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『血が見せる夢 』
エルバード・ウイッシュテン1985

 夢に見る、禍々しい過去は消えることなく鮮明に脳裏に焼きつくいつかを生きた誰かの記憶。
 朧げな輪郭。薄闇のなかに見るヴィジョン。不鮮明なシルエットであったとしても男女の骨格の差は明らかだ。力任せに捻じ伏せるようにして太い骨ばった腕が華奢な女の肩を押さえつけ、組み伏せている。
 見ているのに、見ていないような感覚。
 総てが遠い。
 まるで閉じた目蓋の裏に映し出される映像のようだとエルバード・ウイッシュテンは思う。
 男の分厚い唇が女の細い頸筋に吸い付き、その隙間から覗く鋭い歯が皮膚の奥深くにめり込んでいく。零れる血の赤さだけが薄闇のなかによく映える。血を吸っているのだと認識すれば、今自分が見ている記憶が誰のものであるのかがすぐにわかった。見せられている。夢のなかに忍び込む過去から逃れる術はない。ただありのままに展開されるそれを黙って見続けることしかできない。
 不意に女の頸が傾き、エルバードのほうへと視線が流れた。
 恍惚に満たされた至福の表情。
 何故こんなものを見せるのか。
 何故今ここでこんなものを見ていなければならないのか。
 わからない苛立ちが眠りを不快なものに変える。

 ―――何代か前の先祖のせいだ。

 思った刹那、目の前には見慣れた天井があった。
 重たい目蓋と熱を帯びる躰のそこかしこに不快感が張り付いている。ゆっくりと上体を起こし何気なく視線を落とした掌にはべったりとした汗が滲み、今しがた網膜に焼き付いていた映像の総てが不快なものであったことを明らかにしているようだった。
「最悪だな……」
 呟いた声が熱のせいでしゃがれて響く。
 夢を見る。
 自分のものではない誰かの記憶。
 血呪の一族の一人であるという覆りようがない現実を突きつける夢だ。傍迷惑な先祖が魂から記憶を辿る術などというものを得ていたために、時折見る夢は不快以外の何ものでもない。自分以外ものである感覚がまるで自分のことのように鮮明なものとなって暴力的に意識に刻み込まれる。無意識から響いてくる夢というものは不愉快なほどに厄介なものだった。
 目蓋を閉じれば夢の残滓がその闇に浮かぶ。抵抗を忘れていく女の腕。吸血という行為によって与えられる充足感に笑う男。奪われていく血が増すにつれて恍惚とした表情を浮かべ始める女とその女の表情に歓喜する男は忌まわしきものでありながらも、エルバードにとっては決して他人事ではない。
 エルバード自身もまた血呪の一族としての血をその身の内に流す者の一人だ。吸血行為は罪への代償。欲望のままに手を伸ばし、それを欲した愚かなまでの願望に与えられた贖い。魔術の真髄に至ることに一体どれだけの価値があったのか。始祖などというものは既に遠く、横たわる時間の流れに理解ができないという思いばかりが強くなる。
 今ここに血呪の一族の生き残りとして存在しているのはきっと偶然の産物にすぎない。魔術の真髄に至ることを目的に胎児に術を施したのは実験にすぎなかったのだと聞く。成功を喜ばなかったわけではないと思う気持ちはあれど、きっと成功するなどとは思ってもみなかっただろうとエルバードは冷ややかな心で思う。
 成功はいつも華やかなものであるとは限らない。それは今自らが抱える血に与えられた運命が証明している。短命であること。それを回避するためには吸血を行わなければならないという制約。吸血を拒み、短き生を終えた者がいなかったとは思わない。けれど多くは他人の生を踏み台に長く生きることを望んだ筈である。血呪の一族の吸血行為が無害であるわけではない。血と共に相手の魂を微量ながらも搾取するために時に相手の精神を破綻させてしまう。成功という輝かしい言葉に与えられた暗い制約は魂を奪うという禁忌の甘やかさをまとうが故に、理性という心を奪い誰かを壊していく。
 生きるためには倫理観などというものに囚われていてはいけないのだという云い分がわからないわけでもない。少しでも長く生きていたいと思うのは生れ落ちた者にとって当然の欲求だろう。
 だが果たして他人の生を犠牲にしてまで生きていくことに意味はあるのだろうか。
 無意識が考え始めている。答えなどあるわけもない無限回廊。長く生きることを望めば望むだけその思いは肥大していく。少しでも長く、少しでも甘美な生活を、そう望み始めればきりがない。果たされることがなければ尚更に望む気持ちは傲慢なほどに肥大していく。短命を回避するための吸血行為。できれば生命力に溢れ魔力などを備える者が良い。少しでも長く生きられるというのなら、そう願う心が見出した答えがそれだった。
 しかし生命力に溢れ魔力などを備えている者など稀である。滅多に出逢える存在でもなければ、易々と血を提供してくれる相手が総てだというわけでもない。故に言葉を尽くす間もなく襲いかかり、衝動のままに相手を殺す者もいた。自身が生き延びるというただそれだけのために、相手の犠牲などを省みるものなどいつからかいなくなってしまっていたのかもしれない。
 少しでも長く生きていたいという気持ちがわからないわけではない。きっと血呪の一族の血を引いていなくとも少しでも長く生きていたいと思った筈だ。素直になれば総てが明らかになる。死にたいと思うわけがない。戯れに死を望むような言葉を口にすることができたとしても、それを心から望んだことなど一度としてなかった。生きていたい。そう願う気持ちは何よりも強い。
 だから恐ろしく思うことがある。自らの体内を巡る血流が他人の生を踏み台にこの世まで続いてきたものであるという事実が、エルバードに畏怖を植えつける。血というものだけではない。血呪の一族の生き残りであるという事実と同時に、時折感じる酷い渇き、そして時に血を貪る衝動に駆られるという事実。それを誤魔化すために常は道化を演じていたとしても、いつかその仮面はほころび、剥がれ落ちるのではないかと怯える気持ちがないわけではない。美しく奇麗事だけで生きていくことはできないのだと頭ではわかっていても、少しでも奇麗でいたいという気持ちが誰からともなく与えられた運命がもたらすジレンマに拍車をかける。道化を演じる裏側ではいつもどこかで助けてほしいと願ってしまっている。
 夢がやまないから尚更に。
 夢が現実を突きつけるからよりいっそう。
 強く、その呪縛から逃れられないものだろうかと考えてしまう。
 何度目かの瞬きの後、ゆっくりと目蓋を下ろしてその内側の闇に眼球を浸せば見える。
 いつかの時代で同じ血の宿命を背負った誰かが他人の命の甘さに歓喜する様が。
 その誰かが与えられる恍惚に正気を失っていく愚かなまでの至福の表情が。
 総てがひどく美しく、それでいて同時にひどく醜い。
 大きく一つ溜息を零して、押し上げた目蓋。開かれる視界に映り込む自分の手にエルバードは総ての動きを刹那、停止させる。
 親指の付け根辺りに刻まれたささやかな掠り傷。
 表面張力で丸みを帯びて皮膚の上に停滞している血の存在。
 エルバードは無意識のうちに自身の手に唇を寄せていた。
 口腔に広がる錆びた鉄の味。
「まじい……」
 思わず漏れた呟きの内側から沸き起こる言葉にするのも耐え難いぞっとするほどの衝動。
 呟きとは裏腹に求めているのだという現実がますますエルバードに深く不快感を植えつける。
 吐き気を覚えるようなそれを押し殺すように強く奥歯を噛んで躰を横たえ、自身を抱きしめるようにして丸くなる。自身の腕で強く自分自身を抱きしめて、これ以上狂わずにいられる方法を教えてほしいと誰へともなく願う。
 浅ましい血への渇望。乾いていく。血が持つ甘さや温かさでしか癒されることがない激しい渇きと飢え。生きることを願いながらも与えられた運命をどこかで拒絶している自分の潔癖ささえもどこからともなく生じる苛立ちによって不快なものに変わる。ここに自分が存在するというただそれだけのことで生じる総てのことに苛立ちを覚え、どうすることもできない無力感に吐き気がする。
 何を望み、何を願い、どこへ行けばこの気持ちは救われるのだろうか。
 考えても答えなど出やしない。
 助けてほしいと願ったところで誰の手によっても助けられることはない。
 緩やかに意識を侵食する眠りの気配だけが刹那の救いをくれる。たとえ否応なく血がもたらす運命を眼前に突きつけられることになったとしても、目覚めればそれは夢にしかすぎなかったのだという云い訳を紡ぐことを許してもらえる。
 だから今は眠ろうと思う。
 たとえ眠りに落ちたその先で再び否応なしに突きつけられる血の宿命を目にすることになったとしても、それは夢のなかの出来事。
 まだ、自分は欲望の赴くまま無差別に誰かの生を踏みつけることはない。
 それを強く噛み締めれば眠りの気配はもうすぐ傍にあった。

PCシチュエーションノベル(シングル) -
沓澤佳純 クリエイターズルームへ
聖獣界ソーン
2005年04月18日

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