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『びば・のん 』
ザヒーラ・アスターヘル5105


 ザヒーラ・アスターヘルは、突如口を開いた。小麦色の肌に良く映える金の髪から除く金の目は、ぼんやりとどこかを見つめている。
「……温泉」
 ぼそり、と呟く。イスラエル出身の彼女から出てくる言葉としては、なかなかにして違和感がかもし出される。
「温泉……」
 違和感をかもしつつも、またそれが聞き間違いでは無い事を証明するかのように、再びザヒーラは呟いた。
 そう、彼女は日本好きなのだ。それも、かなりの。
「犬ヨ……」
 ザヒーラはそっと呼びかける。自らが内に宿したるアヌビス神に対してである。
「前々カラ、思ってイタのだが……」
 ザヒーラはそう言い、真剣な顔になる。このような真剣な顔になるという事は、心の奥底から思っている事なのである。ずっとずっと考え、いつ口に出そうか迷っていたのかもしれない。
 アヌビス神は、じっと次の言葉を待っていた。ザヒーラに宿っているからといって、ザヒーラの思考が手に取るようにわかる、という事は決してない。寧ろ、分からない事のほうが多い。
 何故だかは分からないが。
「温泉とやらニ行ッテみたい」
『……温泉ダト……?』
 アヌビス神に動揺が走った。何故そのような事を突如言い出したのか、全く以って分からないとでも言わんばかりに。しかし、ザヒーラはそのようなアヌビス神の思いを汲み取る事は無く、言葉を続ける。
「そうダ。温泉」
『止セ、思イトドマルノダ』
「何故?」
『愚カナ事ヲ考エテハ……』
 首を傾げるザヒーラに、アヌビス神は必死になって止めてきた。
「愚かな事でハ無い」
 きっぱりと、ザヒーラは言い放った。途端、アヌビス神に動揺が走る。
『イイヤ、愚カダ』
 こちらも、きっぱりとアヌビス神は言い放った。だが、残念ながらザヒーラに動揺が走ることは無かった。
「良いゾ、温泉。前々かラ是非に行ッテみたかッタ」
『残念ダガ……ソンナニイイモノデハ』
「知ッテいるのカ?」
 ザヒーラの突っ込みに、思わずアヌビス神は口を噤む。だが、一度出てきたザヒーラの言及が、それで収まる事はない。
「いつ、いつ行ッタ?我の知らヌ内に、温泉に行ッタのカ?」
 続々出てくるザヒーラの言葉に、アヌビス神は何とか弁明しようと言葉を捜したが、なかなかいい言葉が出てこない。
『イ……イヤ、ダカラソノ……』
「知らなかったゾ?我に内緒デ……」
『チ、違イノダ。ダカラ、ソレハ……』
「しかシ、可笑しいナ。我に内緒デ行くなんテ……」
『ダカラ、ソレハ……』
 ザヒーラの言葉に、アヌビス神は狼狽しつつ言葉を探す。何とかして止めなければならない、という使命感に襲われたかのように。
『マア、良イデハナイカ!ツマリハ、温泉ヲ諦メレバ……』
「我が聞きたいのハ、そういう事では無いノダ!犬ヨ、いつ我に黙って温泉ニ行ったノダ!」
 ザヒーラの言及は止まらない。むしろ、加速すらしているかのようだ。
『ナントイウカ……ソノ……』
「さア、白状するのダ。いつ、行ったノダ?」
 ぐいぐい、と迫るかのような言い方に、アヌビス神は言葉を捜すのを放棄した。もう何を言ったとしても、ザヒーラの言及は止まる事は無いだろうと悟ったのだ。思わず『ハア……』という、色っぽさすら感じられるような溜息すら出てくる。
 それはまさしく犬の吐息、桃色吐息。……というのは嘘だが。
 ともかく、疲れきった溜息が出てきたのは間違いなかった。が、ザヒーラにとってはそのような溜息など関係ない。関係あるのは、自分に宿っている筈のアヌビス神が、自分の知らぬうちに温泉に行っているのではないか、という疑惑だけだ。
 もし行っているのならば、その辺りを厳しく追及しなければならない。
『……行ッタ事ナド、ナイ』
「ならバ、何故知ってイル?」
『知ッテイル事ハ、知ッテイル。暖カナ水ガ、アルノダロウ?』
「風呂のようナものだからナ」
 ザヒーラの言葉に、再びアヌビス神は溜息を漏らす。諦めの境地のような溜息だ。
「そうカ……分かッタ」
 ザヒーラの言葉に、ぎくりとしたようなアヌビス神の気配を感じる。ばれた、とでも言わんばかりのびくつき様である。
「水が嫌カ」
『……』
 ザヒーラの頭の中で、カンカンカンカン!という鐘が響き渡った。どどどん、という太鼓の音までも聞こえてくる。
 あたーりー!大当たりー!
 アヌビス神の切なそうな溜息が、再び漏れてくる。
「なるホド。犬は、水が嫌なのダナ?」
『……』
 アヌビス神の声は全く聞こえないが、こっくりと頷いたかのようだった。ザヒーラに宿る神とは言え、しょせん犬は犬。水を好む事は無い。
「犬、だから仕方ナイ」
 ザヒーラはアヌビス神を励ますかのように、ぽつりと呟く。そんなザヒーラに、アヌビス神はほんの少しだけ、励まされたようだ。
『ナ、ナラ……諦メテクレタカ』
 話の流れ的に、そうなるのは至極自然だ。温泉に行きたいザヒーラ、だがザヒーラの内に宿るアヌビス神はそれを嫌がった。水だから、嫌なのは仕方ないのだ。
 ならば、ここはザヒーラが温泉を諦めて大団円……となるはずだ。
 だが、ザヒーラはにっこりと笑ってから首を大きく横に振った。
「嫌ダ」
『……!』
 変化球。大団円には、行かない模様である。
「何故、我ガそんな事の為ニ諦めなければナラない?」
『イヤ、シカシダナ……』
「我は温泉に行きタイのだ。温泉とやらに行ッテみたいノダ!」
 きっぱりと言い放つザヒーラ。断言をするザヒーラ。もうこここまでくると、潔いというか格好良いというか何と言うか。
 アヌビス神の言葉など、拒否など、最初から無かったものと同じといえよう。
「さア、どこの温泉が良いか決めるゾ」
『ドウシテモ、行クノカ?』
「勿論ダ」
 アヌビス神は呆気に取られたように、黙ってしまった。再び溜息をつき、ぐっと何かを堪えて震えているかのようだった。
「大丈夫だ、犬ヨ」
 ふと、優しい声でザヒーラがアヌビス神に呼びかけた。
「温泉に入る時、呪文を唱えれバ良いのダ」
『呪文……?』
「そうダ。よく覚えてオクがいい!」
 アヌビス神の中に、希望が芽生える。嫌いな水につかる時に唱えれば、大丈夫だという呪文。そんなものがどうして存在しているのかはさっぱり分からないが、藁にも縋りたいのだからそんな事は今、気にしない。
「びば・のんの」
『……ハ?』
「またハ、びば・のん。古くカラ日本に伝わる呪文ダ」
 アヌビス神は思い描く。聞いた事のあるその言い回しを。アヌビス神が知っている限り、それは決して水が嫌いな時に唱える呪文ではない。そう、決してそうではない。
「ああ、楽しみだナ」
『マ……待テ……!』
 アヌビス神は慌てて止めたが、ザヒーラが聞く様子は全く無かった。それどころか、どこの温泉がいいのかを選択しようとしている。
『待ツノダ……!』
 必死になるアヌビス神の言葉も、楽しそうに温泉を選ぶザヒーラの耳に届く事は無かったのだった。

<いい湯を求めて・了>
PCシチュエーションノベル(シングル) -
霜月玲守 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年04月11日

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