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『■白い御使いの贈り物 』
瀬戸・マリア(w3b517)

ネオンがちらほらと灯り始め、街がその顔を夜へと変え始める黄昏時。空は茜色の端から徐々に紺のグラデーションが顔を覗かせ、その下を足早に急ぐ人々もどこかそぞろとして一層歩を早めているようだった。
日差しや気温は大分春めいたとは言え、夕暮れ時の風はまだ冬の匂いを残している。先の条例改正で無性にもの侘しくなった繁華街をも通り過ぎ、肌を撫でる寒風は空中へと溶け消えた。
週末の副都心ともなれば人通りはいつにも増して激しく、赤信号に舌打ちする人々の横顔を巨大スクリーンが照らしている。何とはなしに夕方のニュースを見上げる人を尻目に、何組かのカップルはお互いの話に夢中で身を寄り添わせていた。
その光景がよく見られるはず、今日は三月十四日。ホワイトデーと称しバレンタインほどではないものの、世の男女が盛り上がる恋愛イベントの日だ。
――と、その一組。片割れの今時風な茶髪の男のジャケット、その裾を引く小さな白い手があった。
怪訝そうに振り返った男の視線の先が、相手の姿を見つけられずに自然と下げられる。それもそのはず、手の主は七〜十歳歳かと言う小柄な少年――もしかしたら少女かもしれない。金の髪に透けるような陶器の肌とスカイブルーの瞳を持つ、異国の人間だった。
明らかにこの街に、場に似つかわしくない空気がそこにあった。が、そんな事を気に留める風もなく、目が合った事で嬉しそうに微笑みながら、彼は愛らしい唇を開く。
「幸せ。見せてくれる?」
問いの意味如何はともかくとして。天使のような容貌から発せられた声もやはり、外見を裏切らない透明感のあるものだった。外国人にしては完璧な日本語のイントネーション。期待にきらきらと輝く真っ直ぐな双眸が、彼を単なる迷い子ではないと物語っている。
ますます戸惑いを深めていた男の顔が、更に困惑したものへと変わる。まるで見てはいけないものを見てしまったかのように気まずい表情で、信号が変わったのをいい事に逃げるように彼女を促すと去って行った。
「あ…」
男を引き止める言葉を持たず、ただ後姿を見送ってから、少年は悲しげな顔でうな垂れた。
先程から四度目になるだろうか。最初は迷子かと警察に連れて行かれそうになり、次は男の方にふざけるなと怒鳴られてしまった。三度目は子供特有の戯れだと思われたらしく、やはり相手にされずに終わった。
それが当然の反応で、自分が見様によっては電波とも取れる問いを投げかけているとは、少年は気づいてもいなかった。ただ自分の問い方がまずかったのだろうと得心したが、かと言って他にどう尋ねたらいいのか、人の言葉は複雑過ぎて理解の範疇外だった。情けなさにうちひしがれている暇もない。
最初はもっと繁華街に近い方で呼びかけていたのだが、警戒中の警察官に無理やり保護されそうになってしまったのだ。それも警官としては当然の責務だったが、生憎彼は警察というものをまだ理解していなかった。いつまたあの制服の人達に追いかけられるかと思うと、気が気でならない。
それに――
「…早くしないと……」
焦りに似た呟きが、雑踏の隙間に零れる。
――もうすぐ。もうすぐ、今日が終わってしまう。
泣きたい気分に駆られつつ、顔を上げた彼が次の対象を探して視線をさ迷わせた。もしまた次も駄目だったらと不安がなかったわけではないが、それ以上に彼は人間が大好きだった。純粋に信じていた。
傍を通り過ぎる人々が物珍しそうに一瞬視線を流し、何事もなかったのように素通りする。目を凝らして見つけた、その先に――


□四人

最初に目が合ったのは、不思議な色だった。濁りのない少年達の目に比べ、うっすらとグレーがかっているように見える。だけどそれはふわふわとした彼女の日本人離れした雰囲気にとてもよく似合っている、優しくて深みのある色合いだった。
「あっ、可愛い子がいる〜。僕、どうしたの〜?迷子かな?」
真っ先に小走りで駆け寄ってきた彼女の名は瀬戸・マリア。目線を合わすために少し屈んだ際、柔らかそうなロングウェーブが春風に揺れる。明るい声もとても軽やかで、歌など紡いだらどれほど綺麗なんだろうと少年は思わず想像した。きっと、普段自分が聞いているのと変わりなく美しいに違いない。何より、自分に話しかけてくれた、笑いかけてくれたのが嬉しくて、早速口を開こうとしたその時。
「マリア、お前という奴は……ッ、あれほど走るなと……」
少年が返事をする前に、マリアのすぐ後ろから長身が姿を現す。慌ててはいるが濃いグレーのスーツを一分の隙なく着、見るからに生真面目そうな男性。眉を寄せて、怒ったようにマリアの腕を掴んでいる。メタルフレームの奥から覗く視線がマリアから自分へと訝しげに送られて、また怒鳴られるのかと思わず一歩下がってしまった。怖かったわけではないが、それに気づいてか、男――吉沢・由貴は若干目元を和らげる。が、困惑の気配は残ったままだ。
「んもー、睨む事ないでしょ?怖がってるじゃなーい」
「に、睨んでない。ええとだな、君はどこの――ってマリア、お前はあれほど走るなと言ってるのにだな!」
「またそれー?由貴さん大袈裟〜」
マリアと由貴、結婚三年目となる若夫婦はいつもの応酬を往来で始めていた。大抵由貴が一方的に怒っており――とは言っても理にかなった抗議ではある――最終的にはマリアが理不尽な勝ちを収めるのだが、恋人時代からいつまで経っても日常茶飯事の光景だ。
「由貴さん、その辺にしてあげて?」
クスクスと忍び笑いを漏らしながら歩み寄ってきたのは笹川・璃生。黒髪のショートカットはボーイッシュというほどではなく、程好く女性らしいフォルムを描いている。友人二人に向けている瞳は少年の色に近い、天の青だ。控えめそうでありながら、どこか意志の強さも感じさせる輝き。マリアがコスモスのピンクならこの人は百合のような白が似合いそうだと勝手に思っていると、本当に花の匂いが鼻腔をかすめた気がした。
「そうだよ、妊婦さんに怒鳴るのはあまり感心できないね」
ひときわ落ち着いた声音は璃生の隣から聞こえた。由貴と同じダークスーツを着こなしているのに、比べてどこか大人の余裕みたいなものが感じられる。多分年齢もこの中で一番上なのだろう。漆黒の長髪に紅玉の瞳、耳にはたくさんの輪が光る。華人で王・星光と言った。浮かべた微笑は人当たりが良さそうなのに、どこか妖しげで人を引き込むような魔力がある。
四人は数年来の友人で、今日は由貴の仕事が早く終わった事もあり、マリアの提案でダブルデートを楽しんで来たところだった。ちなみに男二人が女性陣の荷物を持っているのだが、マリアの買い物袋は璃生より倍はあろうかと思われる。これもある意味いつもの光景で、既に由貴も文句すら言わなくなっているのが物悲しい。デパート帰り、折角近くまで来たんだからと王がオーナーを勤める昔馴染みの店に足を向けようと通りがかったのだ。
璃生と星光が二人ともマリアの肩を持った事に、由貴はお前達は甘やかし過ぎると溜め息混じりに呟いた。この二人に関わらず何故かそういう傾向にあるのは、マリアの得な性分としか思えない。……別に自分が損な性分などとは(略)
「にんぷ…さん?」
聞き慣れない言葉を少年が反芻すると、マリアが微笑みながら愛おしげに自分の腹を撫でた。その姿はいつか本で見たかの聖母と重なって、何だか眩しくさえ思える。そういえば、マリアの腹は他の三人より少し大きく張り出していた。単に太っているのとは違うようだ。気のせいだろうか、何かそこから暖かいものが溢れているような心地がする。
「そう、この中に赤ちゃんが入ってるの〜」
少年は目を見開く。マリアの顔と腹を交互に見つめる事しばし。
「赤ちゃん?人間の、子供?この中に入ってるの?――すごい!」
「えへへ、すごい?でも大変なのよ〜、ようやく安定期入ったんだけどねー」
「……ちょっと待て。何和やかに話してる」
辺りに花でも舞ってそうな二人の間に、由貴が割り込んだ。ツッコミ&フォロー役はいつだって彼の役目である。にも関わらず、二人は既に別世界に行っているようで更に花を咲かせていた。
「じゃあ二人で作ったの?すごい!」
「何の話をしてるかーーーーーーーーーー!!!!」
「ゆ、由貴さん……」
火でも噴きそうな由貴の怒鳴り声に、通りすがりの人々が思わず振り返った。耳まで真っ赤になっている由貴につられて、止めたものかとおろおろしている璃生の頬もうっすら桜色に染まっている。元々こういう話題には免疫がない二人なのだ。そんな璃生の様子を見かねてか、星光が小さく苦笑すると夫婦の合間にさり気なく割り込んだ。
「とりあえず、生命の神秘は置いておこうか。――君はこんな所で何をしてるんだい?もうすぐ夜だし、子供の一人歩きは危ないよ」
「そうね……何か困っている事があるなら、私達で力になれないかしら?」
同じく頷き、少年の顔を覗き込むようにして尋ねる璃生。――少年の小さいながらも真っ直ぐな瞳に、雰囲気は違うけれど、自分を送り出してくれたあの子を見てしまう。いつでも自分に元気と笑顔を与えてくれる大切なパートナー。だからだろうか、自然と放っておけない気持ちになったのは。
ようやく犬も食わない喧嘩を止めたマリアと由貴も、黙って少年を見守る。八つの目に囲まれて、いささか萎縮したように少年は俯いた。
怖かったわけではない。自分を見守る目には不審も不快もなく、善意に満ちている事もわかっている。ただ、また上手く伝えられなかったらどうしよう。折角初めて尋ねてくれたのに、呆れられて去られてしまったらどうしよう。その不安が声を詰まらせる。
「……ゆっくりでいいぞ」
そんな少年の心情を悟ってか、遠慮がちに由貴の声がかけられる。少年は顔を上げた。四人の顔を見る。胸につかえていた塊が、光に当たって溶けていくような気がした。
「あの……ね。――幸せ。見せてくれる?」




□『Jack Hammer』

地平線が鮮やかな紅を残し、覆いかぶさるようにして紺色の幕が刻一刻と広がっていく。色とりどりの光が錯綜し、闇の部分をより一層際立たせる。この街が最もこの街らしく輝く時間が迫るにつれ、宝石を散りばめたような世界が窓の外に顔を覗かせ始めていた。
地上数百メートルの景色は『Jack Hammer』の売りの一つで、新東京一帯を見渡せる。新たに復興した街並みは、以前のそれとほとんど遜色なく都心の威厳を保っていた。高層ビルの一角に位置するこの店はかつては魔皇の秘密基地と呼ばれており、逢魔の作る特殊な結界の中に現実の蜃気楼として存在している。
広いフロアの内装は落ち着いたトーンの色合いでまとめられ、高級感がありながら決してくどいものではない。元々は女性客やカップルが多かったが、最近では男性の一人客なども増えている。古今東西の酒をリーズナブルな値段で味わえ、ステージの音楽を楽しみながらゆっくりと寛げる。正に大人のための隠れ家だった。
「わぁ……天が、とても近い」
開店前の店内で、窓から夕景を見下ろしながら少年――エルは感嘆の溜息を零した。そのすぐ後ろに立つマリア――道すがらの自己紹介で『マリア』の名を聞いた時、少年はひどく喜んだものだった――はエルの肩を抱きながら、同じように下界に視線を向ける。
「気に入った〜?夜になると、もっと綺麗なのよー。ね、璃生ちゃん☆」
「ええ、とても……未だにちょっと足が竦んじゃいますけど」
いささか冗談めいた口調で笑い返した璃生は、店内をさり気なく見回した。ここは四人が出会った場所で、数え切れない思い出が溢れている。胸が痛くなるものも、温かくなるものも。どれも大切でかけがえのない欠片たち。
あの後、立ち話もなんだからと当初の予定通りこの店に向かう事にしたのだった。少年の問い――『幸せとは何か』を各々考える時間も欲しくて。何より可愛いもの好きのマリアがエルを気に入ってしまって、絶対一緒に行く〜と言ってきかなかったのだ。
「未成年者略取……」
厨房の奥で呟いてるのは、最後まで難色を示した由貴だった。もちろんエルをあの場に一人残していくのは反対だったが、万が一迷子だったりしたら両親もさぞかし心配しているだろうしと――結局はいつもの通りマリアに押し切られる形となったのだが。
その由貴が何をしているかと言えば、これまたマリア様のご要望に沿って軽食を作っているところだった。実質ここの料理長との噂も名高い由貴は、和洋中華とプロ顔負けの腕を誇っている。水曜日などは由貴特製のオリジナルデザートが出たりするのだが、あっという間に売り切れてしまうほどだ。
真剣に悩んでいる彼の姿がコミカルに映るのは、その戦闘服・割烹着ゆえに他ならない。彼を心身ともに名物『ハマーのおかみさん』足らしめる要素の一つである。
「深刻に考え過ぎだよ、由貴。エルも警察には行きたくなかったみたいだし、無理に連れていくのも可哀相だろう?かと言って家出という様子でもないし」
カウンターでノンアルコールカクテルを用意しながら答える星光に、楽観的な…と由貴の呆れ声が返る。が、文句を言いながらもエル用のお子様メニューをちゃっかり準備している様子に、星光は忍び笑いを漏らした。
――数分後。テーブルの前に並んだ、軽食と呼ぶには豪華過ぎる料理の数々に、エルはぽかんと口を開けたまま見入っていた。
魚介のマリネ風前菜から始まり、お子様受けの良さそうなエビフライにナポリタン、白身魚のソテーにシーザーサラダ、コーンスープ、生クリームとシャーベットを添えたケーキまである。立派にイタリアンフルコースだ。
「いつもながら……すごいですよね。由貴さん、ソテーのソース、レシピ教えてもらえます?」
家に帰ったら作ってあげたいなと思いつつ、少しは持ち帰らないとずるいとなじられてしまうだろうか。我が家のエンゲル係数値を上げている逢魔を思い出しながら、頂きますと璃生は手を合わせた。
「ああ、構わんぞ。水鈴用は別に取ってあるから遠慮なく食べろ」
さすがおかみさん、抜かりなき気配りである。とは璃生の胸の内。
「由貴さん、これだけは取り得だもんね〜」
「だけとはなんだ、だけとは。家事諸々、一体誰が請け負ってると……」
「聞こえなーい。はいエルちゃん、あーん♪」
あーん?と首を傾げたエルに、口を開けて?とスプーン片手に教えるマリア。向かい側で由貴が微かに眉を動かしたのは、もちろん目に入らない。ぱく、とスプーンごと飲み込んでから、エルが目を見開くと興奮したように足をジタバタさせた。
「美味しい!こんなに美味しいもの、私は知らない……由貴、すごい、料理の天才だね!」
「い、いや、そこまで喜んでもらえると……」
こんな幼い無垢な子供に一瞬でも嫉妬した自分が大人げないと言うか醜いと言うか狭量(略)……しばらくして自己嫌悪から立ち直った由貴は、小皿にエル用のサラダを取り分け始めた。
「君のヤキモチ焼きは、筋金入りだからね」
耳元で可笑しそうに囁いた星光を思い切り睨むものの、迫力はない。何しろ由貴にはマリアと思いが通じた時、恋敵だと勘違いして星光を思い切り殴ってしまった借りがある。それは結局自分達をくっ付けんがための星光の芝居だったわけだが、つい昨日の事のように思い出されて何とも気恥ずかしい。
「エル君、私のエビフライも食べる?」
「いいの?ありがとう、璃生大好き!」
「あ、じゃああたしのも〜」
「マリア、お前はこっち」
「え?」
舌鼓を打つ四人を尻目に、マリアを牽制すると由貴は厨房から別トレイを運んできた。その上にはイタリアンと比べたら多少見通りする、慎ましい和食が並べてあった。慎ましいと言っても、きちんと栄養バランスの取れた献立である。
「何それ、なんであたしだけ仲間はずれなのー!?」
「妊婦メニューだからだ。お前最近つわり収まってきたからってちょっと食べ過ぎ、太り気味だろ。だからだな……」
「デブって事!?由貴さんがデブって言ったーーーー!!」
「人の話を聞かんかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
璃生に抱きついてわんわん泣き始めるマリア。もちろん彼女の専売特許、必殺・嘘泣きである。実際涙も零れるなどあまりに上手いので、特に男性達が疑いつつも騙される事が多々。璃生は困ったように微笑みながら、抱き止めるとマリアの背を優しく撫でた。……背中の肉もついてないし、それほど太り気味とは思えないのだが。
「由貴さん、心配なのはわかるけどもうちょっと言い方が……」
「それに妊婦さんに怒鳴るのは頂けないね」
「だからお前達は甘すぎる!いいか、太り過ぎると妊娠中毒症と言ってだな――」
またしてもマリアを庇う友人二人にまで説教は及ぶ。目を瞬いて大人達を見ていたエルは、エビフライ片手にみるみるうちに悲しそうな顔で由貴を見つめた。
「由貴、マリアをいじめないで。仲良しが一番だよ」
「エルちゃーーーーん」
今度は璃生からエルへと抱きつく対象を変えるマリア。若干戸惑いながらも、璃生の真似をしてよしよしと慰めてみる。マリアの腕の力がもっと強くなって、甘い匂いと柔らかさがくすぐったい。
「……わかった。太ってない。全っ然太ってないから、こっちを食え。俺はお前と、子供を心配して言ってるんだ」
「本当?あたし、太ってない?」
「ああ」
「あたし、妊婦でも可愛い?ちゃんと好き?」
「………………ああ………」
ギリギリの譲歩。搾り出すような細い小声をキャッチしたマリアは涙などどこへやら、笑顔全開のご機嫌で和食に手をつけ始めた。がっくりと項垂れる由貴の肩を、星光が苦笑しながら労わるように軽く叩く。そのまま、両手に花状態のエルへと視線を流した。
「ところで、本題なのだけれど。エル、君は幸せを見せて欲しいと言ったね?どうしてなのかな。詮索するつもりはないけれど、理由がわかれば俺達も協力し易いかと思ってね」
言葉通り、口調は問い詰めるものではなく子供向けの優しげなトーンだった。エルはフォークを皿へと置くと、真剣な顔で考え込む。自分が負ったものを、限られた範囲で上手く説明出来るように。
「あの……今日って、特別な日でしょう?私は、それに関する幸せを探しに来たんだよ」
「特別な……?ホワイトデーだから、でしょうか?」
璃生の星光に対する口調は、恋人となった今でもどこか礼儀正しさが抜けない。それは距離を表しているようで少し寂しいね、と星光はいつもからかってみせるのだが、あながち間違いでもないのかもしれない。
手が届くと思っていなかったから。璃生はいつもそう言い、どこか自分に対して遠慮するようなところがある。それが璃生の長所でもあり恋人としては困った欠点でもあると、星光は常々思っていた。
「そうだね、他にこれと言って思い当たらないし。すると……恋人達の幸せって事かな?」
「……そうだと、思う。男の人と女の人、二人一緒にいるよね?ええと……仲良しなの、かっぷるって言うのかな?その人達ならわかってるって仰ってたから」
「仰ってた?」
子供らしくない敬語表現に由貴が聞きとがめると、慌てたようにエルが言葉を探した。
「あ、えっと……私をここに来させてくれた人が。そう、言ってたの」
「エルちゃんに幸せを見つけてくるよう命令した人〜?」
「うん」
そのまま追求しなかったのは、由貴もマリアも、璃生も星光も既にエルがただの人間の少年ではないと勘付いていたからだ。少し考えて、気づかない方がおかしいのかもしれないが。魔皇ゆえ、人外の存在を認められないほど常識に縛られてはいない。そして問い詰めたらエルが困るであろう事も悟っていた。
「なーんだ、じゃあ簡単じゃない☆」
璃生に手を貸してもらいながら立ち上がるマリア。そのまま向かいのソファーに座っている由貴の元へ。どうした?と言いたげな由貴の顔――頬にキスを一つ。それはマリアの祖国では挨拶代わりにするような軽いものではあったが、純粋日本培養、大和撫子並みに奥ゆかしい由貴にはそれは刺激の強いもので。
「!?!?なっ、なっ、お前、人の…こ、子供の見てる前で何……!!」
「こんな感じ〜♪後はね、この子かな」
酸欠状態の由貴には構わず、素敵なキスに見惚れてしまっていたエルに向かってにっこり。腹に手を当ててゆっくりと撫でる。慈しむように、呼びかけるように。
「愛の形が新しい生命なんて、神様ってすっごくロマンチックだと思うわ☆もちろん、今まで楽しい事ばかりだったわけじゃないけど。嫌な事や悲しい事がなければ、幸せが何かわからないじゃない?」
環境や自分の弱さに潰されそうな事も幾度かあった。それでも乗り越えてこられたのは、支えてくれる親友や仲間、何より由貴がいたから。たくさん周りに迷惑もかけてしまったけれど、だからこそ掴み取った幸せは何があっても守りたい。誰よりも自分自身が幸せでいたいと、強く願う。でなければ彼らに、生まれてくる子に申し訳ないから。
「……そう、ね。私も、幸せはそれだけじゃ成立しないと思うの。恋って自分の嫌なところも浮き彫りになるし……苦しくなかったって言えばそれは嘘。でもその苦しさの分、今笑い合えるのがすごく嬉しいの」
星光の見守る目線を感じて、照れ臭そうに璃生が微笑む。――何度みっともなく泣いてしまっただろう。眠れない夜を重ねて、どうしようもなく苦しくて。風のようにすり抜けてしまうような人。一人空回りしているようで――それでも最後に残ったのは、この人の側にいたい、好きという思いの原石。無理な背伸びは止めて、それでも手は伸ばしていたい。いつだって。
「俺の幸せは――こうやって作ったものを隣でマリアが美味そうに食べてくれる。そんな当たり前の日常だな」
璃生に続いてポツリと由貴が呟く。幸せとは何か――漠然とし過ぎていて上手い答は見つからない。きっとそれほど特別なものではないのだと思う。そこにあって当たり前のもの。当たり前だけれど、なければ生きていけない空気のようなもの。シンプルだからこそ、見失いがちなもの。怒鳴って喧嘩して、それでもまた笑い合える日々のような。
「見せるのはなかなか難しいね。幸せは、刹那にふと感じるものだと思うよ。青い瞳が俺だけを見ている時とか、はにかんで照れた顔とか、ふわっと漂ってくる花の残り香とかね」
相変わらずな星光の台詞に、璃生は思わず頬を赤らめる。星光の方はと言えば、照れなど微塵も浮かんでない様子で微笑み返していた。その瞳に映るのは、何度も傷つけた彼女の姿。手を離せばそれもなかっただろうに、そうしなかった自分のエゴ。それを認められないほど幼くはなかった。あっさりと離せられるほど、大人でもなかった。
店内に優しい沈黙が降りる。皆思い思いの表情で自分の過去を振り返っていた。今の自分達を築くもの。関係の軌跡。エルもまた真面目な顔で、皆の答を受け止めて自分なりに消化しようとしていた。
BGMは柔らかなピアノの音色。軽快なテンポなのにどこか切なく、物悲しい。ハマーはそろそろ開店を迎え、今夜もまた様々な人達を受け入れる。出会いと別れを繰り返し、人の数だけドラマを紡ぎだす。涙も苦しみも、全て飲み込んで街へと流れて行く。
――どうか。その分だけ『幸せ』が降りますように。せめて今日だけは幸あれと。
最後の茜色を窓の外に見送りながら、エルは胸の前でそっと両手を組んでいた。




□家族

「マリア、本当にいいの?私、二人の邪魔じゃない?」
「いーのいーの、まだ時間はあるんでしょ?だったらもう少し、『幸せ』見せてあげられるから☆」
ハマーを出た後、遠慮するエルがマリアに連れられてきたのは、世田谷の閑静な住宅街にあるマリアと由貴の新居だった。著名人の豪邸が立ち並ぶ中に成熟した雰囲気が流れ、桜並木を見渡せる一角に彼らの家はある。二階建ての外観はオーソドックスながらどこか品のよさを漂わせ、手入れの行き届いた広い庭を色とりどりの花々が彩っていた。
結婚してしばらくはマリアのマンションで暮らしていた二人だったが(由貴のワンルームでは狭苦しいとのマリアの駄々こねにより)子供が出来た事で一念発起し、一戸建てを持とうという事になったのだ。由貴とマリアの収入差からどのような家を建てるかで揉めたものの、結局はマリアの意見でこのような周囲と比べても見劣りしない瀟洒な家に決まったのだった。根っから小市民な由貴などは、未だにに贅沢過ぎると多少気後れする部分がある。別段家の事だけではなく、根本的な金銭感覚が二人は違い過ぎるのだ。それでも上手くいっているのは由貴が大分譲っている事や、その他の相性がやはりぴったりだからなのかもしれない。
ゆったりとした廊下を進み、リビングの扉を開いた途端。何かを見つけたエルが顔を輝かせた。
「あ!これ、赤ちゃんのベッド?小さくて可愛い……」
「うふふ、そうよ〜。由貴さんたら気が早いわよね。もうおもちゃとかも色々買って来るし〜」
「は、早くなどない。徐々にこういうのは準備していかないとな。お前も産まれたらしばらく身動き取れないんだから、今のうちにやりたい事、やるべき事はやっておけよ」
上着を脱いで早速お茶の準備に取り掛かる由貴を見て、エルは可笑しそうにくすくす笑った。立派過ぎるシステムキッチンは既に由貴の城であり、マリアが足を踏み入れると怒る有様だ。それはひとえにここを戦場にしかねない、マリアの超絶破壊的料理音痴に起因するものではあるのだが。
「どうした?エル」
「ううん。由貴の方がお母さんみたいだなって」
そうよねー、由貴さんが妊娠しないのが不思議☆などと追撃が来ると踏んでいた由貴は、ちらりとマリアに視線を遣った。が、予想に反したマリアの、どこか沈んだ顔に面食らう。
マリアは昔からどこか情緒不安定なところがある。それは華やかな舞台で自分の弱さを隠さなければならなかった日々がそうさせるのか、生来のものなのか。いずれにしろ普段の明るさの裏返しで、本当はひどく脆くて繊細な事を由貴は知っていた。そして妊娠してからそれが輪をかけている事も。感情の起伏が激しく、自分でもコントロール出来ないような事が度々ある。
問い詰めるといつもの冗談で逃げるから、こういう時は自分から喋り出すのを待つ。エルの分のクッキーを乗せて、二人の待つリビングへと紅茶を運んだ。
「ほらエル、お菓子だぞ」
「これは何?さっきのけーきの仲間?」
そんな他愛もないやり取りをしながら、マリアの様子を窺う。
「……本当、由貴さんがお母さんだったら良かったのに」
唐突にポツリと呟いたマリアの声は頼りなく、横顔も儚げだった。隣のエルが驚いたように見つめる。が、先程までとは打って変わったマリアの様子にクッキーごと言葉を飲み込んだ。
「どういう意味だ?母親はお前以外にはあり得ないんだぞ」
言い含めるように諭したが、弾かれたようにマリアが顔を上げた。その目にはうっすらと膜が張っていて、それが嘘などではない事はさすがの由貴もわかる。
「だって……!!だってそうじゃない、あたし家の事全然出来ないし、最近歌もちゃんと歌えないし、何やったって上手くいかないし!今だってこんな風にヒステリー起こすし、だから由貴さんだって……!」
「……俺が――何だ?」
興奮気味のマリアとは対称的に、落ち着いた低い声音で由貴が問い返す。目をそらす事なく真っ直ぐに。一瞬気を呑まれたように口を噤んだマリアが、唇を噛み締めながら俯いて膝の上に水滴を落とした。一度零れると止まらずに、ぽろぽろと新たな滴が後を追った。
「最近――帰り遅いじゃない。仕事だって言ってるけど、本当?前はもっと早く帰ってきてくれてたのに……」
――嫌なのに。こんな勘ぐりする自分は醜くて嫌い。なのに止められないのはどうして?
震えた声音が痛々しかった。今まで一人そんな事を溜め込んでいたのかと、由貴は驚きと共に気づかなかった自分を腹立たしく思った。
守ると誓ったのに。不安にさせない、いつも傍にいると。本音の本音は隠してしまうマリアだからこそ、自分が気づいてやらなければならないのに。
「お前……俺が浮気でもしてるって言うのか?馬鹿、それはだな――」
「馬鹿だもん!だから不安なの!……あたし……あたし、こんなんで……本当に――お母さんになれるの……?」
――怖い。マリアの唇がそう動くも、掠れて言葉にならず消えていった。
至上の喜びと相反して、ずっと抱えていてた不安。目を背けていた自分の弱さが、二人分の体に重く圧し掛かる。押しつぶされそうで、この広い部屋に一人でいると叫びだしたくなってしまう。
静まり返った部屋に、堪えるような嗚咽だけが響く。由貴は難しい顔で考え込むようにして黙ったままだ。マリアの涙につられて、エルまで泣き出したい気分になる。胸の奥がぎゅっと痛くて、締め付けられる。人が泣くのはいつだって悲しい。いつも笑っていられたらいいのに――でもそれじゃ『幸せ』は見えて来ないのだろうか?
どうしたらいいかわからないから、ハマーでしてもらったようにマリアを抱きしめた。もどかしい。もう少し大きい人間の体だったら、もっと手が届くのに。
「マリア――泣かないで、マリア。マリアが悲しいと、お腹の赤ちゃんも悲しいよ」
「……エル、ちゃ……」
「マリアと由貴が喧嘩しても、悲しいよ。泣いてるの、聞こえる」
ハッとしたように二人が顔を上げる。やがて由貴が立ち上がり、エルを間に挟むようにしてマリアの隣へと腰を下ろした。手を伸ばし、未だ震えている細い肩をそっと抱き寄せる。もう片方の手で、プラチナの証が輝く左手を上から包み込んだ。二つの輪が重なって、照明に柔らかく光る。同じように由貴に抱きしめられる形となったエルが、揺れる眼差しで由貴を見上げた。大丈夫だ、と微笑を返す。
「……不安にさせて、悪かった。説明するから泣くな、お前が泣くと俺がヴァイスに殺される」
マリアの一番の親友が、かつて自分に言ったのだ。泣かせたら許さないと。由貴が幸せにしなかったら奪いに行くぞと冗談めかして。でも目は真剣そのものだった。受け止めて、誓ったのだ。
「最近遅かったのは、本当に仕事だ。――俺も産休を取れないかと上司に頼んだんだが、今抱えている企画を成功させたらと言われてな。……俺は産む事を手伝ってはやれないが、その後なら手伝える事もたくさんあるだろう?出来る限りお前の傍にいてやりたいと思ったんだ」
それが裏目に出てしまったな、と苦笑混じりにマリアの髪を撫でる。虚をつかれたように、マリアが呆けた表情で由貴を振り仰いだ。
「……本……当?だって、電話で女の人と話してるの――」
「だからそれがプロジェクト担当の上司。産休取りたいなら、自分の会社に対する価値を見せてみろって言われてな。先輩に聞いてみろ、知ってるはずだから。それにだな――俺が、浮気できる甲斐性があると思ってるのか?」
自分で言うのも何だか物悲しい気もしたが。だが事実、自分はそんな器用な事ができる人間ではない。仮に出来たとしてもやらないだろう、一番大切なものを失いたくはない。
「……思わない」
「ほら見ろ」
しばらくの間を置いて、マリアがプッと吹きだした。さっきまで泣いていたのに、もう笑っている。忙しい奴だと由貴は苦笑しながら髪を撫で続けた。だが笑ってくれてホッとする。やっぱりマリアは笑顔が一番いい。最後にその顔を見られるのならば、普段どれだけ悩まされようと胃痛を抱えようと叫ぼうと、そんな事は大した問題じゃない。
「だがちゃんと説明しなかったのは俺の落ち度だ。仕事に気を取られて失念してた、すまん」
「ううん、あたしこそ……勝手に思い込んで、変な事言ってごめんね?」
濡れたままの滑らかな頬を指で拭った。顔を近づけようとしてから、我に返ってさっきから黙ったままのエルの存在を思い出す。慌てて咳ばらい一つ、少し躊躇ってからマリアの額に軽く口付けを落とした。
「……お前が、母親だ。この子の母親はお前しかいないんだから。俺がなんのためにいると思ってるんだ、もっと頼れ。家事なんか任せときゃいいんだ、お前はもっと大変な仕事をしてるんだから。そして一人で抱え込むな、そのための夫婦だろうが」
「………うん」
よし、と由貴が満足そうに微笑む。こういう時のマリアも素直でおしとやかで悪くはないけれど、やっぱり普段の騒がしいくらいが丁度良い。……などと思っていると後で後悔するかもしれないが。
なんだかエルを挟んでこうしていると、近い将来を見ているようだと二人は思った。幸せどころか、随分恥ずかしい場面を見せてしまったとエルの様子を窺おうとしたその時。
『パパ』
「――!?」
『ママ』
「……えっ!?」
つい先程まで確かにそこにあったエルの温もりが、姿諸共どこかへ消えていて。代わりに届いたのは、たどたどしい呼び声。幼いそれは、まだ聞けるはずもない――でもそれ以外には考えられなくて。
空耳かと思って二人は顔を見合わせるも、はっきりと耳が覚えている。間違いない、あれは――


『もうすぐ……だから、待ってて』


「ちゃんと届いたかな?お礼になったかな?」
自問しながら、一人家の外からガラス越しに部屋の中を見つめるエル。本来の姿に戻った今の自分は、二人の目に映る事はない。すっかり夜の帳が下りた空の下、空中にふわふわと漂いながらエルは自分のささやかな贈り物に驚いている二人を、先刻までの無邪気な様子とは打って変わった慈悲深き眼差しで見守った。
別れを言うのが辛かったから、こうして出てきてしまったけれど。あんな素晴らしい『幸せ』を見せてもらって、ちゃんとお礼も言えなかった。だからせめてもの贈り物。愛されるあの子の声が届くように。
喜んでもらえただろうか?自分がいなくなって、マリアは少し悲しんでくれるだろうか?由貴は食べかけのクッキーに困ってしまうだろうか?
会えたのがこの人達で良かった。――心配しないで。いつだって私は、見守っているよ。ずっと、ずっと。
「――今日の良き日に寄り添う二人と小さな命に。いと高き方の祝福あれ」
荘厳な言葉が具現化したように暖かな光が渦巻き、辺りを包み込んでから夜の闇に溶けて行く。何もなかったように、またいつもの日常へと。ほんの少しの奇跡を残して。
白く透き通るような羽が、踊るように宙に舞っていた。






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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【整理番号/PC名/性別/年齢/職業】

【w3a287/王・星光(わん・しんくゎん)/男/32/魔皇・孤高の紫】
【w3a395/笹川・璃生(ささかわ・りお)/女/26/魔皇・直感の白】
【w3b517/瀬戸・マリア(せと・まりあ)/女/27/魔皇・激情の紅】
【w3c585/吉沢・由貴(よしざわ・ゆき)/男/27/魔皇・修羅の黄金】

ホワイトデー・恋人達の物語2005 -
水沢晶 クリエイターズルームへ
神魔創世記 アクスディアEXceed
2005年04月08日

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