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『過ぎる春 』
高天・透哉2669)&九重・蒼(2479)

 温かな風が吹き抜けて待ち人である九重蒼の訪れを待つ高天透哉の視界を淡紅色の花弁が掠める。誘われるようにして見上げたそこには満開の桜の木。惜しみなくその枝を淡い色彩の柔らかな花弁で満たしたそれは、冬の寒さのなかで遠いと感じていた春が既に訪れていたことを伝えるには十分の美しさを備えてそこにあった。いつの間にか季節は春。乾き、尖っていた空気はいつの間にかその鋭利さを忘れ、その代わりに穏やかな温かさと丸みを身につけていた。一つの季節が過ぎたことに、透哉は随分久しぶりに蒼と会うのだということを自覚する。
 互いにそれぞれの理由で忙しい日々を過ごしていた。気軽に会おうと云うこともできないくらいに、何故だか不思議な忙しさがついて回っていた。それが不意に消えたのを機に今日の約束を取り付けた。正直、透哉はどこかで今日の約束に居心地の悪さのようなものを感じている。バンドの解散に伴うごたごたや絵の仕事から生じる忙しさに疲れているからではない。ここに立つその時も胸の片隅に腰を落ち着けて離れない一つの微妙な感情のせいだ。上手く片付けることができず、今日ここに辿り着く間にも結局整理することができなかった。同性を相手に何を望みそんな想いを抱えているのかはわからない。けれど蒼に対する想いに名付けなければならないとしたらそれは淡い恋心のようなものによく似ている。伝えたところでそれが成就するとは思っていない。この複雑な感情を口にして丸く収めることなどきっとできやしないと誰よりも透哉自身がよくわかっていた。
 降る桜の雨にまだ遠くに去りきることのない日々を思い出す。まだ十代であった頃、出会いが色濃くその存在を焼き付ける長いようで短かった三年間。桜が呼ぶ記憶はその出来事の鮮烈さを思い出させるには十分すぎるものだ。家を出て四年目の春の出来事。あの日、出会うことがなければきっと今抱くこの感情に気付くことはなかった。そしてあの日の出来事をこんなにも鮮明に記憶することにはならなかっただろうと透哉は思う。
 総てをまるでスライドフィルムを眺めるような心地で詳細に覚えている。中学の三年間で慣れた寮生活。ある程度の羽目の外し方も覚え、何をするでもなく透哉は夜道を歩いていた。夜闇のそこかしこにはまだ冬特有の冷たさが香り、その冷たさのなかで例年よりも早く開花した桜が眩しいくらいに咲き誇っていた。月は冴え冴えと辺りを照らし出し、総ての輪郭が夜の闇にぼやかされることもなく鮮明だった。昼に見るよりもどこか別の顔をした総てを眺めるでもなく眺めながら、当て所なく彷徨うように歩き続けていた透哉の視線を攫ったその瞬間はモノクロの映像が刹那の間に極彩色をまとうかのようだった。
 満開の桜を照らす月の淡い光。照らし出された桜の花々は眩しいくらいの光をまとい、淡紅色の花弁の果敢なさがよりいっそう際立って見えた。晴れ渡る夜空から降り注ぐ光を遮るものは何もなく、その下に佇む人影を闇で包み込むことはない。軽く頤を上向けた格好で佇む長身はひどく様になっていた。寸分の狂いもなく完成された絵画を見るような心地がした。
 それほどまでに九重蒼を含む風景は完璧なものとして透哉の目に映る。声をかけるという些細なことさえも躊躇われたのは、その光景の力強さに圧倒されたからかもしれない。
 九重蒼という存在を知らないわけではなかった。どちらかと素行が悪い部類に入る透哉にとって流れてくる情報は誰よりも早く耳に入る。周囲が囁く生意気だという言葉と同様にして、多くの噂が自ずと透哉の鼓膜を震わせた。そのうちの一つとして蒼の情報もまた透哉の耳に入り、覚えるともなしに記憶されていた。目の前の光景が積み重なる記憶の底から透哉に関する情報を引き出し、透哉に突きつける。一言で云えば非の打ち所のない生徒。それに尽きる。人望厚く、演じるでもなく当然のものとして蒼を包む穏やかな雰囲気と人当たりの良さは学校生活において中心に位置を据える人間にとって一番必要なものだ。人が蒼を評価する時は常に大人だと云う言葉が付きまとう。悪い噂は聞かない。それは蒼が一重に真面目一辺倒のお堅い生徒ではないからだろう。ある程度の羽目の外し方を知り、なんでもできるといっても決してそうしたことをひけらかしはしない。成績も優秀らしいとのことだったが、それを自ら誇示するようなところはないようだった。当然のように周囲に人が集まる。それを煩わしがることもなく蒼は受け入れる。そうした態度が蒼に関する総ての噂を好ましいものにしていた。
 透哉の存在に気付いたのか不意に蒼が振り返る。双眸が真っ直ぐに透哉の姿を捉え、まるで予めその存在は知っていたとでもいうような親しげな笑みが浮かぶ。同じ時間を生きてきた少年だとは思えないほどの大人びた笑顔だった。そして何よりも意思の強さが際立つ笑顔だと透哉は思う。真っ直ぐに何かを信じていくことができる強さが感じられ、束の間我を忘れた。見惚れるとは違う。圧倒されたという言葉のほうが相応しいのかもしれない。
 だからその日交わした言葉はごく僅かだ。お互いにその存在は知っていたということ。改めて自己紹介を交わし、高校生活のなかにある些細な日常について話した。総ては些末なことばかりであったが、出会いの証明だとでもいうようにして透哉の記憶からそれらが零れ落ちることはない。その瞬間をきっかけに高校生活は色を変えた。どちらからともなく距離を縮め、人は二人を親友なのだろうと囁くようになるまでになる。知らずにいた多くのことを知り、完璧だと思っていた蒼の総てに過去が影響していることを知る。努力をしていないわけではない。しかし努力をしているからといってそれを負担に思っているわけではない。そんな蒼の隠された部分を透哉は高校生活の三年間で多く見てきた。人知れず努力するその姿はいつも力強く、ある種不思議な憧れを呼ぶ。
 あの日の出会いが一目惚れのようなものだったのだと気付いたのは蒼が卒業を間近に迎えた頃のことだった。既に高校を中退していた透哉にとって卒業は決して特別なものではなかった。しかしそれが蒼の卒業となると話は別なようで、不意に不可思議な淋しさが透哉を襲う。そして同時に多くのものを失っていくのだと思った。中退したといっても家を離れ、数年を過ごした寮生活のなかで得たものは多い。けれど得たものが多ければ多いほどに、高校生活が終わると同時に多くのものを失うことになるのだと自分ではなく蒼の卒業を目前にしてようやく気付いた。
 たとえ卒業することになったとしても、友人として続いていくのだと思っていた。中退した後もその関係が続いていたように、他愛もない日常を今ほど傍にいることができずとも共有していけるとどこかで信じていたというのに、指折り数えられるほど近くに迫った蒼の卒業というものが信じられなくさせる。
 三月ともなれば同級生はそれぞれに進路を決めている。それも影響していたのかもしれない。静かにそれぞれの道を選びとっていくその一人として透哉も一足先にアーティストとしての道を選び取った。蒼も大学進学という新たな進路を選び、高校というそれまで生活の中心であった場所を出て行く。一足先にそこを捨てたというのに、蒼がそこを出て行くということに淋しさを感じる自分が透哉には驚きだった。
 透哉が中退してからも続いていた友人関係は蒼が高校という二人が共通して知る場所に籍を置いていたからだったのだと気付けば、この先に確証がないことが明らかになる。失われていく。出逢ったその日に見た、桜の花が風に落ちたようにしてはらはらと失われていくのだ。
「透哉」
 不意に名前を呼ばれて、我知らず過去に意識を浸していた透哉は弾かれたように顔を上げる。高校生とは明らかに違う、本当に大人になった顔をした蒼の姿が目に映る。確かにそこにある。はらはらと落ちる桜の花弁のそのなかに、今もまだ蒼の姿は存在して、透哉の名前を呼んでいる。
 確かに多くのものが失われていったかもしれない。けれど蒼が失われることはなかったと透哉は思う。新たなものを培いながら、二十歳という子どもと大人の境界を越えた今も続いているものがある。失ったものは確かにあった。けれどその代わりに得たものも確かにある。それが空白を静かに埋めて、今に至る道を築き上げた。
 高校時代というどこか特殊な色彩をまとうあの日々を惜しむ気持ちがないといったら嘘になる。我知らず変化を続けながらも、変わることはないのだと信じられていた不可思議な三年間。そのなかで出逢った友人。今、不可解な感情を抱いていたとしても友人という関係は決して変わることはないのかもしれないと透哉は思う。蒼は気付いていない。蒼にとって透哉は繊細な親友としか認識されていない。判っている。それで十分だ。報われることにどれほどの意味があるだろうか。多くのものが失われていった高校最後の三月が過ぎても、こうして新たなものを築いていける関係がある現在以上に意味があるものが存在するとは思えない。
「久しぶりだな」
 云う蒼に応えて透哉は笑う。そして来年の春もまたこうして桜の下に共に在れたらそれで十分だと思った。
 過ぎる春。
 そして再び訪れる春。
 巡る季節は何度でもあの日の出逢いを思い出させるだろう。
 遠くに去り行く日々の向こうにあった不鮮明なものが、今はこんなにも鮮明だった。
 今もまだあの日見た笑顔で蒼はすぐ傍にある。
 意思の強さを宿した瞳と笑顔はあの頃よりも僅かに大人びて、それでもあの日透哉を圧倒した存在感を忘れてはいなかった。


PCシチュエーションノベル(ツイン) -
沓澤佳純 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年04月27日

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