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『総ていとしき神の子ら 』
嘉神・真輝2227

  何をしているの、と貴女が尋ねるので。
  私は貴女へと振り向き、こう答えました。

  ──── 声を、聴いているの 。

+++++++++++++ ++


 川沿いに居並んだ桜は今が盛りの薄紅色。風に任せてその身を散らす儚の花は、観るものの視線を容易く奪い空に去り逝く。乳白色の暖かな陽光と、そよよと吹き込む爽やかな微風。ひと日ごとに世界は色付き、命の総てが芽吹くこの季節。頬は綻び心は踊り、春よ春よと口々に誉めそやす。
 ────と。
 そんな長閑な春の日の午後に、ふああと不遜な欠伸を披露する青年の姿があった。
「……あー。春眠暁を覚えず、ってやつだよなぁ」
 コンビニ帰りのビニル袋に、カートンどさどさ「KOOL」が揺れる。買ったばかりの箱を開け、嘉神真輝は常の銜え煙草スタイルで殊更眠そうに眉を寄せた。
 休日の、昼下がりの散歩は良い気分だった。片手に愛する煙草(大量)をぶら下げて(歩き煙草禁止に断固反対!)、ぶらりぶらりとのんべんだらり。咥内で遊ばせていた煙を、窄めた唇の先からふう、と青空へ。吐き終えた後の苦くも甘い満足感。半眼の、とろりとした眼差しで消えていく紫煙の先を追っていけば、綿菓子みたいなふわふわ雲に行き当たる。家帰ったら昼寝でもすっかなぁ、と思ったそばからまたしても欠伸。そんな和やかさが花丸満点だ。
 近所の用水路沿いに真輝は道を行く。足取りは、もちろん気侭に。
 この川沿いの道は、毎年桜並木が咲き誇ることで界隈では有名だった。お世辞にも清しとは言えない都会の細流を挟んで200メールほどの道筋、わざわざ名所に行かなくたって十分花見の出来得る爛漫振りに目を細める。
 ふと見れば、同じく散歩の途中なのだろう、対岸をのんびり歩いていく老夫婦と目が合った。にっこり柔和な会釈をされて、慌てこちらも「ども」と一礼。川越し花越しの僅かな邂逅が心地好い温みを胸に齎し、ついでにニコチンも胸いっぱいに吸い込んで。
「……春だなぁ」
 ぷは、と吐いた霞の煙。頭上で桜が舞っていた。

 花見小道の途中にはごくごく小さな公園があった。
 住宅の谷間に残った猫の額程の区画だけれども、遊具と植樹とそれなりに整えられた清潔な敷地とがご近所の若いお母様方には好評らしい。普段よりきゃいきゃいと駆け回る子ども達の声が聞こえる其処は、休日の今日も矢張り盛況の様だ。
 足を止めた真輝は公園を一望する。他意はなく、ただ、何となくのこと。
 喚声を上げながら縦横無尽に走り回る男の子どもが幾人か。ジャングルジムに攀じ登り、追う子の手を逃れて滑り台で直線降下。息を切らして待てよと叫ぶあの子が鬼で、待たないよと律儀に返す子が逃げ手。笑いながらの一陣はタイヤの飛び石を渡り過ぎ、自分の眼前をすら走って駆ける。あちらはと目を転じれば、ブランコを漕ぐ娘が二人。きゃあきゃあと空に囀る黄色い声、次はわたしと待つ子がねだる。隅のベンチに座っている女性達は恐らく母親なのだろう、井戸端ならぬ公園端で、会話に咲かせた花も満開というところか。
 ちっこいのがまあわらわらと元気なことで。こきこき首を鳴らしながら眺めていると、鬼役の子の脚が不意によろめいた。
 あ、あいつ危ねっ、転ぶっ。お、持ち直した。けど惜しい、転んだ! あーあー親が走ってきたよ、そんなに慌てるとあんたの方が危ないってのお母さん。おいそこのおまえも、オトコノコなら泣くなあ。よしよし、ぐっと我慢だ。何だ、隣りの背の高いオンナノコは姉貴か? ……妹だったら、ちょっと、同情するぞ。
 なかなかに微笑ましい光景を見遣りながら、そろそろ短くなってきた吸殻を携帯灰皿(お節介な同僚に押し付けられたプレゼントフォーミー)に捩り込む。そして、新しい一本に火を点けた。
 東風から守る様に片手で作る囲い。じり、と焦げた先端にはらり、一枚の花弁が戯れに降る。
 公園の金網に凭れて一服しながら、真輝は左右に延びる並木道をぼんやりと眺めた。前には桜、後ろには子供たちの遊ぶ声。
 うん、悪くない景色だと思う。
 自宅まではまだ幾許か。時間ならばたっぷりあるし、何よりこの陽気だ。暫くここで寄り道花見というのも、乙ではないんじゃなかろうか。

 空が、ひたすらに青い。
 風が、ただただ優しくて。
 光が、蕩ける様に眩い。
 そして声が、ああ、声が賑々しく。

「 ねえ 」   「 あっ 」
「 ほら 」   「 おーい 」
「 ん? 」   「 わぁ! 」
「 うん 」   「 いくよ 」

 湧き上がる甘やかな微睡みの重力に、瞼が静かに落ちて、下りる。
 陽射しが照らす暖かさと風に運ばれてくる涼やかさがくすぐったい。ううン、寝転がる猫みたいに喉を天に晒す。髪を掻きあげるべく手を遣ると親指の付け根が耳朶を掠めて、そしてまた、子供たちの声が甘い疼きと共に鼓膜を揺らした。
「……声が、聴こえるなあ」
 真輝の唇が知らず、蜜を含んだように笑む。
 何て、心を優しく満たす情景。
 斯くも命の鼓動に溢れた声が聴こえる、世界。


+++++++++++++ ++



 何の、声? 貴女は不思議そうに訊いて、少しだけ目を伏せた。
 わからないということは、すなわち距離なのですね。
 すぐ傍らに身を寄せていたのに、指先を絡ませていたというのに。
 あの時、貴女は、微笑みの中に寂しい翳りを滲ませていた。

 私は、頭上に広がる静寂の天を、そして清閑たる花を仰ぎ見る。
 我らが全能なる至上の方よ。私たちには、約束された久遠がありますね。
 永久とも、永遠とも呼べる、長い長い平穏な命。
 あなたの創られたどんな存在よりも高潔で、理知的で、凪いだ鼓動をもつ私たちは。
 そうです、悠久の、円やかな静穏に包まれ生きていくのです。

『 だから私は、貴女とこうして、何時までも一緒にいられるのじゃない 』

 貴女はそう呟いて ── いいえ、恐らく無意識に零してしまって。
 私の、貴女よりも低い位置にある私の肩に、額をそっと押し付けた。
 この美しい世界の中で、なお鮮やかに咲く愛しい貴女。大事な、私の宝物。
 貴女だけは、どうか哀しい涙の一滴ですら、浮かべないようにと。
 私は、幾度も希い、慈しみ、貴女を愛してきたのですね。

 ──── …… けれど 。



+++++++++++++ ++


 ふる、と瞼を震わせて、真輝は何かに気付いた様に目を開けた。
 緑石の瞳に映ったのはいつもの世界。自分が暮らす街の何気なく、取り立てるほどでもない風景。
 しかしそこには光が在った。空が在った。花が在って、人が在った。
 声が、幾つもの幾層にも響き渡る声が、在った。
 真輝は振り返る。何故だかわからぬまま、急かされるようにして振り返る。
 再び駆け出した少年たち。
 再び笑い出した少女たち。
 再び興に入って話し始める若い女たち。
 風が吹く声。枝から枝へと跳ねる鳥の啼き声。
 光の射す声。遠くで電車が鉄橋を軋ませる声。
 花が舞う声。何処かで誰かが何時もの様に行き交う声。


  ──── 声を 、 聴いて、 いるの。


 声が聴こえるんだ。世界中に満ち溢れる声が。
 この地上で、生きるもの総ての声が。
 謳歌。絶唱。口遊び。
 独唱斉唱、合唱輪唱。
 声々に、声を限りに、囁く様に。
 それぞれの声にそれぞれの命のままに。
 喉を震わし、鼓膜を震わす。
 そしてその熱きものがこの体の中に注がれ。
 満たされ、血流の様に全身を巡り。
 昂るはずのなかった鼓動を、乱れさせる。
 自分を生み、優しく育んでくれた世界を離れてまで。
 大事な人を泣かせてでも殉じたいと。
 いえ、愛したいと、そこにこの両足で立ちたいと。

(空を舞うための翼ではなく道を行くための足で踏みしめたいと)

 思ったのは、だって、声を聴いてしまったから。
 声は、最も心に近い場所から生まれてくるもの。
 一番、”生きて”いるところから飛び出してくるもの。


  ──── だから 、 生まれたその時より 、 人は声を上げるのですか 。


  体を奮わし、心を揺らし。
  遊び、戯れ、怒り、哀しみ。
  奪い、失い、また得て、掴む。
  濤打つ鼓動、さんざめく想い。
  有る故に苦しみ、有る故に極まる。
  総て愛しき神の子らが、短き生を歌うその声。


  ──── だから 、 こんなにも 、 輝いて見えるのですね。



「……いとしい子ら」



  ──── どうか私を その頼りなくも逞しい腕へと 受け止めてください。



   最も”命”を生きているその世界を。

   どうか、愛させて ────。
















 何してるのよ。そんな問いかけに、真輝ははたと我に返った。
 吸っていた煙草の火種は何時の間にか燃え尽き、はらはらと花散らす風も今は止んでいる。懸命に追いかけていた少年はどうやら次の鬼にバトンを渡したらしく、仕切り直され再び駆け出す喚声が、何処か遠のいていた意識を此処へと引き戻した。
 暖かな陽射しが注ぐ春の景色に変わりはない。僅かな混乱と戸惑いが真輝の目を数度瞬きさせた。
「何、こんなところでぼーっとして。一体どうしたっていうの?」
 見れば、金網に凭れた自分の前に仁王立ちする人影。それは真輝にとって実によく見慣れた輪郭だったが、桜並木を背に首を傾ぐ姿に、らしくなく、胸の奥底柔らかなとこを絞られるような錯覚を覚える。一瞬のことだったから多分本当に気のせいだったのだろうけれど、その時、確かに────。
「……聴いてたんだ」
「なあに?」
「声を……ずっと、傍で聴きたかった声を」
「こえ?」
 きょとん、とした彼女の表情が驚くほどにあどけなく、真輝は一度噴き出す。何か重いものが急にすとんと肩から下りた気がして、吸殻を外しながら唇の端を吊り上げた。
「おまえこそ、なーにやってんだこんなトコで」
「妹が大好きなお兄様のところに遊びに来ちゃいけないのかしら?」
「似合いもしないシナを作った上に無意味に目を輝かせるなカワイイ妹」
「近くを通りかかったのよ、買い物帰りに。ほら、これとこれとこれ一式春物」
「こりゃまた買い込んだなおい」
「あ、ちょうどいいわ。兄貴、持」
「俺は先に帰るじゃあな来るなら精々ゆっくり歩いて来いよ」
「って……いい度胸じゃないのっ」
 足早に駆けて来る声を背中で聞きながら、真輝は再び煙草を一本銜えて、灯す。笑んだ視線で見つめた先、立ち上る紫煙が花霞にふわりと溶けた。


 了


PCシチュエーションノベル(シングル) -
辻内弥里 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年04月25日

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