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『春の通り雨 』
瀬崎・耀司4487


 この平成の世に、番傘がゆく。
 番傘、という存在と名前を、ランドセルの子供たちは知っているかどうかもあやしい。時代劇というものがあるし、時代村というものもあるし、日本という国もあるのだから――けして消えてなくなりはしない存在だろうが。
 番傘を手にした男は、べつに時代劇をおさめたフィルムから抜け出してきたわけではない。瀬崎耀司という、考古学者だ。考古学とはいっても、彼の興味をひく文明は大概日本の外のものであるのが、何とも奇妙で滑稽な話であった。
 一年の大半を、海外の失われた文明のもとに居座る彼だったが、こうして日本にいるときは、番傘が似合う和装で過ごすのが常だった。ときには、海外でもこの姿をとることさえある。海外の亡国に魅せられつつも、彼が愛しているのは、日本だった。
 舗装された歩道の真ん中を歩いていた耀司が、無言で端に寄る。
「あめふってくるぞー!」
「はしろう、はしろう! はやくかえんないとー!」
「あたしかさわすれたあ」
「あーん、まって!」
 その横を、番傘を知らぬ小学生たちが駆けてゆく。
 かれらの背にある赤と黒のランドセルを、耀司は目を細めて見送った。
 赤と黒の目を細めて、見守っていた。
 番傘は滅びぬ、ランドセルとともにこの国に在り続けよう。

 子供たちの勘がなくとも、このところ天気がはっきりしないのは確かだ。耀司が番傘を携えているのは、今日も急に降りだして、息継ぎのように上がって、また降り出すという天気だったためである。耀司が自宅を出る直前まで、しとしとと雨を降らせていた空は、からりと晴れ上がっていた。
 しかし、なにものも安易には信用しない耀司のこと――雲行きすら怪しんで、彼は馴染みの古書店まで行く道の供に、番傘を連れてきた。
 横断歩道を渡り、いつも同じ様相の古書店にたどり着く。古書店の主人は居眠りをしていた。雨降りでも、陽気にあふれていても、この店の主人は耀司が顔を出すとき、大概居眠りをしている。
「――ごめんください」
 雨上がりの澄んだ空気を、耀司のあいさつが貫いた。低い、よく通る声が、いつものように主人を起こす。
「ありゃあ、瀬崎先生。まだ日本にいらっしゃったのかあ」
 年老いた主人が目覚めたあとの第一声も、決まり文句だ。

 春先に書架を整理して、埋もれていためずらしい本を、耀司のためにとって置いたのだと主人は言った。主人ですら忘れていた(或いは、知らなかった、ものもあるかもしれない)掘り出し物をあらためて、耀司はその中の一冊を買い求めた。和綴じの風土記だ。
「今度、僕も自分の書架なぞ、整理してみましょうかね」
「いつ手に入れたかわからないものが出てくるだろうねえ」
「それは面白そうです」
 耀司は微笑み、カウンターに立てかけた番傘を手にした。
 主人がやおら背を伸ばし、汚れたガラス戸の向こう側を見た。
「やあ……まあた、降り出したなあ……」
 乾き始めていたアスファルトに、点々と広がっていく黒い染み。雨の音、としか言いようのない音が空からしのびよる。
 店を出た耀司は、番傘をさした。
 頭をかばって足早に先を行く学生を尻目に、耀司は信号を待つ。
 ――あの子供たちは、もう家に着いただろうか。
 濡れたランドセルが、なぜか目に浮かんだ。


 さあさあと流れ続ける雨が、想いをも浮かべて流してくる。耀司の赤い左眼に、ぴくりと光が宿った。
「ふむ?」
 雨音に消される訝り声は、耀司の胸の奥でわんわんと共鳴する。胸の奥の奥に潜む蛇が目を覚まし、首をもたげた。
 蛇が耳打ちする。耀司は歩き慣れた道でつと足を止め、自宅が無い方角に向かって歩き出した。
 そぞろ歩きはけして嫌いではない――というよりも、気がつけばぶらぶらとあてもなく歩いていることもある。しかし、古書店から自宅までの道のりは、彼にとってこれまで『一直線』でしかなかった。周りは住宅街であったから、特に散策してみたいという気にもならなかったのだ。
 だから彼は、いま自分が歩いている道を知らない。
 濡れた道路には、かつて『スクールゾーン』と白く書きこまれていたらしい。いつしかこの道は通学路ではなくなったのか、白字がひき直されたことはないようだ。擦り切れた白文字を踏んで歩き、耀司は蛇が嗅ぎ当てた不浄のもとにたどり着いた。
 それは雨が、耀司をさらって流してしまったようだった。


 じめじめとした、塀がつくる曲がり角。紫陽花と柿の木が落とすまひるの影。
 そこに、濡れたランドセルの少年がうずくまっていた。
 少年は濡れているだけではなかった。泥にもまみれている。汚れた顔をのろのろと上げ、かれは耀司を見上げてきた。泥まみれの顔は、まひるの影の黒にも侵され、顔立ちはようとして知れぬ。目線さえさだかではないというのに、耀司にはわかっていた。この子は、自分を睨みつけているのだということが。
 あ、ぐ、あ、あ、ば、ああああああ、
 少年はその口を開き、げろりでろりと百足を吐いた。
(うちにかえりたい)

 まいったな、と耀司は眉を跳ね上げた。
 右手は番傘をさしていて、左手は買ったばかりの古書を抱えている。
 うずくまる少年の手を引いて、うちにかえしてやりたいのは山々なのだ。けれど、傘と本、どちらをあきらめるべきだろうか。

「仕方ない」
 耀司は腰を落とし、少年の顔を覗きこんだ。どれだけ近づいても、かれの顔はわからなかった。耀司の顔は、傍目から見れば少年に接吻でもしているのではないかと思われるほど、少年の泥だらけの顔に近づいていた。
 耀司はそこで、赤と黒の目を見開いて、ひゅうっと息を吸い込んだ。
 少年の顔が、身体が、ランドセルが――泥が、耀司の唇のあいだに吸い込まれていく。一息で影の下の少年を吸い込んだ耀司は、そのまま、ごくりと嚥下した。


 胸の奥から、ふつふつと幻灯が浮かび上がってくる。
 傘を持っていかなかった少年が、ランドセルを濡らして歩いている。
 ぼく、傘ないの? おじさんがおうちまで送っていってあげるよ。
 ぼくはそのおじさんのくるまにのったんだ。
 でもおじさん、おうちまでつれてってくんなかった。
 とおいところまでつれてかれたよ。かわのそばだったよ。
 男は満足したあと、梅雨時の濁った川に、少年を投げ捨てたのだ。
 ぼくここまであるいてきたよ。
 でもつかれたよ。
 ランドセルをもうこれ以上濡らしたくないから、彼は、紫陽花と柿の木の下でしゃがみこんだ。
 ここしらないまちだよ。
 うちにかえりたいよう。
 幻灯が稲妻と化す。
 稲妻が、少年の通学路と春を照らし出す。小学校の門。名前。覚えたての住所。

 耀司は番傘を連れて、ぶらりと旅に出た。少年を連れて、彼は目的ある旅に出た。
 腹の奥で、のどもとを膨らませた蛇がぐるぐると抗議している。飲み込ませろ、喰わせろ、この童子はもはや悪しきものに成り果てているのだぞ、と。おまえごときが救えるはずもなかろう、と。
 救ったところで何になる、とも。
「もう少しの、辛抱だ」
 耀司は自分と、蛇と、少年に言い聞かせた。
 確かに、もう少しだ。
 少年にとっての長い旅路も、大人の耀司にとってはたかが隣町の隣町。
「大丈夫だ、」
 ほら、あの鉄塔に見覚えがあるだろう――。

 おじさんのかさ、うえからみたら、おもしろいね。

 きらきらと輝く大きな鉄塔は、少年の家を見下ろしていた。
 ――ん、輝いている、ということは。
 耀司はようやく番傘を下ろした。
 雨は随分前に、止んでいたらしい。そして、胸のつかえも、少し前に消えていたようだ。
 雨に洗われた鉄塔は、春の陽射しを浴びていた。足元に濡れたランドセルが落ちていたから、耀司はそれを拾って、中に古書を入れ、左手に提げて――帰路についた。




<了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
モロクっち クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年05月19日

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