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『夢の体温 』
池田屋・兎月3334)&セレスティ・カーニンガム(1883)&モーリス・ラジアル(2318)

●優しい貴方の手の中で


 ぱりんっ…

 自分のどこかで音が鳴った。

 こりっと言う音と、小さな振動が体の中を駆け巡る。

 今の自分は手足も無いのに、自分の体を守るかのように縮こまった…ような気がした。 

 かちんっ…

 ぽふっ☆

 ふかふかのクッションの上に落ちた自分は、辛うじて半分に割れる事だけは避けることが出来た。縁が五ミリ片ほど欠けたらしい。幸いというべきか、自分は絵皿だったため、落下の衝撃で死んでしまう事はなかった。
 だが、最悪な事に自分は絵皿だった。
 真っ白な淡雪色の皿に、兎の絵が描かれた絵皿。自分の名前は池田屋兎月。江戸時代に生まれた一枚の絵皿でしかない自分は、我が身を守るために本性に戻ったのはよかったものの、それが災いして逆に大っぴらには動けなくなってしまったようだった。
 本日は今の主人であるセレスティ・カーニンガム氏の許しを得て、他の人外数人と外出していたのである。
 人数がいたのと、最近、人外に対して理解のある人物達との交流が多かったため、兎月は随分と油断していた。
――こんな時に……
 これ以上小さくなどなれるはずも無いのに、兎月は小さくなっていた。いつもは人化するか、兎の姿をしているため、何かあったら丸くなることができる。だから絵皿になった今も、無駄ではあるが同じように丸くなって危険から身を守り、自分を安心させようとしていていたのだった。
「くそぉ…何処に行った、化け物め!」
――違いまする!
 戸棚の向うから聞こえてくる声が、兎月の心を酷く叩く。悲しい言葉が雨のように兎月を濡らした。
 何でも変化するものはバケモノと呼ぶ心無い退魔師は、隠れた兎月を探してあてどなく彷徨っているようだ。
 そして、何かがぶつかる音が聞こえてきた。
「こんなところにいたのか、退治してくれる!」
『ぎゃぁあああッ!』
 そして、紙が切れるような音。
――そ、そんな! 酷いことを!
 兎月はその姿のまま、少しづつ県営に移動した。
 向こう側からは紙が引き千切られる音がする。仲間の一人が攻撃されているらしい。紙が破れる音がするから、多分、傘の付喪神が攻撃されているのだろう。
『ひぃいっ!』
 兎月はその叫び声を聞くと、我が身を引き裂かれているような気がして逃げ出したくなった。
――うぅ……
 恐ろしくて堪らないのに、自分は少しづつ移動した。闇雲に叫びながら走って逃げたい気持ちなのに、それを良心が引き止めるのだ。
 クッションから移動して、兎月は戸棚の上に登った。
 今まで大事にしてくれた人たちの優しさに比べれば、この退魔師の所業はなんと酷いことか。しかし、自分の周りの人間達の優しさを考えると、兎月はどうしても憎めないのだった。
 大怪我をさせないように攻撃をするにはどうしたらよいのだろう。兎月は思いあぐね、せめて退魔師の気を反らせばと、必死で仲間を逃がそうとした。
――えいッ!
 兎月は下にムートンの絨毯が広がっているのを確認すると、戸棚の上から退魔師めがけて飛び降りる。
 くるくると回転しながら退魔師の上に落下すれば、ものの見事に退魔師の頭にぶつかった。
「うぎゃぁ!」
――やりましたですよ! …あッ!

 ぱき…ん…

 ごく小さな破片が床に転がった。
――欠片が……
『兎月はーん! 大丈夫でっかーぁ!!』
 遠くで叫ぶ声が聞こえる。
 一瞬、目の回った兎月は返事が出来ない。そのまま、ころころとムートンの絨毯の上を転がって、桐箱たちの隙間に入り込んだ。
「くそお! 何する!」
 退魔師は叫んだ。
――皆様、逃げてくださりませ……
『兎月はーん! 兎月はーん!』
――はやく…逃げて……
『兎月はん…おおきにっ』
 仲間の付喪神はそう言うと、一目散に逃げ出した。その姿を見送った兎月はフラフラしながらその隙間で様子を窺う。
 やはり人間相手では攻撃しきることもできないし、そもそも、そんなことができる兎月でもなかった。怒り狂う退魔師の姿に怯えながら、兎月は隠れこんでいた。
 このまま本性に戻れば命が危うい。人化してもそれは同じだ。
 本性モードで怪我をしたために疲れは無いものの、血肉の通った姿に変化すると命に関わるからどうしようもなくなっていた。
 人目に目立たぬ人型や獣型になるわけにもいかず、だからといって追っ手がいるのに屋敷に帰るわけにも行かず、兎月は困り果てて呆然とその部屋を眺めていた。

――主様ぁ……

 こんな時になると思い出すのは、主人の優しい笑顔と暖かい手だ。
 奥深くしまわれていた自分を見つけ出した優しい手。藍で描かれた月を見上げる兎の絵柄をなぞった指先を、今でも兎月は思い出すことができる。
 可愛らしいうさぎさんですね。
 その時、主人はそう言った。
 本当に満足そうに、とても素晴らしいものを見つけたように見つめていたのだ。

――主様ぁ……

 心に思い描いて、見上げる。
 幻影でも、兎月には月のようにその笑顔は輝いて見えるかのようで、思わず涙が零れそうになった。
 希望を見出そうと辺りを見回せば、人化していたときに持っていた携帯電話が近くにあるのが見える。退魔師からは程遠く、自分からは近いところにある。

――何とか…なるかもしれませぬ……

 ほんの数分だけと決め、兎月は獣の姿に変化した。その瞬間、激痛が走ったが、数メートル必死で走る。たどり着いた兎月は携帯電話のボタンを前足で押し、懸命にメールを打った。
『屋敷に帰れないやも知れませぬ』
 たった一本の短いメール。
 兎月は主人が『敵には全く容赦しない』という事は知らない。そのメールがどういう意味を持つかも分からなかった。
 何度も間違えながら、激痛と戦いながら、メールを送信し終わると、兎月は絵皿に戻って転がった。人間の姿だったら、指一本も動かせないといったところだろうか。

――主…様…ごめん…な…さ…

 遠くなる意識を手放すと、兎月は深い眠りに落ちた。

●救い
 メールを受け取ったモーリスは、その文面を見て暫し悩んだ。
「どういうことでしょうねぇ……」
 モーリスはそのメールが何を指し示しているのかを考えた。
 ただ単に帰れない。もしくは、二度と帰れない。このどちらかだろう。帰りが遅くなるといった意味の『帰れない』なら、必ず理由が添えてあるはずだ。
 ぽんっとどこかに置くように送られてきたメールなど、兎月が送るはずなど無い。数分待っても、再び携帯はメールを受信することはなかった。
「まさか…」
 モーリスは急いで主人の部屋に向かう。
 そして、事の次第を話した。
 書類を読んでいたセレスティは、メールを読むと暫し考え込む。そして、兎月のことを思い浮かべ、屋敷を出て行く時の姿を思い浮かべた。
 そして、脳裏に兎月の危機が閃いた。思いを運命から感じ取ると、俄かに難しい顔をして溜息をつく。
「厄介なことになりましたね……」
「…と言うよりは、腹立たしいですけどね」
 モーリスはふと冷たい笑みを浮かべて言う。
「えぇ、確かに腹立たしい事この上ないですね。一体、何に手を出したと思っているのでしょうね……この退魔師は」
 うっすらと笑みを浮かべ、セレスティは言った。
「モーリス、車を用意なさい……迎えに行きます」
「はい、セレスティ様」
 モーリスはそれを聞いて満足そうに笑った。

 不意に何かの音を聞いたような気がして、兎月は体を揺らした。
 カラン…と音が聞こえる。
 絵皿である自分の体が地面に触れた音だ。遠くで誰かの話し声が聞こえる。

――主様ぁ……

 誰に言うでもなく、兎月は呟やこうとした。
 しかし、それも絵皿のままでは声にはならない。
 不意に眩しい光が兎月の頭上を白く染め上げる。
――だ…れ?
 兎月は問うた。
「おや、こんな所でなにをやってるんですかね?」
――……ぁ…
 暖かい手の感触に兎月は主人かと、一瞬、勘違いしそうになったが、かすかにシニカルな韻を含む声から、それがモーリスである事に気付く。
「セレスティ様は車で待ってますからね。早く治して帰りますよ」
――すみませぬ〜〜…
「そう思うなら、しっかりその恩を返してくださいね……体で」
 兎月が無言でいるのに、喉奥で低く笑ったモーリスは、すぐにそのひびや割れを治してやる。獣姿に変化した兎月はモーリスの手の中で緊張を解していった。
「良かった……」
 兎月を見たセレスティは思わず呟く。
 セレスティは車から降りずにモーリスが兎月を連れてくるのを待っていたのだった。
 優しく微笑むその人は、兎月をモーリスが連れてくるその間、退魔師の素性を調べ上げ、運命に干渉していた。治療された兎月がモーリスに連れてこられた時には、相手の存在は抹消されている。
 そんな事も知らずに、兎月は再び会えたことを心から喜んでいた。
――すみませぬ…ご心配をおかけいたしまして…
「いいえ、良いのですよ。それより早く帰りましょう」
 セレスティはそう笑ってそう言うと、小さな獣姿の兎月を抱えた。
 掌から伝わってくる体温は、夢の中のものと変わらないような気がする。兎月はセレスティを見上げた。
――お菓子を作ってあるのです。帰ったら…
「えぇ、一緒に食べましょう…」
――はい……
 そして、二人は笑った。

 なにものにも替え難い笑顔は、心を繋ぐ体温のように、いつまでも兎月の心を温めていた。


 ■END■
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東京怪談
2005年04月15日

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