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『月は無慈悲な女王様 』
綾和泉・匡乃1537

 この東の都に巣食う魔物は如何程なのだろう。
 抱いた恨みに忘我して他者を傷つけずにはいられない、刻んだ哀しみに捕らわれて他者を道連れにせずにはいられない。
 誰も彼もが独りが嫌で、辛い苦しいと手を伸ばす。助けて欲しいと耐え切れないと、滅びの水底へと腕を髪を心を絡めて纏わりついて放さない逃さないどこまでも共に一緒にのたうち惨めに自分だけじゃ寂しいから消えるときに泣くのは嫌だから、だから。
 ……だから。

 この東の都に巣食う、”想い”という魔物は如何程なのだろう。
 その姿、さながら葛の如くの魔物は────。


*********

 とある公園の藤棚で起こった連続変死事件が解決を見てから既に数日。
 『月刊アトラス』編集部を訪ねた綾和泉匡乃は、麗しの碇編集長様をエスコートして地下駐車場に下りた。「燃費重視」という彼女の愛車に同乗し、滑り出した夜の街には満月から少しだけ細まった月が皓皓と輝いている。
 首都環状線に乗ってしまえば綾和泉の妹宅まで然程時間はかからない。しかし高速に入る前に酒類を調達することになった二人は、進路を都内の某アルコールチェーン店にとっていた。「飲みに行きませんか?」と誘ったのは綾和泉の方だが、「手ぶらじゃ礼を失するわ」と麗香が殊勝な一声を上げたせいだ。
 彼女のハイヒールが優雅にアクセルを噴かす。綾和泉は一言断ってからパワーウインドウを開け、心地良い夜の涼風を車内に入れた。ラジオから流れ出る深夜のジャズ放送が、風と入れ違いに夜闇へと逃げていく。
「何を笑っているのかしら?」
 不意にそう訊かれて、綾和泉は口許に浮かべていた微笑を深める。シートに深く身を沈め、フロントガラスの向こう、遙か上空で光る黄金色に目を遣りながらこう返した。
 ────月が、綺麗な夜ですね。
「そうね。今頃何処かで摩訶不思議な怪奇現象でも起こってくれていたら、なお素敵な夜なんだけど」
「僕と飲むだけでは彩りが足りませんか? ううん、手厳しいな」
「あら、花の金曜の夜を一緒に過ごしましょうって、女がわざわざハンドル握って言うのよ?」
「貴方の編集部では、編集長御自ら休日出勤を奨励されているとか。しかも有給休暇は有名無実のシロモノなんだそうで?」
「言いがかりね。各々出来る限り最大限の努力と無理をしてほしいと訓戒を垂れただけよ」
「貴方の部下、ほら残してきたサンシタ……いえ、三下くん。今頃、首でも括っていませんかね」
「それは困るわ。私が欲しいのは、辞表でも遺書でも恋文でもなく原稿だもの」
「ナムアミダブツ」
 信仰心ゼロの悪戯っぽい発音で綾和泉は合掌する。そしてまた、ちらと上目で月を見た。
 後ろへと流れていく景色の中で唯一不動の欠けた真円。光が強い分、闇の濃さを思い知らされるような美しさだ。
 この東京の──魔都と呼ばれるこの大都会の、闇の濃さを。


” ──────── 助けて下さい ”

 不意に脳裏をかすめたのは、先日会った──いや遭ったと言うべきか。先の藤棚事件で犠牲となった少女の残像と、その断末魔だった。”思い出”という魔物に引きずられ”想い”と言う名の葛に絡め取られてしまった、脆弱で身勝手な魂。
 哀れとこそ思え、しかし情けをかけるつもりは毛頭無い。自分一人の悲劇にしか目を向けられない、恨み辛みしか募らせられない。そんな弱さを丸ごと救い上げてやろうとするほど自分は慈愛に満ちてはいないし、優しくもないのだから。

” ──────── 助けて。寂しいの ”


「ひとつ、お尋ねしても?」
 合わせたままだった手の指先を下唇に押し付けて、バックミラーの中の彼女を見ながら切り出した。仕事中には纏めている髪も今は解かれ、客観的な審美眼で観ても美しい女の唇が「ええ」と動く。ステアリングを左に切る遠心力を感じながら、綾和泉は何で無いこととしてこう訊いた。────いや、確かめた。
「あの藤棚のこと、来月の新刊には載るんですね?」
「……当然よね」
 右のウインカーを点滅させ、車は対岸の駐車場へと上陸する。サイドブレーキをギッと引き上げる音。彼女は暫し前を見つめていたが、やがて常の笑みを唇に浮かべると、こちらに向かって眉をくいと上げて見せた。
「ねえ、貴方の妹さんが好きなお酒は何だったかしら?」

 レディファーストの精神を強要された綾和泉が荷物持ち、率先して店内を縫い歩く麗香が主に商品検分係となった。日本酒好きな兄と洋酒好きな妹のため、二人は和洋様々取り混ぜた(要約すると手当たり次第に)瓶やら缶やらを籠に放り込む。何だか学生みたいな買い方よね、と言う彼女は楽しそうでそこそこ値の張るワインを取り上げてはタメツスガメツしている。
「そういえば、未成年の”妹”さんもいるんだったかしら? 彼女には、そうね、シャンパンでも買っていきましょうか」
「それはお気遣い痛み入ります。でもどうでしょう、まだ起きてるかな」
「随分規則正しい生活送らせてるのね。駄目よ、綺麗に育て過ぎちゃ。応用が利かなくなるし大事なものを見極める力も鈍るわ」
「碇女史が仰ると大層な説得力で。……ええと、何でしたっけ? 原稿と発行部数と……」
 そこまで諳んじると彼女は一瞬きょとんとし、それから破顔一笑。「読者アンケート」と付け加えた。
「この世で最も尊ぶべき大事なものベストスリー。よく覚えてたわね、そんな昔に宣言したこと」
「それはもう、何と言っても衝撃的な出逢いでしたから」

 自分と彼女との初めての邂逅は、互いがまだ20代も前半だった頃のこと。場所は当時勤めていた予備校の玄関先で、創刊したての『月刊アトラス』の若き編集長は自ら取材を申し込みに来たのだ。鉄壁の美貌に営業スマイルさえ浮かべず、名刺を差し出した彼女は一度瞬きしてこう言った。
『私にノーとは言わせないわ』

「正直言って、初印象は最悪でしたけどね。若い貴方は今よりもずっと無慈悲な女王様でしたし」
「あの時顔を顰めた貴方の印象もなかなかに悪かったわよ。折角のキレイな顔が台無しになるくらい」
 彼女が赤ワインを二本差し出し首を傾ぐ。じゃあ右で、と言うと、じゃあ両方にしましょう、と頷いた。
「確か、貴方が追っていたオカルト集団が僕に目をつけていたから、でしたっけ。一足飛び越えてネタからネタへと、その警察犬顔負けのフットワークと嗅覚には感服しますよ。ああ勿論、今でもね」
「猫よりも猫かぶりな貴方に褒められるなんて嬉しいわ。あの時には、こうして二人でドライブとショッピングをする仲になるとは、まさか、夢にも、思わなかったけれど」
「その点には同感です。実に、激しく、ね」

 遡るのも億劫になるほど昔から、自分の”能力”は都市の暗部で蠢くモノ達に良くも悪くも狙われ続けてきた。それを奇跡と見なすもの、障害と見なすもの、捉え方は様々なれど一様に共通していたのは最も性質の悪い一点。
 それらは必ず自分の平穏を脅かし、掌中の珠をも危険に晒そうとした。
 氷の鉄槌を下しても足らないほどの傲慢で不遜な行為である、それら一切。
 故に自分は初め、彼女もそういったモノ達の眷属であると見做した。突然現れてオカルト雑誌の取材に答えることを強制した彫刻の様に美しい女を眇め、開口一番、硬質の声音でこう突きつけた。
『貴方は、僕の最も大事なものを三つ答えられますか?』
 彼女は片眉だけを器用に寄せたと記憶している。
『仕方ないので教えて差し上げましょう。それは僕自身と、僕の妹と、僕らのみが自由に出来る生活、ですよ』
 「失礼」と最後通牒をして、彼女の横を擦り抜けた。正確には、擦り抜けようとした。
 阻んだのはすらりと伸びたピンヒールの爪先。恐らく人をもモノをも踏みつけることを厭わない強い意志が、自分の前に毅然と立ち塞がった。
『じゃあ御礼に、私の最も大事なものを三つ貴方に教えてあげるわ』
 面食らった自分を彼女は上目遣いで挑発した。学生らが引っ切り無しに往来する白昼の公衆の面前で、その手は肩へと掛かり、魅力的な紅い唇が耳元へ寄せられた。
『私の可愛い雑誌の原稿と、発行部数と、読者アンケートよ』

「貴方、あの時こう思ったでしょう。── 『ナンダソレハ』 」
「当然だと思いますけど」
 清算を終え、外に出る。眼前の道路を横切っていく車体の残した風が、彼女の長い髪をふわりと揺らした。黙した月はやはり天空に在り、闇を暴かんがための強さを地上に注ぎ続けている様だ。
 弱きもの達が昇華されることなく這い蹲るこの地上。あの月はいつでも此処を見下ろして、いつでも背筋をぴんと伸ばして、誰にも臆せず誰にも屈せず、弱き心など無いかの様に振舞っている。たとえ挫けることがあったとしても、這い上がるのは強さ。纏わり付く葛を絡ませたままの手と足で、確実に立ち、生きるのはそう、誇りだ。
 そういった”魔物”を踏みつけるかの高潔さを、意志に満ちた姿を。
「碇女史」
「何かしら」

 ────自分は、認めたからこそ彼女を、友としたのだろう。

「月の、綺麗な夜ですね?」
 運転席の扉を開けようとした彼女に、助手席の扉を開けかけた格好で微笑みかける。自然天上へ放り投げられる二人の視線が、戻ってきたところで出会い、また微笑う。
「あのね」
「何でしょう」
「”彼”の集めた資料は、そりゃあ再調査が必要だったけれど、原稿に出来得るほどのものだったわ」
「そうですか」
「来月号は献本しないから、買って頂戴」
「わかりました。妹にも言っておきましょう」
「それから」
「はい」
「美味しいお酒をありがとう」
「……明日は雹が降りますか」
「ふふ、槍くらいは覚悟しておきなさい」
 乗って。言いながら、彼女の姿が先に車内へと消える。
 やれやれと肩を竦めた綾和泉はもう一度空を仰ぎ、それから優雅な仕草で助手席に乗り込んだ。


 了


PCシチュエーションノベル(シングル) -
辻内弥里 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年04月11日

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