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『六花 』
細雪・白4510


 遠く白い記憶――。
 ふわふわと舞い降りる六花は、冬天に広がった棚雲から一つ、また一つと剥がれ落ちる繊維のようだった。
 まるで重力を感じさせない柔らかな羽毛のように空に遊んで、暮れゆく街並みに薄朦朧(うすぼんやり)のフィルターをかける。
 一白の吐息の速度で、街は緞帳を下ろす如く、音も無く包まれてゆく。

 ゆるやかに流れる刻は、眼下に望む小径と大通りの時空を裂いて隔遠し、冷えた肩を抱く母娘の佇むベランダは、映し世を眺望する天つ国のように感じられた。
 降雪に家路を急ぐ人々の吐き出す白い息を、幼い娘は銀幕の世界を覗いているような感覚で瞰視していた。
 手の届かぬ遠い別世界にただ二人きり居るような不思議な気持ち。
 否、そう願ったのは他でもない、娘自身だったのかもしれない。
 大好きな母と過ごす時間は、彼女にとってかけがえのないものだった。
 ただ、悲しいことに、その当然の願いや想いを、決して口にしてはいけないのだという事を幼い娘は誰に教えられるでもなく知っていた。
 子供は、大人が思っているよりもずっと聡い生き物だ。
 大人達がその事実から目を背けたがるのは、それがひどく残酷な事だからではないだろうか。

 西天に残った終焉の橙(おれんぢ)が解れた天の織地の隙から、遮られた黄道光の残片を鋭く伸ばしている。
 その光の針先が薄らと化粧(けわ)い始めた大地に別れを告げていた。
 それは強く果敢ない残余。
 一度瞑目して再び瞳を開けたなら全てが昏い夜に支配されてしまいそうで、何故だかとても悲しかった。
 

 ――この時間が少しでも長く……ううん、ずっと続くといいのに


 恨み言など一度も口にした事のない心優しい娘の心の内を、敏感に感じ取れてしまう母もまた切ない想いを抱えていたであろう。
 逝く想いと、残る想いはどちらがより痛むのだろうか。


 ――願わくば、愛しい者に一つでも多く優しい想いが残りますように
 ――悲しみから立ち上がり歩みだす勇気を、涙を笑顔に変える力を
 ――多くの人を愛し、愛される本当の強さを忘れないでほしいから


 丁寧に編み込まれた娘の髪に舞い降りた一片の雪花を母は白く痩せてしまった手でそっと払い微笑を向けた。
 髪を結っている為、剥き出しになった娘の小さな耳が、冬空の下で赤く染まり、ちりちりと鈍く刺すような痛みを伝える。
 病魔に蝕まれた母の脆弱な身体を案じて不安な眼差しで見上げると、母はやはり微笑を返すばかり。
「明日の朝には積もりそうね。白、雪だるま一緒に作りましょうか。大きいのは無理だけど、小さな可愛いのを作りましょう」
「ほんと?」
 母の言葉に、娘の顔に歓喜が広がった。が、少女はすぐに目を伏せて俯いてしまった。
「でも……お母さんだいじょうぶ? 無理しちゃだめだよ? 雪ならきっとまた降るから、私はいつでもいいよ」
「大丈夫よ。お母さん、白と雪だるま作りたいわ」
 残された時間は極僅か。それは他でもない自分が一番わかっている事だから。

 大禍時。
 或いは、逢魔が時と呼ぶのだったか。混濁する時の狭間で“魔”は母を連れて行ってしまった。
 どんなに願っても時は止められない。
 雪のように白い肌、優しく笑んだ姿が暮れ残った甲夜に消え入りそうだったのを少女は今でも忘れない。
 
 
 ――それが細雪・白(ささめゆき・しろ)の母と過ごした最後の記憶だ。

□■

「シロちゃん、おはようさん。どうしたんじゃい……寝不足かい?」
「田丸のおばあちゃん、おはようございまーす。……やっぱり顔に出ちゃってます? ゆうべ症例研究のレポートがなかなか纏まらなくて……」
 白は、自分の頬をむにっと掴んだ後、気合いを入れるようにペチペチと叩いてから僅かに肩を竦めてみせた。
 彼女は看護の勉強をしながら、父の経営する病院の手伝いもしている。
 まだ見習い――要するに『看護学生』である彼女が出来る事と言えば、然程多くないと思われがちだが、実はこれが激務を極める。
 第一に当然ながら机上授業がある。これは一授業90分で四限までみっちり。一限の開始時刻が8:50で四限の終了時刻は16:50、これだけでも相当なハードスケジュールだ。
 基礎科目には倫理学や教育学などの他に英語や体育なんてものもあって、この点では高校の感覚に近いかとも思う。が、当然“それ以外”が看護学校のメインである。
「看護学」や「解剖学」などの専門科目は医師や看護師が教鞭を執るのだが、これが半端ではなく厳しい。学生達にも緊張が走る時間である。
 また、授業の合間には基礎実習なるものがあり、短期間とはいえ実際に患者を受け持ち看護にあたる。
 それに伴いアセスメントやら看護計画やら記録やらがほぼエンドレンスで続く中、平行して学校の行事なんかも多く、更に追い撃ちをかけて試験やレポート、実技テストまである。
 いや、ほんと。看護師は体力勝負なのだ。
 その上、封建的と言ってしまえば聞こえは悪いが、完全なる縦社会でノリはバリバリの体育会系。学生時代は肉体的にも精神的にもかなりツライ状況を強いられる。
 現に、白も疲労と睡眠不足のピークに達していた。
「シロちゃん大変じゃのう。あんまり根を詰めると倒れちまうよ。シロちゃんが元気じゃないと、あたしらまで具合が悪くなっちまうからね」
「あたしは元気、元気っ! 丈夫なのだけが取り得だもん。だから、おばあちゃん心配しないで……あれ? 足どうかしました?」
 小さくガッツポーズをしてみせた白は、老人の足に視線を落として覗き込んだ。
 白い包帯の巻かれた足は、体重を掛けないように庇われているように見える。
「ああ、これかい? 昨日挫いちまったようでねえ。痛むんで腰痛で貰ってる湿布を貼ったんだけどねえ、今朝みたら腫れちまっててね……あいたた」
「腰痛の? おばあちゃん温湿布使ったの? すぐに冷やした方がいいわ。新しい湿布持ってきますから、ここに座って待っててくださいね」
 老人に手を貸し、待合の長椅子に座らせると白は駆け出した。
「シロちゃん、そんなに慌てなくても……おやおや、行っちまったよ……」
 廊下を走ったりして、また怒られなきゃ良いんだけどねえ――そういや、先日は盛大に転んでたっけねえ。
 不安げに呟いて、白の走り去る後姿を見送った老人から知らず笑みが零れた。

 急ぎ戻ってきた白は手際よく湿布の交換を開始した。
「お薬や薬品は症状に合ったものを使わないとダメなの。違いは色々難しいんだけど……湿布だったら、ずっと痛む時は温かい湿布、急に痛くなった時は冷たい湿布って覚えておくと良いですよ。でも、分からない時は遠慮しないで聞いてくださいね」
「シロちゃん、まるで看護婦さんみたいじゃなあ」
「おばあちゃんったら。まだ“見習い”だけど、あたしだって『看護婦さん』ですよ」
 感心したように目を細めた老人に、白は頬を膨らませて抗議の視線を注ぐ。「そうじゃった、そうじゃった」老人が申し訳なさそうに頭を掻き、二人は声を上げて笑った。
「はい、これでもう大丈夫♪」
「少し楽になった気がするよ。シロちゃんありがとう」
 にっこりと見上げた見習い看護師に老人も笑顔を返した。こんな時が白の一番幸せな時間だ。
 一人でも多くの患者さんの笑顔が見たい。
『そのお手伝いをしたいから、あたしは看護師になるの』
 これは白の口癖のようなものだ。
「だけどねえ……シロちゃん包帯もう少しなんとかならんじゃろうか……」
「あれ? おかしいな……気合い入れて巻いたのに……」
 気合いだけではどうにもならない物も世の中には沢山ある。
 不恰好に巻かれた包帯に二人の口から大きな溜息が漏れた。
 憧れの看護師への道はまだまだ遠く険しい。

「シロちゃん、仕事あるんじゃないのかい? 呼び止めちゃって悪かったねえ」
「あっ! いっけなーい。おばあちゃん、あたしもう行くけど、ちゃんと足もお父……先生に診てもらってね」
 時計を確認した白は立ち上がるとバタバタと足音を響かせて廊下を走り出す。
「また、あんなに慌てて……ほんとに賑やかな子じゃ」

 ガッシャーーーーンッ!

 呟く老人の耳に、白が姿を消した廊下の先から派手な音が上がった。
「こうでなくっちゃ。シロちゃんお得意のドジがないと、やっぱり一日が始まらないよねえ」
 満足したように笑った老人は巻かれたばかりの白い包帯を愛しげに見詰めた。

□■

「皆さん、シーツの交換ですよ」
 病室に入りぺこりとお辞儀をした白に、入院患者の口から次々と言葉が飛び交う。
「シロちゃん、悪いんだけどね……後でお湯貰えるかい?」
「シロちゃ〜ん待ってたのよ〜。今朝から背中の筋が痛いの、ちょっと見て貰える?」
「ね、ね。シロちゃん。橋本さんの息子さん見たかい? 昨日見舞いに来てたんだけどね、これが色男でね……」
「シロちゃん、シロちゃん。お饅頭あるのよ。美味しいわよ。食べて、食べて」
 矢継ぎ早に言葉を浴びせられ、仕事もままならない状態であるが、白はにこにこと笑顔で接する。
 だからであろう。患者は白が病室に訪れるのをとても楽しみに待ちわびているのだった。

「……っ、そっちに皺がよっちゃいましたね。ごめんなさい、すぐに直しますから……あれ?」
 不器用なところが偶にキズだが、それもご愛嬌。
 白が患者に向けるのと同じように、患者が白に向ける眼差しもまた、とても温かい。
「遅くなっちゃってごめんなさい。もうすぐですから……大丈夫ですか?」
「いいんだよ、シロちゃん。気にしないで、平気だからね」
 シーツ交換の間、ベッド横の椅子に座って待つ患者を気遣い、申し訳なさそうに述べた白に、患者はからからと笑って返す。
 ベッドメーキングは簡単そうでいて実は奥が深い。
 何種類もの方法を覚えなくてはならないし、実技テストでは制限時間なるものもあり一人の教官がストップウォッチ片手に険しい表情でじっとこちらを睨んでいる。
 テストなのだから当然なのかもしれないが、その雰囲気に呑まれてしまい自然、手の動きがぎこちなくなってしまう。
 そんな訳で、白はこのベッドメークがちょっぴり苦手だった。
 テストではなく、実際に病室でシーツを交換するのも、患者を待たせているという緊張があり、やはり思うようにいかない。
「へったくそ」
 窓際の東のベッドから、小さな呟きが聞こえた。
 少し高いその声は、聞きなれないもので、白は眉宇を上げて寸考し、手を打った。
「キミが昨日入院してきた子だね。あたしは白っていうの。キミのお名前教えてくれるかな?」
「…………」
 晴れ渡る青空のような明るい笑顔で優しく問いかけたが、小さな男の子は無言のまま白に背を向けて掛け布団を被ってしまった。

「シロちゃん、シロちゃん。ちょっと……」
 同室の年配の女性が意味深に目配せして、白を手招きする。
「なんですか?」
「あの子ね、誰が話し掛けても昨日からずっとああなんだよ。あんまり気にする事ないよ」
 その言葉を聞いて、白は再び少年のベッドを振り返った。小さな背中は頑なに全てのものを拒絶している。
 しかし、その姿は何故だかとても寂しそうだった。

 それから、白の戦いは始まった。

□■

「ほら、もっと食べて筋肉ムキムキになって素敵な笑顔のお兄さんになろうよ! うーんと大きくなって、強くなって、エイッて病気もやっつけちゃうの」
「いらない……」
 目の前に差し出されたスプーンを手で払って、少年は窓へと視線を送る。
「どうして? 早く元気になってお家に帰りたいでしょ?」
「……帰りたくなんかない」
 頭まですっぽりと布団を被ってしまう少年に、白は静かに溜息を落とした。

 それでも白は決して諦めようとはしなかった。
 婦長に頼み、少年の食事を自らが作った。
 栄養のバランスに注意し、消化に気を使い、そして何より子供が喜びそうなメニューを考える。
 可愛いお弁当箱に詰めてみたり、色とりどりの野菜を型抜きして飾ってみたり――毎日、試行錯誤の繰り返しだった。
 その作業は白の睡眠時間を容赦なく削りもしたが、それでも彼女は途中で投げ出すことはしなかった。
 そして、少年も白の用意した食事を口にするようになっていった。
「美味しい? 今日はスープもあるよ。これ自信作なの。あたしのお母さんが昔作ってくれた“お袋の味”ってヤツね。気に入って貰えるといいな」
「ふぅん」
 少年は一匙のスープを口へと運び、聞こえるか聞こえないかの小さな声で「おいしい」と言った。
 白の顔が喜びに染まった。
 入院してから一度も笑顔を見せた事の無い少年の表情は、相変わらず変わる事は無かったけれど。

 白は時間が許す限り少年の元を訪れ、とりとめのない話をした。
 時には幼い頃の思い出話であったり、学校での出来事、仕事での失敗談、好きな本の話――内容は何だって良かったのだ。
 その多くは一方的に白が話しているだけだったが、それでも少しづつ、本当に少しづつであるが少年も白の問いかけに答えるようになっていた。
「ね、前にお家に帰りたくないって言ったよね? どうしてかな?」
「だって……ぼくが帰ったってお母さん喜ばないし……」
 思いもしない答えを受けて、白は首を傾げる。
「どうして、そんなふうに思うの?」
「だって、妹が生まれてからお母さん妹ばっかりだ。ぼくの話ぜんぜん聞いてくれないし……病院にだって来ない……ぼくはいらない子なんだ」
 目を伏せた少年の手を取って白は優しく言葉を紡いだ。
「そんな事ないよ、お母さんはキミの事が大好きだよ」
「どうしてお姉ちゃんにそんな事がわかるの」
 だって――口元に指を当てた白は、悪戯っぽく笑んで続けた。
「お姉ちゃんがこんなにキミを大好きなんだもん。お母さんはもっともっとキミを大好きに決まってるじゃない」
 大きく瞳を見開いた少年は、唇を噛んで視線を落とした。
「だったら……なんでお母さんは病院に来てくれないの」

「キミの妹は心臓が……少し弱いでしょう? 生まれてすぐに大きな手術をしたの覚えてないかな? 毎日たくさんお薬飲んでたでしょう?」
 少年は静かに頷いた。
「手術をすればちゃんと治るから心配しなくても大丈夫だよ。でもね、まだ小さいから体力がなくて一度に手術できないの。だから、お母さんはお世話で大変なの。でも、キミの事だって本当に本当に大切なんだよ」
「うそだ」
「嘘じゃないよ、お母さんキミの事が心配で、毎日病院に電話してきてるんだから」
 ね♪ 少年の頭をくしゃくしゃと掻き撫でた白は、左手の小指を彼の目の前に差し出した。
「?」
「早く元気になってお家に帰ろう? お母さんと妹を守ってあげられるのはお兄ちゃんのキミだけだもんね。キミが早く元気になるように、お姉ちゃんも頑張るから! ね、約束♪」
 小さな手で涙を拭った少年は、初めて笑顔を見せた。
「うん!」
 夕暮れの陽が射して、指きりの黒い影が病室に長く伸びた。

□■

「明日は退院だね。ね、最後だしお姉ちゃんと一緒に雪だるま作ろ☆」
「外に出てもいいの?」
 白の誘いに少年の瞳が輝く。
「そのままじゃダメだよ。ちゃんと温かくしなくちゃ。はい、コートと手袋。マフラーはお姉ちゃんの貸してあげるね」
「ちぇ。なんかお母さんみたい」
「それじゃ、今日はお姉ちゃんがキミのお母さんだね」
 少年の首にマフラーを巻いて、白はくすりと笑う。
「ぼくのお母さん、姉ちゃんみたいにドジじゃないよ」
 イーッと舌を出して、走り出した少年を、口を尖らせた白が追いかける。二人の笑い声が廊下を走り抜けてゆく。

 少年と一緒に大きな雪だるまを作り終えた白は、その横に小さな雪だるまを並べた。
「そんな小さい雪だるま、どうするの?」
 屈んで覗き込んだ少年が不思議そうに首を傾げると、白は空を仰いだ。
「これは、あたしのお母さんに。……あたしが笑うとね、お母さんも笑うの」
「お姉ちゃんのお母さん?」
 少年は白の小さな雪だるまの横に、同じように小さな雪だるまを作りながら空を見上げた。
「うん。キミが笑顔だと、みんなが笑顔になるよ。キミのお母さんも、妹も」

 翌日――
 迎えに来た母に手を引かれて、少年は病院を後にした。
 何度も何度も振り返り、笑顔で手を振って。
 白と、門に並んだ三つの雪だるまは、並んだ母子の後姿が見えなくなるまで、いつまでも見送っていた。




=了=





■■□□
 ライターより

 細雪・白様、はじめまして。幸護です。

 この度はご指名頂きまして有難う御座います。
 私の体調管理が至らなかった所為で、
 大変お待たせしてしまいまして本当に申し訳御座いません。

 頂いたテーマで精一杯書かせて頂きましたが、如何でしたでしょうか?
 少しでもお気に召して頂ければ幸いです。
 もしイメージが違う等御座いましたら、ご連絡下さいませ。
 以後、気をつけさせて頂くと共に、今後の参考にさせて頂きます。

 白さんは、とても素敵なお嬢さんで、幸護も楽しく執筆させて頂きました。
 またお逢い出来る機会があればとても嬉しく思います。
 この度は本当に有難う御座いました。
 


 幸護。
PCシチュエーションノベル(シングル) -
幸護 クリエイターズルームへ
東京怪談
2005年04月05日

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