ひづめを打ち鳴らす音の波が押し寄せてくる。3番の馬がいまだに先頭をキープしている。第4コーナーを回った。ゴールは直線を行けばすぐのところにある。刀真にできるのは祈ることのみだった。
 それは通じたようだ。残り僅かにしてオワリノモチカネが馬群へ沈んでいく。交代をするように5番のクロハチイーグルが躍り出た。男へ目を向けると、彼はニッと笑って親指を立てる。
「疑ってスマン。酒でもオゴらせてくれ」
「なぁに、いいってことよ。これぐらい朝飯前だ、礼はいらんよ」
 観客が一気に頂点まで湧いた。5番の馬が大きくリードして独走している。ゴールまで1ハロン。勝ちは決定的だった。
 その時だ。
『おーっと! クロハチイーグルどうした、故障か! 勝利を目前に馬群へ埋もれていくーっ!』
 聞き間違いかと思った。
 瞬時に視線を戻し、状況を振り返る。なにがどうなったのか、5番は群れから引き離されて不自然な走り方をしている。他の馬が塊となって次々にゴールをしていった。混戦のため審議ランプが点灯する。
 5番が1着でないのは一目瞭然だった。
「いったい、なにが……?」
 訊こうと向けた眼にはなにも映らなかった。先程までいた中年男がいつの間にか消えている。
 逃げられた。
 瞬く間に紙クズへと化した馬券が手を離れてヒラヒラと舞い散る。会場のあちこちでも同じようにクズ馬券が宙を飛んだ。文無しになったショックが男を捜す気にさせない。最終的に判断したのは自分だ、自業自得だった。
 肩に乗っていた重さがなくなり、背を優しく叩かれる。瑠宇がニコッと笑った。刀真の口を出たのは、スマン、という一言だけだ。また明日から公園での暮らしが待っている。彼女も巻き添えにしてしまった罪悪感に胸の奥を突かれて痛んだ。
 瑠宇が大事そうに持っていた物を掲げる。
「トーマ、これ〜♪」
「ん? ああ、そういえばお前も買ったんだったな。どれ、なにに賭けたんだ?」
 瑠宇の馬券を見る。単勝ではなく馬連で賭けられていた。単勝よりもずっと当たる確率が少ない。おそらくなにも知らずに賭けたのだろう。苦笑をし、馬の番号をチェックする。100円を賭けて当たったところで大した額にはならないだろうが、念のため見ておいて損はない。
 そしてもう一度苦笑いが漏れた。
「1−7って、俺が初めに論外だと判断した馬だぞ? 2人とも大ハズレだったな」
 やれやれ、と息をついて周りが騒がしいことに気づく。レースが終わっても尚、盛り上がるようなことがあるのだろうか。様子を窺うように辺りを見渡す。
 置き去りにされたラジオが興奮した声を流していた。
『1−7、1−7です! なんと大波乱が起きました! 超大穴の2頭が揃ってゴールインです!』
「え?」
 首を傾げ、電光掲示板に表示された数字を確認する。既に審議の結果が出ていた。
 瑠宇と顔を見合わせる。彼女は満面の笑みを浮かべていた。つられて刀真も表情を崩さずにはいられない。小さな体を持ち上げるようにし、瑠宇を抱き締めたのだった。


 天井が見える。少し古さを感じさせる作りでも気にならない。肌に触れる畳の弾力が、ここが家なんだ、と思わせてくれる。ただそれだけで身も心も休まった。
 窓の外はもう日が落ちかけている。大家への入金はギリギリで間に合い、ついに引っ越してこれることになった。物のない殺風景な部屋ではあるが、寝床があるという現実が存在していればそれでいい。
「瑠宇、今夜なにか食べたい物あるか?」
「ん〜、ケーキ〜♪」
 体を起こし、刀真は微笑する。そう来るだろうと思っていた。
 途中で寄って購入したスーパーの袋を見せてやる。中にはイチゴのパックとスポンジケーキがあった。少女は無邪気な笑顔をして喜びを露わにする。
 台所に立った刀真は一緒に買った生クリームをボウルで掻き混ぜた。瑠宇にはイチゴのヘタ取りをさせている。
「なぁ? なんで1−7なんて穴馬に賭けようと思ったんだ?」
 ほとんど誰もが避けるであろう万馬券だ。100円が札束へ化けるからといって賭ける者は少ない。
 瑠宇はイチゴを1つ口へ放りこみ、幸せそうな表情をして言う。
「当たったら"いーな"て思って1−7にしたんだよ〜♪」
 そうか、と笑んで肯く。
 賭け事は欲があればあるほど呑まれてしまうものなのだろう。彼女が大きく当てるのも納得できた。初めから瑠宇に任せておけば更に大金を得られたかもしれない。
 いや、と考えを否定する。この思考自体が欲なのだ。
 なににしても瑠宇の手柄で今日からここが寝床になる。風も雨も完全にしのげる立派な城だ。
「よし、とびっきり美味いのを作ってやるからな」
「やった〜♪」
 連続して飛び跳ねた瑠宇が着地音を立てる。
 ――数分後、引っ越して早々に大家からの苦情が来たのだった。


<了>


■ライターより■
毎度、ありがとうございます〜!

2度目のシチュノベツインということで^^

前回の引っ越し失敗後、ということもあり楽しく書かせてもらいました☆

発注文にあった内容が充実していたので大きく飛び出ることはありませんでしたが、

部分的にちょこちょこといじりました。

はてさて、いかがでしたでしょうか〜。

瑠宇がお荷物になっているかと思えば締めは彼女なんですねぇ。

合っていないようで、互いを補う見事なコンビですよね^^

人並みの生活を送ってほしいです(w

さて、少しでも楽しんでいただけたら幸いです〜☆

またの機会がありましたら、ぜひぜひよろしくお願い致します♪
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
tobiryu クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年05月25日

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