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セレスティ・カーニンガム1883)&モーリス・ラジアル(2318)

 価値というものは、酷く厄介な単価である。
 それは個々にしか存在しない感覚であると同時に、他者と共有する事が出来ない感覚の為に、個人同士の間でしばしば相違が生まれる原因となる。
 一つのモノの価値を比べるにしても、ある個人にとっては紙幣にも等価出来るほどの『価値』を見出すが、ある個人にとっては塵屑同然の『価値』しか見出す事が出来ないモノだった、というケースも少なくはない。
 不特定多数に受け入れられたモノだからといって、それが全ての者にとって絶対的な価値を内包しているとは限らない。
 勿論、不特定多数に受け入れられなかったモノだとしても、それが価値を内包していないかと問われれば否でもある。
 芸術というものは、常に『価値』というものを代価にして発展を繰り返してきた。
 それは収束する事も飽和する事もなく、常に人々が存在し続ける時間の中に溶けるようにして、歴史というものの痕を目に見える形で残し続けている。
 はたして、そこに残されるものは彼らが望むべくして手に入れた『価値』だったのだろうか。



 不規則な精神、あるいは、華麗なるディスプレイ


 1

 規則的に配置された燭台が並ぶ薄暗い通路の床から壁にかけて、二人の長い影と一人の短い影がゆらめく様にして映し出されていた。蝋燭の先端から炎が生み出される燃焼音と赤銅色の絨毯に吸い込まれる足音だけが、音の無い廊下の中に唯一の音を生み出しながら小さな反響を繰り返している。漂う大気の密度には、冷たさというよりは肌に纏わり付く様な不快さが僅かに感じられる。生涯三度目に訪れたその場所には、現代という時間を超越したかの様な錯誤的な空間が満ちていた。
 黒のスーツを身に纏った少し小柄なアッシャーが、細く長く伸びた通路を先導する様に歩いていた。それに従う様に、アンティークな車椅子に腰を下ろしたセレスティ・カーニンガムと、グリップを握る従者、モーリス・ラジアルが少し後ろからゆっくりとした歩調で歩みを進めている。三者が口を開く気配というものは無く、長く続く通路の風景が一際遠く長いものにも感じられた。
 リンスターが所持する小型ジェット機を使い東京から十五時間、辿り着いた先はオランダの首都アムステルダムの郊外に残された、バロック建築の寂れた古城の庭園だった。二十世紀初頭、繊維業で巨額の富を築き上げた男の命により建造されたその古城は、アーヘン大聖堂を彷彿とさせる外観と彼個人の趣向から、いつしか『解剖教会』という名前で呼ばれるようになっていた。だが、三ヶ月程前に古城を所有していた彼が死去し、彼の所持していた遺産の全てが息子へと相続されてから、その状況は一変した。
 氏は生前、絵画コレクターとして多くの絵画を所有する為に世界中を奔走していた。とりわけ、十七世紀に同国で活躍していたレンブラント・ファン・レインに心酔し、彼の作品を展示する為のホールや作品の中で描き出された情景を復元するなど、常人には理解出来ないほどの酔狂ぶりを見せていた。息子はそんな父親の奇行を良しとせず、父親の遺言であった『収集品の保管』という義務を放棄し、彼の収集した品を競売に掛けるという行動に出たのだった。
 父の訃報と共に、遺品の競売を謳ったオークションが開催されるというエアメールが届いたのは、今から丁度二週間前の事だった。有名なオークション会場を借りるのではなく、『レンブラントの情景を復元したホールの内部で行う』という趣向に、セレスティは強く興味を惹かれた。都内での仕事を終え、休暇の使い道を模索していた時に飛び込んできた話という事もあり、セレスティは二つ返事でオークションに参加する意思を提示した。
 故人となった氏と浅いながらも付き合いのあったセレスティにとって、氏の所蔵していた作品に興味があった事も、重ねてオークションへと向かわせる要因ともなった。当然、動向するモーリスは主の『あらゆる行動』に対し幾つもの釘を刺しておいたが、当人はどこ吹く風の様子でいたのは言うまでもなかった。
 長い廊下を抜けた先に見えたのは黒く重厚な扉の姿だった。その姿を確認するとアッシャーの足が僅かに速まり、彼の姿勢が案内ものから誘導のものへと変化する。モーリスの歩調を伺いながら視線を向けると、アッシャーが挨拶以来の二度目の言葉を掛けた。
「この先が『民衆の前に引き出されたキリスト』の部屋となっております。こちらが今回のオークション兼パーティー会場となっておりますので、どうぞごゆっくりお過ごし下さい。なお、当主は遅れてご挨拶をさせて頂く事をご了承下さい」
 少し上ずったような独特の声が、乱れぬイントネーションでそう告げると、アッシャーはリーフをあしらった重厚なノブを両手で握り、それをゆっくりと引きながら扉を両側へと開いた。瞬間、二人の足元から這い上がるようにして弦楽器の重低音が通路へと流れ込んで来る。その聞き慣れない音楽にセレスティは僅かに眉を寄せた。
「この楽曲は?」
「はい。前当主が『民衆の前に引き出されたキリスト』の部屋をお作りになられた時に、とある作曲家に依頼した『民衆の前に引き出されたキリスト』という楽曲です。前当主はこの曲をこよなく愛し、お客様をおもてなしする時には必ず演奏する事を義務とされていました」
「……それでは、今日は?」
「はい。『前当主も、皆様にご挨拶をされる予定』です」
 モーリスの質問に言葉を重ねるようにして、アッシャーが返答をした。モーリスは驚いた雰囲気を僅かに漂わせ、セレスティは面白そうな笑みを浮かべた。返答の意図が解らないというようにセレスティを見下ろしたモーリスだったが、彼の思考は主には届かなかった。だが、意図的に拒絶したかのようなセレスティの素振りに気付いたのも、やはりモーリスだった。
「ところで……つかぬ事を伺いますが、貴方はレンブラントの『聖家族』をご存知ですか?」
 車椅子の前輪がホールと廊下の境界へと差し掛かった時、セレスティは不意にそんな言葉を投げ掛けた。言葉を掛けられたアッシャーは、一瞬戸惑いの様子を見せたが、直ぐに平静を取り繕った表情を作るとセレスティに向けて浅い角度で一礼をした。そんな様子を伺うセレスティの口元には、面白そうな笑みが浮かんでいた。
「彼の従者としては良く出来た教育が施されていますね。ですが、私の従者としてはまだまだですね。……モーリス?」
「はい。……『聖家族』はレンブラントの作品には珍しく、フェルメールの『窓辺で手紙を読む女』と同じ『トロンプ・ユイル』という効果が用いられています。これは、人の持つ知覚というものに対し『歪める』形でのアプローチを目論んだ手法とされています。作品を仕切らる額縁と覆い隠す様に掛けられたカーテンの姿が、絵と現実の境界を曖昧にさせ『騙し絵』となり、見る者を楽しませるというユーモラスな趣向が施された作品となっています」
 言葉を受けるようにして、モーリスは抑揚の無い声でそう返答をした。返された言葉の内容に満足したのか、セレスティの口元には笑みが浮かんでいる。モーリスへと向けていた視線をアッシャーへと戻すと、セレスティはさらに表情を綻ばせた。
「仕えるという事は、それだけ主となる存在を理解するという事です。現状を満足とせず、ぜひこれからも理解を深めて頂きたいものですね。……恐らく先代は、彼の様な返答を望んでいたでしょうから」
 セレスティが視線を戻すと同時に、グリップを握っていたモーリスの腕に力が込められた。僅かな金属音と共に車椅子が動き出すと、アッシャーは慌てた様子で再度頭を下げた。その様子を尻目に伺いながら、モーリスはセレスティに聞こえる程度の声で短く囁いた。
「……楽しまれていますね?」
「えぇ、とても。貴方は違いますか?」
 現在と過去の境界を越えた時、足元からゆっくりと冷たい大気が這い上がってきた。それは強く鼻腔をかすめ、淀んでいた意識を一瞬にして覚醒させる。だが、そこに含まれた微かな薬品の匂いをモーリスだけが強く感じ取っていた。


 2

 窓の隙間から零れるように差し込む光を再現したライトが、薄暗いホールの装飾をほのかに映し出している。黒と灰色、そして白だけで構成された室内は、歌劇が上演できそうな程の空間を保ちながら静かに佇んでいた。光の粒が静かに舞いながら、重力の力に従い自由落下を繰り返す。そこには、現代というカテゴリから断絶された、レンブラントという一人の画家が描き出した世界が、寸分の狂いなく存在していた。
 十七世紀の頃と思われるオランダの街並みが半円形に展開され、その中央に一際目立つようにして演説台の様な場所が作られている。演説台の左右に立てられた何かを見守るかのような柱には、それぞれ神のような女の姿がレリーフとして形作られている。その手には『天秤』と『剣』が握られ、その場所が『何かを裁く場所』であるという事を強く浮き彫りにさせていた。
 演説台を見上げる事が出来るフロアには、薄い色のクロスが掛けられた腰までの高さほどの円形のテーブルが点在するようにして並べられていた。テーブルの上には数枚のプレートと共にガラスのワインクーラーが置かれ、氷が敷き詰められた中に二本のワインボトルが差し込まれている。いつもイメージしている立食パーティーのテーブルに比べると、若干華やかさには欠けるメニューではあったが、セレスティはそれを気に留める様子など見せず、演説台から遠く離れた隅のテーブルへと場所を落ち着かせた。
 テーブルの周囲には既に、合計して十数人ほどの参加者が各々の時間を過ごしている姿が伺えた。男性と従者の姿、男性と女性の姿、女性同士の姿と連れ添っている者の姿は疎らだったが、漂わせる雰囲気や物腰からは、セレスティ達と同じように『主によって選出された者達』であるという事が感じられる。
「気になられますか? 他の参加者の様子が」
 耳の傍に口元を寄せるようにして、モーリスがセレスティへと問い掛けた。差し出されたワイングラスを受け取ると、僅かに細めた視線をモーリスへと向ける。
「気にならないと言えば嘘にはなりますね。皆さん知らない方ではありませんから。こちらが向こうを余り存じていなくても、向こうにはこちらを強く認識されているでしょうから。……困りましたね。ヘタな事は出来ませんよ?」
 口元に浮かべた笑みを崩す事なく、セレスティはそう言葉を返した。モーリスを近づけさせたまま、セレスティは言葉を続けようと口を開く。だが彼の言葉はモーリスへ向けられる事はなく、異なる第三者へと向けられていた。セレスティの素振りに気付いたモーリスは、テーブルを挟んで現れた人物の姿に一礼すると、視界の前を遮らないように一歩後ろへと下がり身を引いた。
「これは……ご無沙汰しています、まさかここでお会い出来るなんて思いもよりませんでした」
「おぉ……! これはこれは、カーニンガム卿ではありませんか。ご無沙汰しております。今日は随分と顔色が良さそうで。お元気でしたかな?」
 彼らの視界の前に現れた男は、無骨な外見に反した人の良さそうな笑みを向けると、白くなった頭髪を撫で付ける様にしながら小さく頭を下げた。男は腫瘍に関する権威としてドイツの都市ミュンヘンにて医師を生業とする傍ら、大学の講師としても活躍している人物であった。
「最後にお会いしたのは……そう、確か八年前に私が続発性アミロイド症に関する論文を発表した時でしたな? いやぁ、あの時は本当に、貴殿の蔵書の世話になりました。邸宅の書庫の膨大さ。あれを目にした時の感動は、今でもこの目の中に焼きついております。……いやぁ、あの時の謝辞は未だに言い尽くせぬ限りですわい」
 深い皺の刻まれた手を向けて握手を求めるようにしると、セレスティもそれに答える様に己の手を差し出して握り締める。その握手は二人にとって、懐かしい記憶を呼び起こさせるには充分な行為だった。
「止して下さい。貴方からの言葉は、もう八年も前に憶えてしまう程に頂戴しましたから」
「あぁ、そうです。あの後に起こった事ですが……」
 懐かしさから昔話を語り始めた男の言葉を遮るかの様に、不意にフロア頭上のライトの光彩がゆっくりと絞られていく事に気が付いた。顔を綻ばせていた男の表情からも柔らかな色が消え、緊張感を帯びたものへと変化する。その様子に気付いたセレスティが、声を忍ばせるようにして問い掛けた。
「……ところで。つかぬ事をお伺いしますが、貴方が今日お越しになられたのは、やはり現卿からの招待状があっての事で?」
 セレスティの問い掛けに気付くと、男は思い出したかのように顔をくしゃりと歪ませ、複雑な表情を含んだ笑みを浮かべた。
「いえいえ、とんでもない。私の様な若輩者が、カーニンガム卿と肩を並べる様な立場に立つ事など出来るはずもありません。私がお招きに預かった理由は……」
「セレスティ様、壇上を」
 フロアの中から沸き起こった小さなざわめきに紛れるように、モーリスが二人の会話に短く言葉を挟んだ。その言葉に気付いたかのように、他の参加者同様に二人も演説台へと視線を向ける。中央を照らすかのように白いピンスポットがゆっくりと光彩を広げながら、それがオークションの始まりを意味しているのだという事が解った。
「皆様、長らくお待たせ致しました。これより『解剖教会』現当主主催によるレンブラント・ファン・レイン作品の展示オークションを行います。幕間にて、当主自らによる『解剖学講義』を行う予定となっております。どうぞ皆様、ごゆっくりとお楽しみ下さいませ」
 ピンスポットの中心には、少し猫背気味の眼鏡を掛けた小柄な男が、黒のタキシードを身に付けて挨拶をした。男の前には細身のマイクスタンドが立てられ、演説台の下部へと伸びたケーブルから、ホールの四方に設置されたスピーカーへと連動しているのが伺える。
 男は左手に持ったガラス製のベルを二回鳴らすと、背中をさらに丸める様にしながら深々と頭を下げた。再度、ゆっくりとした速度でピンスポットの光彩が絞られていくと、会場内の照明が再度明るいものへと変化する。そこで漸く参加者達は緊張した時間から開放され、安堵の息を吐き出した。
「……『解剖学講義』? 一体、どういう意味が……」
 そこまで呟いた時、セレスティは漸く何かに気付いたように男の横顔を伺う様にして見上げた。相手の顔は強張った様子を見せ、僅かながらも額に汗が浮かんでいる事が解る。肩と指先が小刻みに震え、それはまるで何かに躊躇しているかのような、そんな姿にも伺えた。
「……それが、今回お招きに預かった理由。『私の仕事』です」
 男の喉から振り絞るようにして吐き出された声は、先程までの明るい様子を見せていた同一とは思えない程の、低く枯れた声に聞こえた。


 3

「ハンマープライスです。ビット頂いた皆様、まことにありがとうございました。落札者には後に直接当主がご挨拶に参りますので、それをもって落札完了とさせて頂きます」
 猫背の男が六度目の言葉を言うと、会場からは重い溜息が漏れた。万年筆を手にしていたセレスティの表情には、ホールに足を運んだ時と変わらない笑みが浮かんでいる。それ伺っていたモーリスの唇からは、会場の雰囲気を象徴するかの様な六度目の溜息が零れた。
 レンブラントの作品の三分の一を所有していたとも言われる氏のコレクションは、参加者達を圧倒し、さらに感嘆と共に落胆の中へと容易く飲み込んでいった。演説台の上へと一つ一つの作品が運ばれ、そこで競売に掛けられる作品が何であるのかという事が初めて明かされる仕掛けとなっている。カタログというものの存在が無いため、当然参加者達に対しエスティメイトは提示されず、己の持つ『価値』だけで金額を提示する事となる。入札方法も参加者がビットをする形ではなく、作品に対しての代価となる金額を一度だけ紙面に記入し、それを競売側に提示した後、最高値を付けた者が落札をするという形となるのだ。
 他の参加者の手の内が読めず、己の持つ『作品への価値』だけが入札の目安となるその方式は、参加している者達を大いに混乱させた。他の参加者よりも一ユーロでも高く入札しなければ手に入れる事は不可能だが、どれだけ入札すれば安全圏となるのかも解らない。レンブラント・ファン・レインという男の作品にどれだけの価値を見出す事が出来るのか。参加者の中には、価値崩壊を起こしてしまったのか早々にリタイアを示す者までもが現れていた。
 だがその中で、セレスティ・カーニンガムという男だけがその状況を楽しんでいるようにも思えた。作品が公開され、ざわめき立つホールの参加者を伺う様子も無く、青い用紙の表面に万年筆を走らせていく。その仕草には、落札をするという核心すらあるのか戸惑いや躊躇といった色は伺えない。絵画として完成した作品や有名な作品に対しては一切の興味を示さず、一六三六年に描かれたラフスケッチ『放浪息子の帰還』や、一六三〇年に描かれたモノクローム作品『アンドロメダ』といったものにだけ強い興味を見せる。忘却とも思える時間を共に付き従ってきたモーリスでさえ、主の行動には不可思議さをおぼえていた。
「私にとって完成された作品は価値を持つものではなかった。不完全なもの、あるいは欠如している物に対し、私は強い興味を惹かれた。ただそれだけの事。蓋を開けて見れば単純で明解な解釈なだけですよ」
 モーリスの心情を悟ったのか、セレスティはそう言葉を返した。演説台の上では、淡々とした時間と共に競売が行われていくのが伺える。九作目という節目まで来た時、セレスティは完全に万年筆から手を放し、オークションに参加する事を止める姿勢を見せた。
「……恐らく、これ以上待っても、次に私の興味を惹き付けてくれる作品は現れる事は無いでしょう」
「えぇ。そうして頂けると、こちらとしても在り難く思います」
 セレスティの皮肉をさらに皮肉で返すように、モーリスが言葉を呟いた。ホールの中に漂う落胆の空気はさらに密度を増し、敏感な者であれば息苦しさすら感じる状況にあっただろう。だが、その状況を崩壊させるかのように、ホール内で演奏されていた『民衆の前に引き出されたキリスト』が、クレッシェンドのニュアンスと共に終わりを告げた。
 僅かな空白の後、今度は低く重厚的なニュアンスの曲が演奏され始めた。弦楽器独特の下腹部から這い上がる様に感じさせる低音と、ヒステリックさをイメージさせる高音が相反し、酷く神経を逆撫でさせる。楽曲の余りの変貌振りに、モーリスは思考の糸が繋がったのか言葉を呟いた。
「これは……まさか、『トゥルプ博士の解剖学講義』?」
「えぇ、恐らくは。今日に限り楽曲名は『解剖学講義』となるでしょうけど」
 低く、淡々とした声で呟いたモーリスは、演説台を睨み上げる様にして視線を向けた。まるでその視線に答えるかのように、演説台の下部から一台の簡素なベッドがせり上がって来るのが見える。そこには、局部にのみ白い布の掛けられた『人の体』が横たわっていた。
「人の歴史というものは、常に破壊と構成、その二つの連鎖により発展を遂げてきたと言っても過言ではありません。芸術においても医療においても、そのアプローチに大差はありません。レンブラント・ファン・レインという男は、生涯に二度、解剖という題材を元に作品を生み出しました。それは、一人の男が見出した芸術と医療という二つの分野のアプローチであったと確信しています。私の父は、その作品に深く心酔し、レンブラントという一人の画家にその生涯を捧げました。その父は、私への遺言の最後の文章をこう記しています。『破壊により、私はレンブラントという男と同一になる』。……これは、私の父の意思であり、レンブラントという呪縛から父の魂を開放する為の儀式なのだと確信しています」
 黒の衣服に黒の帽子、口髭をたくわえた細身の男が、ベッドの後ろからゆっくりとした仕草で現れた。演説のように告げる言葉から、彼が息子である事が伺える。その隣に従えるかの様に、息子と同じ黒い服を着た白髪の男が控えている。その人物が誰であるのかという事に、セレスティとモーリスにとっては思考する必要も無く気付く事となった。
「これより、『解剖学講義』を開始する!」
 彼は宣言とも思える言葉を高らかに叫ぶと手にしたメスを横たわる父親だったものの二の腕へと走らせた。瞬間、大気を振るわせるように血液と薬品の強い匂いが漂った。同時に、女性のものとおぼしき細い悲鳴が上がりホールの一角がざわめき立つ。だが、一部の観客からは喝采の様な拍手が起こり騒然とした状況となる。その様子を伺っていたセレスティは、まるで侮蔑めいた視線を演説台へと向けると、モーリスを促す様にしてテーブルから身を下がらせた。
「……宜しいのですか? 最後まで拝見していなくて」
「必要ありませんよ。気になる様子でしたら、貴方が残りますか?」
 歓声とも悲鳴ともつかない高い声が沸き上がる中、二人は重い足取りを引き摺る様にしてホールを後にした。氏だったはずの肉体が解体されていく姿に、セレスティは酷い嫌悪感を抱かずにはいられなかった。そんなセレスティの様子に気付いていたのか、モーリスはただ静かに頭を下げた。


 4

「氏と医師は旧知の仲だった。……恐らく、故人の遺言で彼の執刀を手伝う事になったのでしょう。彼は晩年、告別式を開くのではなく『解剖学講義』を開いて欲しいと口にしていましたから」
 蝋燭の炎がゆらめく広く長い回廊に金属の高い摩擦音が響く。『民衆の前に引き出されたキリスト』の部屋を出てから暫くの間、セレスティは無人の通路を、車椅子に乗ったままゆっくりとした動作で移動していた。通り過ぎる者も人の気配も感じる事の無い空間では、先程までの騒々しさが嘘の様に感じられる。不意に開かれた彼の言葉には、静寂を濁すかのような息苦しさが含まれていた。
「それが、氏にとっての手向けになったのか、それとも冒涜となったのか。……それは、生前の彼を知る者にしか解らない事かもしれません」
 僅かに眉を寄せると、悟られる事を拒絶するかのような浅く小さな溜息を吐き出した。その時、セレスティの脳裏には『ある人物』の姿が鮮明に呼び起こされていた。
 三百年ほど昔の事、セレスティはアムステルダムを視察中に『一人の若い画家』と出会う事があった。若干ながら、宗教思想というものに心を奪われてはいたような雰囲気ではあったものの、利発的に話をするその姿に、セレスティは強く興味を惹かれた。食事を共にし、いつか個展を開く事があったら、という当り障りの無い社交辞令を残して別れを告げたが、隠す様にしながらも見せられたクロッキーの自画像には、いつかまた再会するだろうという確信を感じていた。
「三百年という時が流れ、世界は大きな変革を迎えました。幾つもの時代が流れ、その中で人々の生活は発明と共に発展を遂げました。世界を震撼させた大戦の傷を背負いながら、今こうして、平和という時間を手に入れた国や人々が存在しています。……ですが、未だに内戦や紛争といった混乱は絶える事はありません。……貴方がいつか覗いてみたいと言っていた遠い未来の世界は、貴方の望む姿になっていたと言えますか?」
 視線を上げると、その先には巨大なキャンバスが一枚、重厚な額縁に収められるようにしながら、壁の一面を覆い隠すかのように掛けられていた。黒と赤のコントラストを中心にして描き出された、重厚で荘厳、かつ強大なゴシック建築の下に、聖者とそれを取り巻く民衆達の姿がひしめき合うようにして存在しているのが解る。聖者の足元には、跪き許しを請う白い服の女の姿が伺えた。断罪を問われる女の姿は、美しくありながらも酷く悲壮感をおぼえさせられるものがあった。
「……この世界の罪も、貴方の作り出した聖者の姿の様に、優しく包まれる時が訪れると思いますか?」
 キャンバスの向こうに存在する何かに問い掛けるかの様に、セレスティは酷く震えた言葉を洩らした。その声は広く静かな空間に反響し、そして四散する。その様子が酷く滑稽にも伺え、セレスティはきつく目を伏せた。
「……ここも寒くなります。行きましょう、セレスティ様」
 背後から不意に掛けられた言葉に、セレスティは弾かれた様に顔を上げた。次の瞬間、肩から腕に掛けて軽く温かな感覚が覆い被さる様にして重ねられる。次いで、車椅子の足元に跪く様にする従順な従者の姿が、視界の中に捉えられた。まるで彼の存在を待っていたかの様に、セレスティの唇から安堵の息が零れる。モーリスは冷たくなった主の手を握り締めると、優しい仕草で笑みを浮かべた。
「人を裁く事が出来るのは神ではありません。罪を犯す事も、そしてそれを裁く事も人にしか行う事は出来ません。神とは人が思想の中で生み出した絶対的とも言える完全な存在。思想の中で生まれ、思想の中でだけ存在する事の出来る、世界で尤も認知された共通認識なのです。……ですが、神を渇望し、そしてそれに救われる者もいる事は確かです。それを愚かだと叫び、蔑む事は誰にも行う事は出来ません。……喩え、それがどんな結果を招いたとしても」
 いつもは冷たくも感じられる従者の言葉がその時ばかりはとても温かく優しいものに感じられ、セレスティは言葉の代わりにその手を強く握り返す事で返答をした。


..........................Fin
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
黒崎ソウ クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年05月16日

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