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『過去に知る己が脆弱 』
オーマ・シュヴァルツ1953


 異様な具現亜空間の揺らぎを感知したその日、波動に胸騒ぎ覚え赴いたそこに在った姿にオーマ・シュヴァルツは刹那動きを止めた。
 振り返るその姿にいつかの自分を見た気がした。
 降りかかる返り血もそのままに、ただ殺戮の限りを尽くしていたといっても過言ではない頃の遠い自分。
 あの頃のオーマを突き動かしていたのは今の自分を思えば紛れもなく負に近い感情だった。ただ純粋に力を求め、今一つの信条として貫こうとしている不殺主義も知らなかった。戦う姿は修羅の如く残忍で、ただ一人を愛することが大切だなどとは微塵も思わなかった。力がなければ死に絶える。そう思い刹那的に生きていたといってもあながち間違いではないだろう。
 いつかのオーマの姿を模したウォズがオーマの姿をその視界に捉えて笑う。いつかの自分が浮かべていた笑みだというのに恐れのようなものを抱かせるには十分な冷たい笑みだった。姿形はひどく似ているというのに、そこにあるものを鏡に映る虚像のように素直に受止めることができないのは一体どうしてなのか。過去の拒絶なのか、それともそこにウォズの姿がいつかの自分の姿として受止めることができないからなのか。判然としないままに思考だけが縺れていく。その間もウォズは手にした二本の中華刀の柄を握る手に力を込めて、オーマのほうへと歩を進める。
 次第に縮まる距離。
 ウォズが近づけば近づくだけいつかの自分の姿がオーマの眼前に迫る。
 まるで何か決定的な過去を突きつけられようとしている気がした。
 ソーンに来てから早一年が過ぎる。罪咎罪垢血に塗れたゼノビアにはない穏やかな温もりに身を委ね、自ら強引に道を切り開いていくのではなく日々のささやかな営みのなかで開かれていく道をゆっくりと歩き続けてきた。そんなオーマを腑抜けたかと軽視するものも少なくはなかったが、ゼノビアに比べて時の流れが遅いこの新たな居場所でゼノビアへ戻ることができる道を、ここでの想いや絆を永遠にするために必要な双方をつなぐための道を探す日々を送るオーマは決して不幸ではなかった。ただ争いのためだけに戦う気持ちが次第に薄れていったのはそれが必要とされなくなったからであり、誰かのためにという目的を得ることができたからこそ自らの持つ力を蔑まずにいられるのだ。幸福な変化を与えられて今に至る。それがどうして今になって過去と直面しなければならないというのだろうか。
 不意に跳躍の気配。身の丈を越すほどの巨大な中華刀が二本、オーマの隙を突いて僅かな時間差で交互に振り下ろされる。それを咄嗟にかわし、ふと見覚えのある中華刀に視線を奪われた。見覚えのあるなしの問題ではない。いつかのオーマの手にしっくりと馴染んでいた中華刀。その存在を忘れるわけもない。結婚する以前、ヴァンサーとしてライバルと認めた友に想いと絆として譲り渡し、WOZの代償により失ったそれが何故今、ウォズの手にあるのか。疑問が生じると同時に不可解な苛立ちが芽生える。やり場のないそれはただ自分にしか向かわない。目の前にいるウォズにいらだっているわけではないのだ。今の自分には中華刀を具現することができなくなってしまったという事実が苛立ちを生むのである。
 与えられる攻撃を防御することしかできないまま、次第に追い詰められていくのを自覚しながら何がこんなにも自分を弱らせているのだろうかと思った。強引に向かっていくことができない。殺すわけではなく封じるだけなのだと思っても、どこかで躊躇している自分がいる。それに比べてウォズのほうはどうだろう。躊躇うという言葉など全く知らないのではないかといった潔さで二本の中華刀をいとも容易く操っている。まるで自分の一部であるかのように扱う様はいつかの自分の姿でありながらも感嘆するには十分だった。
 薙ぎ払われる中華刀の切っ先が頬を掠める。浅く抉られる肉。散る赤い花と僅かに送れて神経に響く痛み。そして遠くから不意に声が響いた。
 若かりし自分の声はひどく内側に反響する。
「何故……」
 問う言葉が脳裏に響く。
「……かつての力と姿を捨てた」
 これまで一度として考えたこともなかった。何故、かつての姿と力を捨てたのかなど考える必要がないことだった。多くのことがありすぎた過去。それを振り返らずにきたわけではない。振り返り、時に過去が現在にもたらすものと直面して、そのうえで導き出した答えが愛すべき大切な者たちを守りながらゼノビアとソーンをつなぐ道を模索することだった。今ここに居るのは何も過去を亡きものにしたいからではない。過去と共に生きてここまできたつもりでいた。
 目の前で振り上げられる中華刀の大きさがまるで我知らず過去を忘れようとした罪を罰するかのように見えるのは一体どうしてなのだろうか。
 寸でのところでかわし、バランスを崩しくずおれた姿勢で見上げた先にウォズの冷ややかな双眸。
 いつかの自分が今の自分を嘲っているかのように見えるのはやはりどこかで過去を忘れようとしていたからなのだろうか。
「何故かつての力と姿を捨てた」
 繰り返される言葉が鼓膜の内側で反響する。こびりつくかのようにして残響は鳴り止まず、不意に振り下ろされた一撃を避けきることができなかった。回転する視界。目に映る世界は歪み、脇腹の辺りに生温かさを感じた。無意識のうちに触れると掌にぬるりとした液体の感触。しかしその色彩を確かめる間ものなく次の一撃がオーマを襲う。何かが鈍っているのがわかる。神経の接続が狂ってしまったかのように躰が思うようにならない。ここで死ぬわけにはいかないと頭では十分にわかっている筈だというのに、躰が思うようにならないのは何故だというのか。
 思ったところでふと気付いた。
 あの頃の自分に今の自分がかなうのか、と。
 この状況がその疑問を解決しているような気がする。腑抜けたと軽蔑の言葉を囁く者の言葉は偽りではないのかもしれない。いつからかかつての姿、そして力をどこかに置き忘れてきてしまった。捨てた自覚がなくとも、どこかに置き去りにしてそのままにしていた自分がいたのかしれない。いつの間にか弱くなったものだ。
 オーマはふと自嘲気味な笑みを浮かべる。痛みが痛みとして知覚することができなくなり、次第に避けることさえもままならなくなってきて漸く、自身の姿を模したウォズと正面から向き合う。ゆらり立ち上がるオーマにウォズが小莫迦にしたような笑みを向けた。そして手にした中華刀を握りなおし、踏み込む気配を見せたその時、オーマは力の限りの声を上げた。それはまさしく咆哮と呼ぶに相応しく、ウォズが迫力に圧倒されて刹那動きを止める。
 震える両膝に力をこめて、ようやくその場に立っていられるかのようなオーマの姿はもう戦闘を続けられるようには見えなかったが、全身に傷を負い地面にいくつもの血の花を咲かせながらもオーマは決して倒れまいとするかのようにしっかりとその場に立ち続けていた。
「おまえみたいな奴にここで負けるわけにはいかねぇんだよ」
 呟いた声には明らかな覇気が宿り、何かを確かに掴んだ強さがこもっていた。
「過去に負けてたまるか……!」
 搾り出すかのように云ったオーマは自身の両手に力を込めて、まっすぐにウォズを見据えた。今の自分でかなわないのなら今の自分でなければいい。いつかの自分ならここで倒れることなくきちんと帰るべき場所に帰ることができる。捨てたわけではない。自ら封じていた。きっとその言葉がもっとも相応しい。自身の力が誰かを傷つけてしまうことを恐れた。過去に横たわる生々しい現実が恐れを生じさせた。人が嘲笑することも理解できる。弱かった。そして怯えていた。大切なものができてしまったからこそ、守りたいと思うが故に自らの力が大切なものを傷つけてしまうのではないかと思うと恐ろしくてならなかった。
 けれど今、過去の自分の姿を模したウォズを前にして思う。
 怯えなくてもいい。
 力の使い方を間違えさえしなければきちんと守り通すことができる。
 だからもう一度だけ、あの頃の力がほしいと思った。
 戻れと願う思いの強さで総てが解決するとは思わない。それでもまだこの躰に流れる血の、通う神経の、構築する細胞のどこかに僅かにでもその欠片が残っているのだというのならこの刹那だけでもいい、ここで倒れることがないよう力を与えてくれはしないだろうかと思う。他の誰にでもない自分自身に。
 骨が軋む音がする。蟀谷に浮かぶ血管。溢れ出る血がその量を増す。躰にかかる負荷は計り知れず、それでもオーマは倒れるわけにはいかないのだというただ一心で目の前のウォズを、いつかの自分をその目に捉え両の手にいつか当然のように握り締めていた剣が戻ってくるよう願った。思いを形にする。それだけのことに集中すれば、他の一切は気にならない。全身に犇く痛みや溢れる血の量がなんだというのだろうか。この場にまだ立っていられるのであればたいしたことではない。
 不意に両手に重く質量が生じる。
 頬を伝い落ちる汗と血の雫をそのままにオーマは目の前のウォズに向かって不適に笑った。
「悪く思うなよ……」
 搾り出すよう低い声で言葉を綴る。
「何も殺すわけじゃねぇ」
 それはその身に負った傷の数を感じさせないほどに軽やかな跳躍だった。一直線に斬りこんでいくその速度にウォズがひるむのがわかる。オーマは躊躇うことはなかった。手には大剣が二刀。しかし高みから振り下ろすそれが何かを捉えることはなかった。
 不意に暗転する世界。
 空間が歪む気がした。
 次元という概念が脆く崩れていく。足元が不確かになる。重力を忘れ、感覚が遠のく。緩やかに鮮明になるのは、音。そして、声。穏やかに響く、それは慎ましやかな音楽のように心地良く、今まで目の前のウォズに向けていた感情が緩やかに溶けていくような心地がした。境界を忘れさせてくれるような温かな空気に今自らが現した大剣の存在すら無意味になる気がする。
 ―――その力、使い誤るな……。
 声が静かに響く。温かさを壊すことなく、密やかに響くそれはいつかの自分の声だった。ウォズが何を諭そうとしているのか、それは判然としない。しかし何を伝えようとしているのかはわかる気がした。殺戮の限りを尽くしていたといっても過言ではない過去の自分。しかし今はそれとは全く別の生き方をしている。守りたいものが傍にいて、守らなければならないと思う。共に生きる道を望むことができるようになったのも、そうした存在が傍にいてくれるからこそだ。
 力に溺れる。
 その意味が今は強く理解できた。以前の自分はただ強くなりたかった。ただそれだけでそれ以外のことは考えていなかったように思う。だから肝心な何かを間違ったまま行動を続けていた。だからこそ罪を負い、罰を受けた。
 総ては繋がっているのかもしれない。ウォズも未だ何者かわからない自分も、そして愛するべき人々も根源的な場所でつながり、今に至る。無数に枝分かれして遠くそれぞれに離れてしまっていたとしても、根元は繋がったまま離れることはない。そんな気がした。
 きっと揺らぐ世界の不確かさが総てを証明している。存在すること、今ここで生きていること、そうした総てが不確かなものでしかないことを証明された気がしたのだ。
 ゆっくりと目蓋を下ろしてオーマは思う。
 もう二度と間違うことはない。
 何が間違いであるのかを、この瞬間に確かにとらえられた筈。
 思うと同時に世界が戻ってくるのがわかった。
 揺らぐ空間にもし意味があるのだとしたら、それは僅かな均衡によって支えられた境界はいとも容易く崩れ去るものだということを伝えようとしたのだろう。目蓋を押し開くと目の前にウォズの姿はなかった。きっと世界には何もないのだ。生み出していかなければ何も生じはしない。
 消えたウォズと同様にいつの間にか両の手から姿を消した大剣にオーマは思う。きっともう二度と自分の欲のため、そのためだけに力を使うことはない。守るべきものがいるという枷が救ってくれる。そんな自分が腑抜けだと嘲られることもかまわない。無益な争いを生じさせてしまうのであれば、腑抜けのままでいい。
 ―――強くなったな。
 言葉が耳元で響いて、不意に肩を叩かれた気がした。それはまるで長く兄弟のように過ごした友に肩を叩かれたような心強さを感じられるものだった。
 かつての力を捨てたことに理由があるのだとしたら、きっとあまりに心が幼く弱かったからだ。
 かつての姿を捨てたことに理由があるのだとしたら、姿が見せる偽りの強さに縋ることが怖かったからだ。
 今はそのように恐れるものはもうない。
 怖いのはただ、大切なものをいとも容易く失う日。
 その時だけ。
 だからもし叶うことならいつかの力をまたこの手に宿すことができればいいと思う。
 誰かのために使う力ならばもう二度と使い誤ることはない。


PCシチュエーションノベル(シングル) -
沓澤佳純 クリエイターズルームへ
聖獣界ソーン
2005年04月21日

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