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『香ばしき時間 』
天樹・火月1600)&倉前・高嶺(2190)


 喫茶店、響。落ち着いた雰囲気と、緩やかな時間の流れるのだと、足繁くこの喫茶店に通う者が多く存在している。
 その常連の一人に、倉前・高嶺(くらまえ たかね)はいた。いつも通りに面した窓際の席に座り、移り変わる街の様子を見たり、喫茶店独自の雰囲気を楽しんだりするのが、習慣となっている。
 が、その日は全く違っていた。
 隅の席に座り、堂々と本を広げ、真剣な顔で読んでいる。時々一箇所を見つめたまま、じっと考え込んでいたりもする。
 店の手伝いをしている天樹・火月(あまぎ かづき)は、そんな高嶺の姿を見て小首を傾げた。
(高嶺さん、あんな隅に……)
「紅茶、できましたよ」
「あ、うん」
 兄に高嶺に出す紅茶ができた事を告げられ、火月はそれを盆に乗せた。そして良い香りのする赤いお茶を、そっと高嶺の席へと持っていった。
「はい、お待たせしました」
「な、何?」
 火月が声をかけると、一瞬高嶺はびくりと体を震わせたようだった。暫くして頼んだ紅茶が来たのだと気付き、「あ、ああ……」と慌てて頷いた。思わず火月はくすりと笑う。
「驚かせたかな?」
「……ちょっとだけ」
 高嶺は苦笑し、紅茶を口にする。火月はそんな高嶺の様子を見て小さく微笑み、ふと高嶺が読んでいた本を見る。
 それは、お菓子作りの本だった。「初心者でも楽しく作れるお菓子50選」であった。
「お菓子、作るんだね」
 火月が言うと、高嶺は言葉を詰まらせ、俯く。
「作りたいんだ」
 沈痛の面持ちで呟く、高嶺。作りたいという気持ちがひしひしと伝わってくる。
「何か、問題でもあるの?」
「……私には、大事な従姉妹がいて」
「うん」
「彼女の為に、お菓子を作ろうと考えたんだ」
「うん」
 そこまでは、さして珍しい話でも何でも無い。もっと言えば、特に障害となりそうなものはどこにも見つからない。
「……方法がよく分からないんだ」
「方法?」
 思わず聞き返す火月に、こっくりと高嶺は頷く。俯いたままで。
「だから、こうして本を読んだりするんだけど……やっぱり分からなくて」
 高嶺はそう言い、大きく溜息をついた。
「クッキーなら、初心者向けなんじゃないかな?」
「でも、小麦粉と砂糖と水を混ぜて終わり……じゃないから」
 想像していたクッキーの作り方とは、全く異なった作り方が書いてある本を見つめ、再び高嶺は溜息をついた。
「……それは、きっとクッキーとは違うものができるだろうね」
 妙な納得を携え、こっくりと火月が頷いた。すると、高嶺は再び大きな溜息をついて「だよね……」と呟く。
「そうだ、高嶺さん。良かったら、この店で出しているクッキーのレシピを教えようか」
「え、本当?」
 火月の申し出に、高嶺は顔を漸く上げた。火月はにっこりと笑って頷くと、レシートの裏側にレシピを細かく書いていき、高嶺に渡した。
「これでやってみて」
「……有難う」
 高嶺は礼をいい、レシピをじっと見つめて微笑んだ。火月は「頑張ってね」というと、再び店の手伝いへと戻っていった。高嶺は再びレシピを見つめ、大事そうに本に挟んでおくのであった。


 その夜。焦げた匂いに倉前家は包まれていた。
「……どこを、間違えたんだろう」
 ぼそり、と高嶺は呟きながらじっと目の前の黒い塊を見つめた。ちゃんと、火月に教わったとおりのレシピ通りに作ったというのに、出来上がったのは黒い塊であった。
「お嬢様、電話です」
「……誰から?」
「天樹様からです」
 高嶺は受話器を受け取る。すると、電話の向こうから「今、弟と代わるから」という言葉と共に、今度は火月が電話の向こうで話し始めた。
「クッキーのレシピなんですけど……」
 突如話し出した火月に、高嶺は「ごめん」と謝った。
「せっかく教えてもらったのに、ちゃんと上手く出来なかったんだ」
「出来なくて当然だよ。僕こそ、謝らないと」
 電話を持ったまま小首を傾げる高嶺に、火月は再び口を開く。
「実は、あのレシピに間違いがあって。良かったら、明日直接教えに行こうかと思うんだけど」
「明日?」
「都合、悪いかな?」
 高嶺はちらりとカレンダーを見、何も予定がないことを確認してから口を開く。
「ううん、大丈夫」
「じゃあ、明日」
 電話を切ると、高嶺は再び黒い塊を見つめた。どうやらこの黒い塊の原因は、自分ではなくレシピにあったようだ。
 高嶺はそれが何となく可笑しくなってきて、思わずくすくすと笑うのであった。


 次の日、火月は約束通りやってきた。その手に、ケーキの箱を携えて。
「本当にごめん、高嶺さん。ちゃんと確かめてから渡すべきだったね」
「ううん。こうして来てくれて、それでいいよ」
 高嶺はそう言い、家の中に火月を案内した。その途端、倉前家の使用人たちの視線が一気に火月に集中した。
「あの男嫌いの高嶺様が男性を……!」
「進歩ですわねぇ」
「進歩というよりも、高嶺様にどういう心境の変化が」
「男性という存在を嫌う必要がないと、気付いたんですかね?」
 ひそひそと話す、使用人たち。それに戸惑う火月。当然である。
「……いいから、それぞれ持ち場について」
 高嶺はひそひそと話す使用人達に向かい、言い放った。使用人たちは顔を見合し、名残惜しそうに去って行った。
「……ごめん。大丈夫?」
「有難う」
 心配そうな高嶺に、火月は微笑む。そして、クッキー作りは始まった。
「蜂蜜のクッキーなんだけど、材料はある?」
「うん。……昨日貰ったレシピ、材料は合っているんだよね?」
「小麦粉と、バターと、卵黄と、蜂蜜。……ああ、大丈夫みたいだね」
 火月はそう言い、クッキー作りにとりかかった。
 クッキー作りは淡々と進む。材料を準備しているから、後はただただひたすらに作る。レシピのどこが間違っていたかをいい、作る。説明と説明の間が、かちゃかちゃという器具が動く音しか響かぬという、妙な静けさが支配するのである。
 高嶺は悩む。一体、何を話せばいいのかと。
(火月君は、凄いな。何か修行でもしていたのか、聞いてみようか)
 ふと考えるが、それはどうだろうと慌てて却下する。例えそれが会話のきっかけになったとしても、修行したかどうかなんていうきっかけは、あまり楽しいものでは無さそうである。
 そうこうしている内に、いよいよクッキー作りも終盤戦に差し掛かった。
「……教えると言っても、何を話していいのか分からなくなってしまうもんだね」
 ふと、火月がそう漏らした。その言葉に、高嶺は「え?」と聞き返す。
「何を話していいのか、分からなくなる?」
「うん。……こうして、押しかけてきたっていうのにね」
 火月はそう言いながら、クッキングシートをしいた天板に生地を搾り出していく。二つの天板に、一人一つの割り当てで搾り出しているのだ。
 高嶺は火月の言葉に、思わず微笑んだ。生地を搾り出す火月の手元を見つめながら。
「私も、何を話していいのか分からなかったんだ」
 高嶺がぽつりと言うと、互いに顔を見合わせて笑いあった。同じ事を考えていた、という事実に。
(修行の話をしなくて良かった)
 心の中で、そっと高嶺は呟く。
「じゃあ、あとは180度のオーブンで焼くだけだね」
 火月は天板をオーブンに入れ、そう言った。二人はにっこりと笑い合う。妙な達成感と親近感が、生まれたのだ。
「できたら、お茶しによう」
 高嶺はそう言いながら、オーブンを覗き込んだ。火月はにっこりと微笑み、同じようにオーブンの中を覗きこんだ。良い匂いとともに、綺麗な色がオーブンの中に見える。
「……あ、そろそろ狐色だからいいかも」
「うん」
 火月の言葉に、高嶺は頷いて天板を外に出した。すると、最初作った時からは考えられないほど、綺麗な色をしたクッキーが出来上がった。
「美味しそう……」
「綺麗に出来たね」
 高嶺はにっこり笑って頷き、クッキーをお皿に盛り付けた。そして紅茶を入れ、火月が全て乗せている盆を持ち、テラスへと一緒に行く。火月が盆を持って運ぶ姿は、さすが喫茶店の手伝いをしているだけはあり、優雅だ。
 テラスのテーブルに置かれた狐色のクッキーは、まだほんのりと暖かかった。火月はそっと一枚手にとり、口へと運んだ。さく、という歯ごたえと共に、ほんのりと甘い蜂蜜の香りが口一杯に広がる。
「うん、美味しい」
 にこ、と笑いながら言うと、高嶺はクッキーを手にしたまま呆然としていた。火月は慌てて「高嶺さん?」と呼びかけた。すると、高嶺ははっとし、ほんのりと頬を赤らめてから口を開いた。
「えと、あんまり美味しくて。……びっくりした」
 火月はにこりと笑うと、口を開いた。
「一生懸命作ったからね。……お疲れ様。喜んで貰えると、いいね」
「火月君のおかげだ。……有難う」
 高嶺はそう言うと、頭を下げる。
「高嶺さんが頑張ったからだよ。だから、こんなに美味しいクッキーが出来たんだ」
 火月はそう言い、ふと気付く。テーブルに、火月が持ってきたケーキも並んでいる事に。火月お手製の、紅茶のシフォンケーキだ。
 高嶺は火月が気付いたのを見て、シフォンケーキをそっと口に入れながら微笑む。紅茶の香りが口いっぱいに、ふわりと広がったのだ。
「まだ、こんな風に上手く出来ないかもしれないけど……ちょっとだけ、お菓子作りを楽しいって思った」
「すぐに上手くなるよ。このクッキー、本当に美味しいから」
 火月はそう言うと、再びクッキーを口に運んだ。
「今回のは蜂蜜のクッキーだけど、他にもチョコとかヘーゼルナッツだとか、それこそ色んな種類のクッキーもあるし」
「一日一つ作っても、大変そうだ」
 高嶺はそう言い、火月と顔を見合わせて微笑んだ。毎日一つずつ作るという事は、きっとしないだろうと思われる。だが、そうしてもいいと思ったのもまた、事実であった。
「喜ぶといいな」
 高嶺は再び呟き、微笑んだ。火月も、そっと微笑む。
 二人を包む空気は柔らかく、クッキーの蜂蜜のようにほんのりとした甘さを孕んでいるのであった。

<香ばしき時間はふわりと流れ・了>
PCシチュエーションノベル(ツイン) -
霜月玲守 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年05月06日

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