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『あちこちどーちゅーき 〜さつきのももいろ〜 』
桐苑・敦己2611


 東京より北だが、青森よりはだいぶ南。
 山間。
 春。
 目の前に曲がりくねる道がある。

 それくらいしかわからない。
 その程度わかっていればいい。
 旅行中の桐苑敦己の調子と言えば、年がら年中そんなところだった。はじめから目的も持たず(いや、あった。祖父の莫大な遺産を、遺言に従って一代で食い潰さねばならない)、彼はただ、足の向くまま気の向くままに旅をしている。
 ふと早く目覚めたときに見た朝焼けがひどく美しかったなら、彼は東に行った。
 宿を確保し、安堵したそのときに見た夕焼けがあまりに美しかったなら、西へ。
 川のせせらぎはやがて海の怒涛へ変わるのだ、とふと気づけば海へ行き、
 都会でごみをあさる鴉にもねぐらがあるのだ、とふと気づけば山へ行く。
 何のきっかけも思い付きにも見放されたときには、手持ちのコインの顔に従った。

 ここに彼を導いたのは、コインだっただろうか。花か、鳥か、風か、月か。
 どれであっても、かまわない。
 旅は若いうちにせよ、とよく言ったもの。これまで敦己は、出会って別れて、さんざん笑って、たまに泣いてきた。ごくまれに怒ったこともある。旅は若いうちにせよ。心と感情がだまって枝を伸ばしていく。
 彼は誰の邪魔もしないから、何人も彼の行く手を阻むことはない。
 敦己が足を止めるのは、彼自身が足を止めたときだけだ。


 ――あれ。


 彼が、足を止めた。
 それは、風が運んできた芳しい薫りが気にかかったからである。しかし、断じて、薫りが敦己をとどめたのではない。
 ――いまは……5月、ですよねえ……?
 思わず彼は、携帯のカレンダー機能で今日の日付を確かめた。それからまた、すんすんと風の薫りを嗅いでみる。
 間違いなく、桃の香りだ。

 桃の花の時期はいうまでもなく春の初めも始め、桜や梅のように前線があるにしても、ここは北海道の北端・稚内ではありえない――桃が咲くにはあまりにも遅すぎる。道の先にあるのもやはり山林と緑ばかりだった。
 が、桃の香りは間違いなく強く、くっきりとした輪郭を帯びていく。
 そして敦己は、やがて、満開の桃の樹を見出すことになった。
「わっ……」
 それきり敦己は言葉を失った。
 桃は、樹齢300年はくだらない大樹であった。その花びらの数たるや、まさに三春滝桜のごとく。桃色をたたえて重そうに垂れた枝が、山の風を受け、ざあざあと揺れる。桃の花びらは、飛沫のように散った。
 大樹は、すっかり圧倒されて立ち尽くす敦己に気がついたようだ。身震いをやめ、ひたと、しずまった。
 敦己はゆっくりと、桃に向かって歩き出す。歩み寄るのが勿体ない、とさえ思えた。桃の香りはいよいよ強さを増していく。見上げる者の脳髄の中を、己が色に染めんとするかのように。
(…………)
「え?」
(…………)
 桃は確かに、何ごとか囁いてる。敦己は眉を上げ、歩みを早めて、大樹の幹に触れようとした。

「もし」

 驚いて、敦己は手を引っ込める。
 突然かけられた声は、確かに人間のもの。
 桃がその姿を覆い隠していたのだろう、敦己は巫女を見、小さな社を見た。
「そう慌てて触れられては、御神木も驚かれます」
「あ、えっと、いや……すみません」
「どちらからおいでですか? この御神木を見に参られたのですか?」
 巫女は、敦己と同じくらいの年の頃だろうか。もっと年上にも見えるし、少女のようでもある。長い黒髪に――桃色の袴をはいて、箒を携えていた。穏やかに微笑み、他人と話すのは久し振りといった風で、巫女は敦己に問うてくる。
「いやあ……ぶらぶら旅をしてまして。その辺を歩いてたんです。そしたら、桃の香りがしたもので……」
「さいですか。……どうぞ、あちらへ。ここまでお歩きでは、さぞかし足もお疲れでしょう。お茶をお出しします」
「どうぞ、お構いなく」
「いえいえ。どうぞ」
 確かに、少しは疲れていたかもしれない。しかし、この桃を見た途端に、足の裏の痛みも肩のだるさもどこかへ吹き飛んだ。頭の中では、桃色と
(…………)、
その香りが渦を巻く。
 だが、腰を落ち着けて見る桃もいいかもしれない。敦己は巫女の後についていった。


 古びた社の縁側に座ってみても、桃の美しさは変わらなかった。しかし、と敦己は今さらになって気づく。――もし空が晴天であれば、桃はもっと美しかっただろうと。
 空は今にも泣き出しそうなほど濁り、太陽の姿はどこにもなかった。いつから曇りだしたのだろうか。桃の香りを嗅ぎつけたときは、確かに、晴れていたような気もするのだが。
 ――まあ、山の天気は変わりやすい、と言いますし……実際に、そうです。
 彼はその歳で、多くを見てきている。山と海の天気は、ひどく気まぐれだ。
「あいにくの天気で……ちょっと、残念です」
「そうかもしれませんね」
 巫女は茶請けと煎茶を持って、敦己のそばに戻ってきた。
「あの桃、御神木なんですね?」
「ええ」
「何か……逸話でも?」
「そう思われますか」
「思います」
 敦己は無邪気に微笑んだ。
 巫女は――微笑んでいるが、どこか試すような目つきで敦己を見つめていた。
「今は5月です。もう、桃の季節はとっくに終わっていますし……桃の樹は、それほど寿命が長くないと聞いています。それに、何か話したそうな感じまでしますし……あの桃は、不思議だらけですよ」
「話したがっておられると?」
「勘違いかもしれませんが」
「……お話ししてみては、いかがでしょう」
「――え?」


 ざああ、
 ざああ……
 ざあ……
 ざああ、ざあ……
 ざあ……


「泣いている……のですか?」
「そうでしょうね」
 巫女は消え入りそうな小さな声で答えた。
「あの桃は、暗い歴史の生き証人。忘れてはいけないのだけれど、多くに知られてはならないもの。たったひとりでも、あの桃のことを覚えているのなら、それでよいのです。それだけで……救われるのです」

 敦己は見た。
 たわむ枝でびっしりと咲き誇る、永遠の桃の花。太い幹。風とうたう花びらたち。ざあざあと揺れる枝が散らす花びらは、すべてが、桃色の涙にすぎないのだ。
 幹には無数の女の顔がぎっしりと浮かび、どれもが涙を流している。花びらが必死に覆い隠そうとしているのは、古い、乾いた人骨なのだ。
 あまりにも美しい桃色は、結局、薄められた紅である。
 敦己は言われるまで、その悲劇にまったく気づかなかったことを悔やんだ。時には霊と触れ合うことが出来るはずの自分でさえ、まず、あの桃の花の美しさに見とれてしまったのだから。
 風と花びらが覆い隠す、社と悲しみに気づいてやることは出来なかった。
 あまつさえ、触れようとした。あわれな人柱たちの骨を踏みしだき、彼は、うしなわれた顔を撫でようとしていたのだ。

「桃は……年中咲いております。そして、花開いたまま実をつけます。まっかな桃です。秋に、またいらして下さいますか」
「はい、そのように風が向けば、必ず」
「お待ちしております」
「――おどろきました。撮影機をお持ちではないのですね。めずらしい」
「見たこと聞いたことは、ぜんぶ覚えることにしているんですよ。人間は本当は、物忘れなんかしないんだそうです。ただ、すぐ使えるように片付けておくのが苦手なだけで」
「では、覚えて、下さいますね」
「もちろん。もう、忘れません」
「桃色となった方々の悲しみも、これで少し、報われることでしょう」


 その言葉は、まことであった!
 彼女たちが曇らせていた空から、さっと陽光がさしたのだ。その雲の切れ目も、程なくして癒合してしまうのだろうが――ともかく、陽光は満開の桃を照らした。
 桃の樹が、ざああざああと泣きながら、北東へと影を伸ばす。
 敦己は、あああ、と深く溜息をついた。
 痛ましい美が作り出した影に、彼は、北東へ行こうと決めたのである。




<了(続)>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
モロクっち クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年05月23日

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